3
めくり忘れたカレンダーをまとめて破くように時は経ち、あっという間にその日を迎えた栄治は港に来ていた。
そして目の前の物が信じられず彼の口は自然と開いていた。
彼が見上げたある船。
まさか、これは……。
白い船体。それはクルーズ船としては珍しいものではない。問題は「ファンネル」と呼ばれる船の煙突部分だった。赤くそびえ立つ偉大な塔のようなその姿。
これは、いや、まさか、「やおよろず丸」なのか……。
そこにある船はかつて栄治が見た「やおよろず丸」そっくりだった。しかしそんなはずはない。あの呪われた船はとっくに解体されたはずだ。そう思い、よく見直してみると一つだけ違う場所があった。ファンネルに付けられたマーク。船会社独自のマークがつく、その場所には「B」のデザインが施してあった。
頭文字が「B」だって? まさか……。
「どうです? 『新やおよろず丸』は」
後ろから聞き覚えのある声を掛けられた。振り向くとやはり井奥だった。
「まさか、これは、造ったんですか? 一から船自体を? 今日の日のためだけに?」
毒島が金持ちだということはもちろん栄治も知っているつもりだった。しかしまさか船を一から造ってしまうとなると桁違いの話になる。まあ、今の時代、十万トンを超え、千人を乗せる船もある。それに比べれば確かに数十年前の船に似せたこの船は小さい方だろう。それでも普通の個人が気軽に出せるような金額でないことは間違いない。
「まあ、今日だけのため、というわけでもないようですが」
井奥は苦笑いを浮かべていた。
「しかし『呪われた』とまでいわれた『やおよろず丸』そっくりに造ってしまうなんて……」
「当然反対はありました。でも最後はやはり毒島の独断で」
毒島の力の大きさを改めて栄治は感じた。そして悪趣味さも。
「私もこれから乗るんです。一緒に乗りましょう」
そう言った井岡の後に付いて栄治はタラップを昇り船へ乗り込んでいった。
「外観、内装は昔のやおよろず丸にそっくりですが実際は別物ですよ」
歩きながら井奥が説明をしてくれた。見た目の歳のわりに彼の歩きはしっかりしていた。
「エンジン、設備、中身は全て最新式です。ご心配なく」
栄治の不安を見透かすように井岡はそう言った。
「毒島はレセプション、つまりホテルで言うところのフロントですが、そこでお客様の応対をしております」
あの毒島に会える。会って話が聞けるかもしれない。栄治の胸に妙な高鳴りがあった。
「何だ、この船は! 遺族を馬鹿にしているのか!」
もうすぐレセプションというところでだった。栄治たちの耳に怒号ともいえる大きな声が聞こえてきた。デスクの前で二人の男が言い争いをしているようだった。
一人はかなり年配の男性。杖を付いていて、それに両手で寄りかかっていた。怒りのためか体全体が震え、血が登った真っ赤な顔はいつ倒れてもおかしくないように見えた。
もう一人は栄治と同じくらいの年齢に見えた。かなり太ってはいたが、背が低く白い肌は写真や映像で見覚えのある姿だった。毒島だ。彼は左手を顔の前で大袈裟に振りながらこう言った。
「馬鹿になんてとんでもない。追悼のためですよ。呪われたといわれる船と同じ姿の船で遺族たちが追悼クルーズを行う。それこそが本当の供養になるのです」
毒島はもっともらしくそう説明していた。だが相手は栄治と同じようにこの船が悪ふざけの賜物であるとしか感じていないようだった。
「そんなものが供養だと! どうやらあんたとは話しても無駄なようだ。私は降りさせてもらう!」
男は床に刺すような勢いで杖をつきながらよろよろと立ち去って行った。後味の悪い空気だけがその場に残り、辺りはしーんと静まり返ってしまった。毒島が小さく舌打ちしたのを栄治は聞き逃さなかった。
「会長、宜しいですか?」
そんな空気の中で井奥は何事もなかったかのように毒島に話しかけた。栄治は重い空気が少し落ち着いたような感覚を覚えた。慣れている。さすがは彼の秘書というべきか。
「ああ、なんだ?」
「お客様をお連れしました。こちらが先日お話した先生です」
「ほお! あなたが」
