やおよろずクルーズ
蟹井克巳
1
揺れ。
囁き。
願い。
呼んでいる。
そして……、消えていく……。
また、あの夢か……。
栄治はベッドの上で身を起こし軽く息を吐いた。溜め息だ。
近頃、目が覚めるといつもこんな感じだった。しかし「また」と言っても実はその内容をはっきり覚えているわけではなかった。
覚えてはいなくても同じ夢だったという感覚だけが残っているのだ。
ただ、今日はなぜかいつもと少し違う気がした。残っていたのは「また」という感覚だけじゃなく、胸をくすぐられたような、そう、それは「懐かしさ」だった。
……洋子?
ふと浮かんだ名前。それは夢と関係ある気がした。
もう三十年以上経つというのに……。乗り越えたはずだったじゃないか……。
栄治は思いを断ち切るようにベッドから降りた。寝室を出て階段を降り、顔も洗わずまっすぐ向かったのは仏壇の前だった。
篤子……。
ごめんな。でもなぜ君の方は死んでから一度も夢に出てくれないんだ? 寂しいじゃないか。
手を合わせながらそんなことを思い、彼はまた溜息を吐いた。
かつて愛した元恋人の夢。仏壇の上に飾られた愛妻の遺影。
もうどちらもいない人間なのだから今更そこまで気にしなくてもいいのだろうが、どうも罪悪感を覚えてしまい寝覚めが悪かった。
起きたばかりなのに妙な疲れを覚えた栄治はよろよろと立ち上がり、リビングに向かった。壁の時計に目をやると、もう朝の十時近かった。もうこんな時間なのか。彼は自嘲気味に笑った。
妻が生きていれば誰かがとっくに訪ねてきている時間だ。彼女は控え目で目立たない性格だったのに、なぜかやたらと友達の多い人間だった。そのため常に賑やかだった家も今はひっそりとしていて、まるで彼女と一緒に家まで死んだようだった。
あいつがいないだけでこうも変わるとはな……。
妻が死んで六年、変わったのは家だけじゃない。明らかに出っ張ったお腹をさすりながら栄治はそう思った。あの頃、自分の体は自分の物なのに、まったく自分の管理下にはなかったのだ。一人暮らしとなってみてからの発見の一つだった。
彼は取り敢えず顔を洗い着替えをしたものの遅めの朝食を摂るか摂らないかで悩んだ。妻が生きていれば間違いなく摂っていた朝食だ。昔は食べるのが当たり前だと思っていたが、今はわりとどうでもよくなっている。それもある意味発見の一つだった。
この日、彼が何度目かの溜息を吐いていると突然玄関のチャイムが鳴った。おかげでまた溜息が出てしまう。相手を待たせるのはわかっているが、ひどく億劫で、ゆっくり玄関に向かった。篤子ならいつも小走りだったというのに、と思うとまたもや溜息が出てしまった。
鍵を開け、ドアを開くと見知らぬ老人が立っていた。頭は真っ白で皺も深いが品がいい感じで「年寄り」という言葉は似合わない感じだ。あえて言うなら「爺」だろうか。
「お休みのところ、突然すみません。あの、こちらは、この住所ではないのですかな?」
男はそう言って一枚の紙を差し出した。そこにはひとつの住所が書かれていた。
ぱっと見た瞬間は自分の家の住所に思えた。しかし僅かな違いがあることに栄治はすぐ気づいた。
「これは……!」
栄治の動揺を相手は見逃さなかった。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ、失礼しました。えーと、これは正確には、うちが建つ前のこの辺りの住所になりますね。昔ここにはうちを含めて三軒分の土地に大きな屋敷が建っていたんですよ。これはその時の住所なんです」
「そうなのですか。そこには根津寅吉さん、根津洋子さんという方たちが住んでいませんでしたか? あっ、申し訳ない。今、ここに住んでいるあなたがご存知のわけないですなあ」
思いがけず「根津洋子」の名を聞き、栄治は驚いた。他人の口からその名を聞くのは何十年ぶりだろう。そして今朝見たあの夢との繋がり。ただの偶然なのだろうか?
それにしてもこの爺さんは今更ここに何しに来たんだろう?
