新時代の象徴たる豪華客船の門出。


 華やかな出航の様子は確かニュースでも取り上げられたはずだ。


 幾人かの有名人(もちろんその中には根津寅吉も含まれていた)を乗せて豪華客船が二週間の優雅な船旅に出発しました。夢のクルーズ。いやあ、羨ましいですね。


 そんな取り上げ方だった。


 僅か一週間後。


 いつものように小説を書いていた栄治は息抜きにテレビを見始めた。


 一週間前にやおよろず丸の出航を伝えたのと同じニュース番組で同じアナウンサーが何かを話していた。ところが一週間前とは全く違うことがひとつあった。表情だ。一週間前、笑顔で羨ましいと言っていたその顔は無表情とも言えるほど固く真面目だった。


 アナウンサーは言った。


 やおよろず丸、謎の失踪。行方わからず、連絡も取れなくなり、捜索開始。


 次の日にも。


 やおよろず丸、洋上で発見。しかし多数の死者と行方不明者がいる模様。生存者は意識不明の青年ただ一人。


 寅吉は死者の方で洋子は不明者の方だった。


 いったい何が起きたのか? マスコミは連日このニュースを取り上げ世間は大騒ぎとなった。


 これがただの事故でないことは明らかだった。数百という死体の中にはまったく外傷の無いもの、それとは逆に見るも無残に傷つけられたものがあり、さらに百数十人という行方不明者の捜索が全力で行われたが何一つ見つからなかった。


 最初に有力だと言われたのは海賊説。しかし多くの裕福な人たちが乗っていたにもかかわらず金品は盗まれた様子がなかった。それに誘拐されたにしては不明者の数が多すぎたし身代金の要求も一切なかった。結局この説も仮説の一つに過ぎなくなった。


 やがて人々は一つの噂をし始めた。


 やおよろず丸は海の亡霊に呪われた。


 非科学的でもなぜかみんな納得するような説だった。


 このように世間が騒いでいた時、自分は何をしていたか、栄治は未だにはっきりとは思い出せなかった。自分の部屋で泣きじゃくったり、錯乱して洋子の家に押しかけ、寅吉の部下に追い返されたり、そんなことは心配して付き添っていてくれた友達から後になって聞いた話だった。


 ようやく自分を取り戻し冷静に事件のことを調べ始めると栄治はあることが気になってきた。


 そう、唯一の生存者。


 もちろんマスコミも早くから彼に注目していた。何が起こったのか目撃した唯一の人間。その証言が全ての謎を解き明かしてくれるかもしれない。


 そして警察の発表が行われた。


 青年は意識を取り戻したが、強いショックを受けており記憶喪失の状態にある。有効な証言は得られそうにない。


 がっかりしたマスコミはそれでも諦めなかった。彼が退院すると取材が殺到した。色白で背の低い陰気な男。彼はカメラの前でも何も覚えていないを繰り返した。言うことはいつも同じで次第に取材も減っていった。


 彼に会って何でもいいから話を聞きたいと思っていた栄治も報道を見る度に諦めが大きくなっていった。


 やがて他に大きな事件が起きるとやおよろず丸の事件は少しずつ小さく扱われ始めた。そしていつの間にか完全に報道されなくなってしまった。


 数年毎に、みんなが忘れた頃に、過去のミステリー事件のような形でふと思い出されて特集される。


 やおよろず丸の事件は報道から離れ、バラエティー番組で取り上げられる都市伝説のような、それだけの存在になっていった。そしてそんな時は視聴者の興味を引っ張るため、決まり事のように唯一の生存者である青年の現在が紹介されていた。


 五年後。


 船に苦しめられたはずの彼はなんと再び船に乗り、貿易関係の仕事をなさっています。


 さらに十年後。


 彼はなんと自分で会社を興されて現在は貿易会社の社長さんなのです。


 さらに二十年後。


 あの有名な世界的富豪である毒島グループの会長さん、毒島洋孝さんはなんとあのやおよろず丸の唯一の生存者だった方なのです。


 毒島洋孝は今やかつての根津寅吉をはるかに凌ぐほどの大金持ちになっていた。


 栄治は事件後数年はやおよろず丸のことを徹底的に調べ回っていた。その間にも小説は書き続け、いつの間にか作家としてそれなりに本を出せるようになっていた。


 少し名の売れた栄治は意を決し、本を書くためという名目で毒島に取材を申し込んだが、次第に大物になっていく彼には結局現在まで会うことすら出来なかった。


 やはり真相には近づけないのか、洋子に何が起きたのかわからないままなのか、と諦めの気持ちが大きくなっていた頃に栄治は親類の紹介で篤子と見合いをした。


 正直最初は乗り気でなかった。しかし話をしていくうちに彼女が洋子とはまったく違う魅力を持った女性だと気付いた。洋子以外の女性と結婚を考えたことは自分でも意外なことだった。


 結婚を機に過去を引きずるのはもう止めよう。


 そう思った栄治は洋子との思い出の品を捨て、二人のための新しい家を買うことにした。ところが色々物件を見て回るうちに彼はあることを知ってしまった。


 洋子の家のあった場所が売りに出されている。


 社長を失った寅吉の会社はとうに人手に渡っていた。かつての豪邸も取り壊され広すぎる土地は三つに分けて売られていた。三つ全てという訳にはいかないが一つだけなら買えない金額ではなかった。


