カインド・デイ
キジノメ
カインド・デイ
「百合の花は、幸せな死を運ぶ花。
それに囲まれた人間は、静かに息を止めることが出来るんだって。」
「いらっしゃい、栞!」
満面の笑みで玄関ドアを開けた美琴に、私は戸惑いを隠せなかった。思わず言葉が遅れた私に、美琴が笑顔で首をかしげる。
「……栞?」
「え、あ、うん。美琴、元気だね」
「そう? いつもどおりだよ?」
いつもどおりではない。
そう叩きつけるように否定したくなったけど、元気なことは悪いことじゃないし、私はぐっと言葉を飲み込んだ。
「さあ上がって上がって!」
言われるがまま、スニーカーを抜ぐ。先に部屋の奥へ行ってしまった美琴の後を慌てて追った。
その部屋の奥には窓があって、もう夕方だから空がオレンジに変わり始めているんだけど。
正直そこじゃない。
窓の前には、ユリの花束がいくつもいくつも、ばら撒くように置かれていた。
「なにこれ」
「しーおりー、夕飯、パスタでいい?」
「あのね、待って美琴。なにこれ」
キッチンでお玉を構える美琴を呼んで、私は花束を指差した。美琴が、ああ! とまた笑って頷く。
「買った!」
「買った?」
この量を?
「うん、ちょっとね!」
それより夕飯、という美琴に、私は頭を抱えるしかない。
美琴は、すごいナイーブな子だ。
ちょっとのことで傷つくし、体調も崩すし、泣いたりもする。今回も大学を1週間休んでいて心配だったから、私は美琴の家に訪れたのだ。
そしたら美琴はやけに満面の笑みだし、ユリの花は積み上げられてるし、料理嫌いなのにパスタを作るというし。
無理して笑ってるのかな。私が来たから、変に気を使ってるのかな。いやいや、美琴はそんな子だっけ? 辛いことは辛いっていうし、表情だって普段から偽らない。いやでも、分からないな。もしかしたら私の知らない面では繕うのかもしれない。何も私に見せている面が、美琴の全てのわけじゃないんだし。
そう思うとちょっと悲しかった。別に私の前で取り繕わないで、辛いことは辛いって言ってほしかったのに。分からない所で、知らない所で泣いている方がよっぽど嫌だ。
これは恋人だからとか、そういう独占欲じゃなかった。知らない所で何かをしていて欲しくない。全て私の中でやっていてほしい。私は全部を知っていたい。
「……って、これが独占欲だよね」
何考えているんだか、と私は頭を掻く。美琴がパスタを持ってきた。具材がパセリと鷹の爪とベーコンしかないから、どうやらペペロンチーノみたいだ。
「なにが独占?」
「んー? 美琴の事」
「やだー、私の全て、栞に握られてるの?」
「そうだよー。そのうち、美琴のこと食べちゃうから」
「悪い魔女だ!」
からから笑う美琴をそっと覗き見る。うん、笑ってる。無理そうな笑み? ううん、これは本心だと思う。
じゃあ、ただ楽しいから笑ってるだけなのかな。1週間休んでいたのは、ただ疲れたからとか、用事があったからとか、かな。
そういえば休んだ理由を聞いていなかった。けれどここで聞いて、もしも美琴の気持ちが落ち込んでしまっても嫌だった。それなら知らないふりをしていたほうが、いいと思ってしまう。そりゃあ何か抱えているなら知りたいけれど、だからってこの雰囲気を壊してしまいたくなかった。
だって、美琴は笑ってる。
笑ってるのだ。
「食べよう!」
「うん、ありがとね、美琴。いただきます」
「どうぞどうぞ~」
一口食べて、塩っ気が味覚を襲った。ちょっと、辛い。塩を入れすぎたのかな、というくらいの辛さ。食べれるけれど、ちょっとこれはすごい。どうしよう、言った方がいいかな。でも偶々入れすぎたのかも。普段作らない人にいきなりケチつけて、それで自信を無くしてしまったら嫌だしなぁ。これからも美琴の料理が食べたいから、作らなくなっても悲しい。
言おうかどうか悩みながら顔を上げると、驚くことに美琴が今にも泣きそうな顔をしていた。
え、なんで?
さぁっと気持ちが冷える。けれど目が合うと、慌てて美琴は笑いだした。にこにこと、満面の笑み。
ああ、笑うのね、とどうにも言えなくなってしまう。だってまるで、「今の無し!」というくらいの満面の笑みなんだもの。
だから、私もにこっと笑った。
「美味しいよ、美琴」
まるで涙の味が、万遍なく振りかけられているようだった。
お互いにお風呂に入って、髪を乾かし合って。まだ午後9時だけど眠いから寝ようかって決めて。あまりに美琴がベッドを私に譲ると言って聞かないから、私はベッドに、美琴はリビングにあるソファに寝て。
何時間経っただろうか。あまりに早い就寝だったから、まだ夜が明けないうちに目が覚めてしまった。
私が寝ていた部屋にも窓はあって、覗くと地平線すら黒かった。まだ夜中なのかもしれない。かといってスマホを見る気にもなれなくて、ふらりとベッドから立ち上がった。
美琴の部屋は今までも来たことがあるから、なんとなく分かる。お水、もらっても大丈夫かな。でも美琴は勝手に飲んで怒るタイプではないし、多分、朝に一言報告すれば大丈夫。
ドアを静かに開けて、リビングの方を見る。カーテンの隙間から漏れた光が、闇に慣れた目に刺さる。
キッチンに行くには、リビングを突っ切らないといけない。美琴は多分、寝てるよね?
