ぼくがいないみたいに
空岸なし
ぼくがいないみたいに
彼女は口をきいてくれない。
「どうしたの」「聞こえてないの?」「こっち向いてよ」
と、どんなに話しかけても全く反応してくれはしない。
一緒に出かけ隣を歩きながら冗談を言ってみても、彼女の好きなカフェを指さしてみても、このネックレス似合うよと言っても、顔の前に手を振りかざしても、彼女はなにも反応してくれない。
それどころか彼女は僕を無視して一人で歩いていったりする。行かないでと言ったって聞く耳を持ってはくれない。
まるで、僕がいないみたいだ。
彼女には僕が見えていないのだろうか。
僕の声が聞こえていないのだろうか。
彼女は家にいるときよく泣く。
どうして泣いているのか聞いたって、当然聞こえることはない。
でも彼女が泣くとき、その手には決まって僕がプレゼントした二人おそろいの懐中時計が握ってある。
泣いている彼女を見ていると僕も一緒に泣いてあげたくなるけれど、彼女にとって僕はいない存在なのだからとため息が出てしまう。
そういう日はすぐに布団に入るのがいい。彼女と僕はいつも一緒に布団に入る。
そうして彼女が僕に寝顔を見せてくれるこの時間だけは、言葉が必要のないこの時間だけは、少しだけ彼女に近づけた気がする。
彼女が僕の前で安らかに眠ってくれる、それが彼女の言葉のように思えてとても愛おしくなる。
僕はそんな彼女の頬に触れようとした。
でも、当然触れることはできなかった。
次の日起きると、彼女がベッドの横に立っていた。
ただじっと立ち続ける彼女にどうしたの、と声を掛けると彼女は動き出し、そのまま玄関へ向かった。どうやら外へ出るらしい。
僕は待ってと言ったがいつものように待ってはくれない。慌てて外へ出た彼女を追いかけた。
まだ朝6時。住宅街はひんやりと静かだった。
歩く彼女はそのまま駅へ入っていき、ちょうど来た電車に乗った。
彼女はいったいどこへ向かっているのか。
この電車の方面で、僕にはなんとなくわかる気がした。
座席に座った彼女はいつものように静かだ。
けれどなぜだろう、いつもより綺麗だと思った。このまま離れたくないなと思った。このままでいいから、声が聞こえなくたっていい、見えなくたっていい、触れられなくたっていい、どこにも行かないでほしいと思った。
だから僕は、隣に座る彼女の手を握ろうとした。
肩が触れ合うくらいの、絶対に届かない距離。
この距離のまま、電車が止まらなければいいのにと僕は思った。
ある駅で彼女は立ち上がり、電車を降りた。僕もついていく。
そこは見覚えのある駅だった。というよりかは、駅から見えるこの眩しく光る海に見覚えがあった。
彼女も少し、海を見ているようだった。
潮風が一つ吹くと彼女が歩き出したので、そのまま僕らは駅を出た。
そして僕は彼女の隣に並んだ。彼女についていくためにずっと後ろを歩いていたけれど、もうついていく必要もなかったからだ。
少し歩くと岬の近くにある公園に着いた。
園内にはたくさんの花が咲いていて、彼女はたまに座り込んではまた歩き、また座り込んではじっとするのを繰り返していた。そのつど僕も一緒に座って花を見た。
二人同じ道を、同じものを見て歩く。
まるで、幸せだったかつての僕らのようだった。
そうやってゆっくりと歩きながら、ずっと続く花壇に沿って坂を登ると視界が一気にひらけ、岬の上から広い海を一望することができる展望台に着いた。
隣にいた彼女はそのまま歩いていく。
けれど、僕は思わず立ち止まってしまった。
この場所は僕にとって強い思い入れのある場所ではあっても、決して思い出の場所ではないからだ。
彼女はまっすぐ進み、そして立入禁止のロープを超え壊れた手すりに座った。
彼女は、僕の方を見ていた。
そうか、君は僕を呼んでいるんだね。
僕らはかつてこの公園に来たことがあった。
そしてそれが僕らの最後の時間になった。
「ね!これ見てかわいい!」