 栄治は悩んだ。洋子を忘れるために篤子と始めるはずの新しい生活。それなのに思い出のあるその土地を買うなんて馬鹿げている。でもなぜか自分がそこを買わなければいけないような気がした。でもそれは何も知らない篤子に悪いと思い、栄治は思い切ってその時に自分の過去のことを全て話した。


 昔の恋人の住んでいた土地を買いたいなんて最低よ! きっとそう怒るだろう。そうすれば自分も諦めが付く。かってにそう思っていた。


 買えばいいじゃないですか。


 その一言だけだった。そこには嫌味など感じられなかった。本気で賛成しているのだ。慌てて栄治は「でも」とか「いや」とか口籠った。これではどちらが言い出しっぺなのか、わからなかった。


 そうしなければいけない気がするんでしょう? 私はあなたの勘を信じます。


 もう何も言い返せなかった。


 こうして栄治はかつての恋人が住んでいた土地に今も住むことになったのだ。





「……というわけで今回追悼クルーズを企画しまして、遺族の皆さんには無料で参加して頂こうということに……、あの、蒲生さん聞いてらっしゃいますかな?」


 回想中に突然話かけられた栄治は思わず悲鳴を上げそうになったが、それを必死に押し殺し、何食わぬ顔で答えた。


「あっ、はい、もちろん聞いてますよ。つまり事件から三十四年経った今、自分の会社の実質的な経営から身を引いた毒島さんが、あの時に同乗していた多くの犠牲者たちを追悼しようと考えられたという事ですよね? あなたは秘書として犠牲者たちの遺族を捜し歩いて追悼クルーズに誘っていると」


「そうです。それで蒲生さんはどうなさいますかな?」


「えっ、私ですか? いや、私はたまたま根津さんの家があった場所に住んでいるというだけで親類でもなんでもないんですよ」


 そう言いながらもそれがたまたまなどではないことを栄治は知っていた。


「わかっています。毒島からも追悼クルーズに招待するのは犠牲者の近しい親族を中心にするように、と仰せつかっています。しかし先程のあなたの話を聞いた限り、あなたは根津洋子さんに非常に近しい人だと私は判断します。あなたはこのクルーズに参加する資格がある、いや、そういう運命にあるとさえ私は感じました。毒島には私がうまく説明しておきます。どうぞ胸を張って参加してください」


 井奥の真剣な眼差しに栄治は数秒だけ考え「わかりました」と頷いた。


 止まっていた時がまた動き出すような予感。


 篤子の声が聞こえた気がした。


 そうしなければいけない気がするんでしょう? 私はあなたの勘を信じます。


 栄治は心の中で頷いた。


「ただ、気をつけて欲しいのです」


 井奥はそう付け足した。


「ここからは毒島の秘書としてではなくプライベートな発言として聞いて頂きたいのですが……。毒島洋孝は決して追悼などという高尚な考え方のできる人間ではありません。損得を真っ先に考える、いわばお手本のような守銭奴です。現にこの数十年間、彼は真相を知りたいという数多くの遺族たちからあった面会の申し出を断り続けてきたのです。なぜ今更、金になりそうも無いことをやろうとしているのか、私は不気味でしょうがない」


「……ちょっと驚きました。あなたは長年、彼の秘書をなされているんでしょう? 随分な言い様ですね」


「長年見てきたからこそかもしれません。私が彼を手伝い始めたのはまだ彼が会社を興してすぐの頃だったのだが、正直、彼には商才なんてものはありはしなかった。彼は自分の損得ばかりに執着する人間でそのため折角の客と揉めた事も多かった。ところが彼は異常なほど運に恵まれていた。絶対儲からないと周りが反対していた事業が当たったり、邪魔になるライバル会社が予想もしない失敗をやらかして潰れたり、そんなことばかりでね。尊敬は絶対にできないが敵にも回したくない、そういう人間なんですよ、彼は。私は彼から敵とみなされたくないという理由だけで秘書を続けてきたようなものなのです」


 自嘲気味に井奥は笑った。


「……ところでこれもプライベートなお願いなんだが、その、サインを貰えないですかな、蒲生先生? 実は昔からファンなのですよ。『桜嫁奇談』は実に面白かった」


 栄治は驚いた。「桜嫁奇談」という作品はデビュー作、つまりは洋子が受賞を一緒に喜んでくれた、まさにその作品だったのだ。先程、洋子との思い出話をした時もその具体的な名前は出さなかったはずなのに。


「私のことを知ってらっしゃったんですか?」


「私は活字中毒でしてね。底は浅いが広くは読んでるつもりです。先程玄関であなたを見た時、すぐにあの『蒲生栄治』だとわかりましたよ、先生」


「私が話している間、ずっとそれを黙っていたんですか。人が悪いですね」


「なにしろ毒島洋孝の秘書ですからな」


 二人は笑った。


 その後クルーズへの参加を約束させると井奥は帰っていった。


 栄治は一人きりに戻るとふっと溜息を吐いた。


 何かが待っている、そんな気がしていた。







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