静かに静かに足を動かし、リビングに入った。ふわっと花の香りが強く漂ってくる。
ソファの後ろを回ればいいと思ったけど、壁とあまりに近すぎて通れない。だからしょうがなく前を通る。
ソファで、美琴は座ったまま寝ていた。腕掛けに右半身をもたれさせ、少し顔は俯かせている。
こんな寝方してたら身体固まるよ……?
思わず呆れて笑いそうになった。いけないいけない、起こしてしまう。
美琴の前で膝を落して、顔を見る。ロングの髪がかかって見えづらいけど、寝てるみたい。暗い部屋は外の電灯や月の明かりで少しだけ明るくて、真っ白な肌がぼうっと浮かび上がっていた。
綺麗な肌だなあ、そう思った。
思わず手が動いて、頬をそっとなぞってしまう。きめ細やかな柔らかい肌で、いつまでも触っていたくなる。こめかみ辺りには、にきびがひとつあった。指先で回すようになぞってしまう。痛くないのかな。明日、薬を塗ってあげよう。あんまり擦って痛くしても悪いから、ほどほどに指を離す。
親指が唇に触れた。上唇をなぞると、少しがさがさしていた。噛んだのかもしれない。噛んじゃ駄目だって言うようにしてるのになあ。駄目だよって、明日言うタイミングはあるかな。そうだ、今度リップを買ってこよう。美琴が好きな、オレンジの香りのリップを。
そのまま首を撫でる。どこを撫でても綺麗な肌。羨ましい、私には無い物だ。完全に痩せている訳でもない、ちょっと肉付きの良い身体。だから首を撫でるのも、気持ちが良い。綺麗な子、美琴。本当に。
「――そのまま、絞める?」
突然の声に身体が飛び跳ねて、本当に飛び跳ねて、思わず尻餅をついた。
え、と美琴を見ると、うっすら目を開いている。
さっき見たのとは違う、どろりと今にも地面に落ちてしまいそうな、そんな顔をしていた。
「み、こと」
「ねえ、栞。そのまま、絞めていいんだよ」
美琴はぴくりとも動かなかった。ただ喉を震わせて、口を小さく開いているだけだった。
まるで、死人の様だった。
「……なにか辛い?」
尻餅なんてしていなかったように、私は膝を付き直す。腿の上に置かれた美琴の手はとても冷たい。私の手だって暖かいとはいけないけど、両手で両手を包み込んだ。ハンドクリームも塗らないとなぁ。
「……ううん」
「いいんだよ、美琴。隠さなくていいよ。むしろ言ってほしいな。私は美琴の全部を知っていたいんだよ?」
いやーな独占欲でしょ、と茶化すように言う。撫でた指先はささくれで、ひどくかさかさしていた。
「いいんだよー、どうでもいいことでも。でも、美琴、何か思ってるんでしょ? 言ってほしいな」
私はカウンセラーじゃないから、どう美琴に聞けばいいのか分からない。
でも、聞くことは出来るよ。
美琴が嫌って思うことも、愚痴ってしまいたいって思うことも、死にたいって思うことも、聞くことは出来るよ。
美琴は手も白い。せっかく綺麗な肌なんだ。ささくれなんてもったいない。やっぱり明日にでもケアをしよう。
「……あのね。辛いなって思って笑ってるようにしたの」
「うん」
「今日、楽しそうだったでしょ」
「うん。安心するくらい、楽しそうだった」
「でもね、悲しい」
「うん」
「分かんないけど、すごく重くてね、悲しくてね……」
ぽたん、と手の上で雫が弾けた。そうかそうか、と溢れる涙を拭って、そのまま首に手を回して抱きしめた。
「泣きたくないの。泣くほど悲しいこともないの。でもね、でもね……!」
「泣いていいから。私は泣くな、なんて言わないよ。泣いていいよ」
抱きしめたまま美琴の隣に座った。美琴は抱かれるがままで、動こうとしない。むしろソファに全体重をかけているみたいだった。ソファに体重をかけているなんて気に食わん。私に全部かけてよ。
美琴の頭から良い匂いがする。不思議だなぁ、私も同じのを使ったのに、こんな匂いしない。猫っ気の髪の毛もすごい良い。ふわっと暖かくて撫でているのが気持ちよかった。
「理由なんて無いんだよ。無いのに涙が出てくるの。私だって泣きたくない、泣きたくないのに!」
「いいんだって、そういう時もあるって。泣いていいんだよー、そんなことで自分を責めなくていいんだよー」
よしよしと頭を撫でる。別に赤ちゃんみたいな扱いはしたくないけれど、でも撫でてしまう。私、美琴に対して優越感を感じてるのかな。嫌だなあ、それは。でも、撫でて大丈夫だよって言ってあげたかった。そんなので苦しまなくていいよって、自分で許せないのなら私が許す。