「いえ、知っていますよ。間違いなく、ここは根津さんのお屋敷でした。実は私は昔、彼らと知り合いでしてね。でも二人共、もう亡くなってしまったんです。ある不幸な事件がありまして」
「その事はもちろん承知しています。三十四年前の『やおよろず丸』の事件のことでしょう? なにせそのために私は今日ここに来たのです。それにしてもお二人を知る方が今ここに住んでいらっしゃるとは。何か縁を感じますな」
栄治の頭の中が一瞬で真っ白となった。やおよろず丸、それは決して思い出したい名ではなかった。しかしその一方で最近見ていた夢の意味がここにあるのだという確信が彼の心に湧いていた。
「と、取り敢えず、お上がり下さい。ゆっくり話しませんか? 長い昔話になりそうですし」
どうしてもこの老人から詳しく話を聞きたくなって、栄治は半ば強引に遠慮する彼を家へ上げた。リビングに案内し慣れない手つきでお茶を煎れていると突然老人が声を掛けてきた。
「ほお、なかなか面白いですな」
いったい何の事だろうかと男の目線を追うとそれは壁に掛けられた絵のことだった。普段はそこにあることすら全く意識していないものだ。
「ああ、それは死んだ妻の趣味でして。なんと言う画家だったかな? 買った時は、まだ若くて全然無名の奴だったんですよ。妻はそんなのを買うのが好きでね。でも、妻が死ぬ少し前に言ってたんですが、今じゃこの画家はわりとその筋では有名な先生になっているらしいですよ。私は毎日見ても何が描いてあるかすらわからないですが」
何本かの黒い斜めの線の周りに大きさの違う色違いの円がばらばらと描かれている、子供の落書きと言われれば納得しそうなそんな絵を見ながら、栄治は妻の笑顔を思い出し、少しほっとした。
これからこの老人と話をしながら昔の事を色々思い出していかなくてはならない。それは懐かしい一方、ひどく辛い作業となるだろう。妻との思い出はそれを中和してくれそうだった。
お茶を一口啜ると、男は自己紹介を始めた。井奥毅、それが彼の名だった。毒島洋孝の秘書だという。栄治は驚きを隠せなかった。毒島というその名を知っていたからだ。ある時期ずっと注目し、追いかけていた名だった。
井奥は話を続けた。栄治はそれに相槌を打ったり、自分の知っている事、体験した事を話したりした。他人が見れば一見彼らの会話は成立していただろう。しかし実際は、毒島の名を聞いたあたりから栄治の頭の中はぐるぐる回っていた。
どこかで自分の知らない奴が井奥と会話していて、それを自分が遠くで聞いているような感覚だった。井奥の説明と自分の体験とが頭の中でごちゃごちゃに混じり合ってしまったかのようだった。
狂ってしまいそうで、栄治は井奥には気づかれない様に平静を装いながらも必死に頭の中を整理し始めた。
三十四年前、蒲生栄治は小説家を志す二十六歳の若者だった。
彼は話のネタを集めるため、とにかく経験を積もうと決意し、様々な仕事を渡り歩いていた。
そんな折、働き出したある会社で出逢ったのが根津洋子だった。
二人はあっという間に恋に落ちたが、洋子の父である寅吉は戦後一代で貿易商として成功した有名人であり、洋子は社会勉強と称して父の会社で働いていたお嬢さんだったため、転職を繰り返しているような不安定な若造との交際が認められるはずもなかった。
栄治は追い出されるように寅吉の会社を辞めさせられたが、それでもお互い別れたいとは思わなかった。そして二人は人目を避けて密会するようになった。
口には出さなくても二人は将来への不安でいっぱいだった。
ところがそんな時、栄治の書いた小説がある賞を獲った。
余程の小説好きしか知らないようなマイナー雑誌の小さな賞。それでも洋子は子供のように喜んでくれた。「これで、『せんせえ』、だね」と彼女は無邪気に笑った。俺が先生? 可笑しくなって栄治も思わず笑った。こんな小さな賞をとっても将来の何の保障にもなりはしないと自分では冷めていたのに、洋子につられて希望を抱けるようになっていた。そんな矢先のことだった。
やおよろず丸。
その名を栄治が洋子から聞いたのはどんな場面であったろう? 身分違いの二人の恋を密かに応援してくれるマスターがいたあの喫茶店でのことだったろうか? それとも当時住んでいたボロアパートか? そのあたりの栄治の記憶は曖昧だった。
父親と二人だけで一ヶ月ちょっと旅行することになった、洋子はちょっと不安そうにそう言った。彼女の母親は洋子と栄治が知り合う前にもう亡くなっていた。片道二週間かけた船旅。その彼らの乗る船の名が「やおよろず丸」だった。
元はいわゆる移民船でありブラジルなどに多くの海外移住者を運んだのだろう。名前も違うものだったらしい。それが日本での本格的なレジャークルーズが始まった際に貨物室を客室に改装し、これからの数え切れない航海を期待して「やおよろず(八百万)丸」と名づけられたのだ。
いい機会だから父に時間を掛けてあなたのことを話してみる、洋子はそう言った。
柔らかな笑顔の中に強い決意のようなものが見えた。
きっと大丈夫、任せて。帰ってきたら、あなたが挨拶できるようにしておくから。彼女の笑顔は希望の象徴だった。
出港の前の日に別れを済ませ彼女は旅立って行った。
寅吉に見つかるとまずいので出航当日はあえて会わなかったのだ。
そのことが後に晴らすことの出来ない後悔に繋がるとはこの時の栄治は知る由もなかった。
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