と、彼女は花壇の前に座り込んで白い花を指さした。
「いいね、その白いワンピースと一緒」
「うん!白、好きだから」
そう言って彼女は笑った。そしてすぐに立ち上がってまた別の花の前で座り込んだ。
なかなか進まないな、なんて思いながら、けれど楽しそうだったので僕も一緒に座って笑いあった。
僕らはゆっくりゆっくりと進んだ。
坂を登るたびにだんだんと青く遠い空は広くなっていき、やっと展望台に着く頃には青空を遮るものはなくなっていた。
「すごい!海と空しかない!」
そう言って彼女は軽い足取りで展望台の端まで行った。
「ねえ知ってる?正午ぴったりにこの岬で写真を取ると幸せになれるんだって」
彼女は携帯と懐中時計を胸に掲げながら手すりに腰掛け、僕をカメラの画角に手招きした。
そして僕も懐中時計を取り出して手すりに座ったそのとき、古びた手すりは二人分の体重を支えきれず壊れてしまった。
バランスを崩したが、僕は空いていた手で横の手すりを掴みなんとかなった。
けれど、両手がふさがっていた彼女はそのまま、写真を撮ることなく、いなくなってしまったのだった。
死んだはずの彼女が僕の前に現れたのは、その一週間後だった。
彼女は僕の部屋で泣いていた。僕がどれだけ声をかけても返事はなく、触れることもできない。けれど僕が出かけるときは必ず隣についてきて、たまに突然一人で歩いていってしまうこともある。
そんな彼女が何を求めているのか、いままでずっとわからなかった。
でも今ならわかる。
彼女は僕を呼んでいたのだった。
彼女は手すりに座っている。
僕をじっと見つめている。
だから僕はゆっくりと彼女のもとへ向かった。
一歩一歩。
「僕ら、なんでこうなっちゃったんだろうね」
しかしなぜだろう、涙が溢れてくる。
「あのときちゃんと写真取れなかったから、幸せになれなかったのかな」
今まで抱えてきた言葉が溢れてくる。
「それともさ……やっぱり、僕が助けてあげられなかったからなのかな。君の隣に座ったからなのかな。僕が……君の隣にいたからなのかな」
立入禁止のロープが揺れる。
「ごめん……本当に、ごめん……」
もう、涙で彼女の顔もまともに見えなかった。
いや、まともに見れなかったのだ。僕のせいで彼女は死んだのかもしれない。そんな気持ちに押しつぶされて。
だから、僕がこうやって彼女の手招きであの世に行けるのなら、それでいいと思った。
僕がなにもかもを諦めて彼女の隣に座ろうとしたそのとき、彼女が突然手すりの根本を指さした。
僕はその指の先を見やった。するとなにか、金属のような物が草の中に隠れていた。
まさかと思って涙を拭くと、そこにはあの懐中時計が落ちていて、それは名前が刻まれた正真正銘彼女のものだった。
もしかして、あのときここに落ちたままずっとここに?
彼女は、これを僕に届けたかったのか……?
そして顔を上げたとき、彼女はもうそこにはいなかった。
あたりは静かで、波の音と花の揺れる音だけが耳に届くばかりだった。
最後まで聞くことのなかった彼女の言葉も、もうそこにはなかった。
彼女と過ごした最後の日々。残ったのはこの懐中時計だけ。
僕は呆然と青空を仰いで、真上にある太陽が眩しくて目を閉じた。
「あ……」
そのとき気づいた。
懐中時計を見ると、時刻はもうすぐ正午を示そうとしていた。
そうか……やっとわかった。
彼女が本当に渡したかったものは、この懐中時計だった。
この、正午を示す懐中時計だった。
それに気づいた時、僕の目からはまた涙がこぼれ始めた。
そして僕は彼女の名前が刻まれた懐中時計を胸の前に掲げ、広い海を背に写真を撮った。
「正午ぴったりにこの岬で写真を取ると幸せになれるんだって」
やっと、そんな彼女の言葉が聞こえた気がした。
ぼくがいないみたいに 空岸なし @sorakishi
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