そう言った毒島の視線は栄治を品定めするように動いた。そしてそれが終わると彼は一瞬で見事な作り笑いを浮かべた。
「井奥から話は聞いておりますよ、蒲生さん。なかなか有名な小説家なのだそうで」
その口振りから毒島が栄治を今まで知らなかったのは明らかだった。
「昔の恋人がやおよろずに乗っていたそうですな。いやあ、ロマンチックなお話じゃないですか。若き日の悲劇の恋というわけですなあ」
栄治は会って十秒と経たないうちに毒島が人を不快にさせる天才だと気付かされた。
「昔の恋人を偲んで追悼クルーズ。どうです? 創作意欲を掻き立てられるんじゃないですか?」
栄治はピンときた。井奥は金にならないと言っていたが、この男が考えているのは追悼クルーズそのものでの金儲けじゃない。おそらく今回は単なる話題作りなのだろう。呪われた船そっくりの船で追悼クルーズを行い、話題を作った後でそれを利用して色々と金儲けを企んでいるに違いない。小説家である自分が参加できたのも宣伝の一つというわけだ。
そっちがその気ならこっちも遠慮などしない。
栄治は永年聞きたかったことを単刀直入に問いただした。
「毒島さん、あなたがあの時の、やおよろず丸での記憶を無くしているという話は本当の事なんですか?」
それを聞いた毒島の作り笑いが消えた。おそらく何度も聞かれ、うんざりしている質問なのだろう。
「本当ですよ。私はあの日いったい何が起きたのか、まったく記憶が無い。だから答えようが無い」
テレビや雑誌で何度も見た、同じ答えだった。
「噂では、意識不明で発見されたあなたの周りには体の一部が欠損した凄惨な死体が数多く散らばっていたとか。よくあなただけが助かりましたね」
「ああ、そうらしいですな。私はのんきに死体に囲まれお昼寝していたってわけだ。でも全然覚えていない。気がついた時は病院だったんだが、その話のせいでこともあろうか私を犯人扱いする奴もいてね。大変だったよ」
「失礼ですが、どこまで覚えていて、どこから覚えていないんですか?」
栄治は以前からずっと聞いてみたかったことを聞いた。マスコミは記憶喪失という派手な部分ばかり取り上げていて具体的に彼が覚えているもの、覚えていないものについては報道されたことがなかったからだ。
「私はやおよろず丸の船長と遠い親戚だった。やおよろず丸は当時日本で初めてと言っていい本格的なレジャークルーズを行う目的の他に、移民の一部も乗せていた。私は金が無くてその中にすら入れなかった。だから船長に土下座してまで頼み込んで雑用みたいな感じでやっと乗せて貰ったんだ。正式な船員たちには馬鹿にされ、扱き使われたが海外移住に希望を持っていた。絶対に成功してやる。それだけを支えにしていた。出航して一週間後ちょっとしたパーティーをやるなんて聞いたがもちろん俺には関係の無い話だった。自分は船の下の方で汗まみれになっているのに上ではドレスで着飾ったやつらが見たことも無い『パーティー』なんてことに興じている。すごく羨ましいと思ったのは覚えている。だがそんなことくらいだ、記憶にあるのは」
苦々しく話すその表情は嘘をついているようには見えなかった。
「だが私は生き残った。何が起きたのか覚えてはいないがとにかく生き残った。そして強運を手に入れた。これは思い出せない不確かな記憶なんかじゃなく私が手にした現実だ」
自分一人が生き残ったということに対して毒島は歪曲した誇りを持っているようだった。その表情を見る限り記憶が無いのも本当のことらしい。早くも目的の半分を失い、栄治はがっかりした。
「そうですか。わかりました。……最後にもう一つ良いですか?」
ふと聞きたいことが浮かんだ。
「何だね?」
「なぜ『今』なんですか? 三十四年も経って、急に追悼なんてものを思い立ったのはなぜですか?」
「そんなことか。正直に言うと自分にもわからんのだよ。ただ一つ言えるのは……」
栄治はその後に続いた毒島の言葉が暫く頭から離れなかった。
『そうしなければいけない気がしたんだ』
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