胸元が温かくて、美琴がすごい泣いているのが分かった。どうして無理に笑うっていう発想に至ったんだろうな。私だから笑わないとと思ったの? それとも誰の前でも笑わないとって思ったの? 私が理由だったらそんなのいらないよ。私は美琴がいつも上機嫌だから好きってわけじゃないんだよ。一緒にいるのがパズルみたいにぴったりはまって、すごく心地良いから傍にいたいんだよ。隣にいるだけで落ち着くんだ。美琴もそうじゃない? そうだったらいいな。
「……知ってる?」
「なにが?」
「ユリの花に囲まれて寝ると、死ぬんだよ」
「迷信じゃないの?」
「本当だったらいいのに」
あまりに切実な声に何も言えなくなる。美琴は死にたいの? 私は、私はさぁ、美琴と生きたいのになあ。美琴は私のこと好きじゃないの? だって死んだら一緒にいれない。幽霊なんて信じてないもの。いっそ幽霊でも、さわれない。
「私は美琴と、この現世でもっと一緒に暮らしたいんだけど」
「私は、栞と永遠に幸せな世界に行くため死にたい」
「死ぬ時も一緒にいていいの?」
「心中に付き合いたくないなら、いい」
まさか! 笑いたくなった。心中するなら美琴とがいい。美琴になら心臓刺されてもいい。あ、でも美琴だけこの世界に残すことにはちょっと未練があるけれど。
栞は私と死んでくれるのかぁ。それは嬉しい。
私は美琴を抱き上げた。えっ、と焦った声を美琴があげるけど無視する。そのまま窓辺に連れていき、下に広がるユリの花をちょっと避けて、一緒に寝転んだ。
床は冷たいし固い。ちょっと待ってね、と美琴を離して寝室に行き、毛布を持ってきた。もう一回寝転び、毛布を掛ける。ふわりとユリの香りが充満した。
「寝ようよ、美琴」
「心中してくれるの?」
「美琴となら、いい」
美琴の頭の下に腕を差し入れて、もう片方の手で抱きしめる。美琴がまた涙ぐんだ声で言った。
「付き合わなくていいのに」
「美琴がひとりで死ぬのは嫌だよ、私。だったら一緒に死ぬ」
「栞に、死んでほしくない!」
「だったら私も、美琴に死んでほしくない」
死にたくないよ、だって美琴と離れたくもない。わがままでしょ、私。わがままなんだよ。
美琴の全部を知っていたい。涙を流すのなら、それを水の代わりに飲ませてよ。愚痴を言うならお米の代わりに食べるから。そうして死ぬなら、私に命をちょうだい。大事にして、生きててよかったって笑わせるから。
「明日、死んでるかな? 美琴」
生きていたいけど、美琴の願いで死ぬならまあいいかなって思ってきてる。迷信だってからかう気にもならなかった。それくらい、ユリの匂いは激しく誘うようだった。
「……知らない」
「明日生きてたら、お味噌汁飲みたいね」
「美琴、作って」
「作ってあげましょう! 美味しい味噌汁作ってあげる」
そうだよ頼ってよ、私は美琴のために尽くすの好きなんだ。ねえ、美琴。気持ち悪いほどあなたが好きでごめんね。でも、許してくれるなら、大事にするから。だから隣にいさせてよ。
美琴の鼻にキスをする。ねえ、と尋ねた。
「美琴、好きだよ。もしかしたら美琴が気持ち悪いって思うくらい、好きかも知れない。美琴、あんまり人と関わるの好きじゃないものね。だから、嫌な時は嫌って言っていいからさ、隣にいてもいい?」
目を瞑っていた美琴が、うっすら開ける。未だに感情の抜け落ちたような顔をしているけれど、ぐりぐりと私の胸に頭を押し付けた。
「私、人があんまり好きじゃない。から、栞みたいに好きになれない」
「ちょっとは好き?」
「今まで会った人で、一番一緒にいていいって思える」
「それで十分だよ」
「嫌にならない? 好きが返ってこないから」
「見返りなんて求めてないんだよ」
嬉しいな。こうやって心の言葉で話したのは初めてかもしれない。
「隣、いてもいい?」
「私は、栞みたいに栞を好きになれないけど、それでもいいなら」
「うん、じゃあいる」
明日、死んでるかな。さっきいいやって思ったけど、やっぱりもったいないと思った。明日もまた、こうやって話したい。
でも、きっと死なない。ユリの匂いよりも、明日のお味噌汁の方が楽しみだった。そう約束したのだから。
ぎゅうっと美琴を抱きしめる。されるがままだけど、脱力してこちらに寄りかかってくれるのが嬉しかった。
眠いね、寝てしまおう。また明日。
静かで夜更けの、私達だけの空間で。
無事目が覚めて、私は味噌汁を作って。
「そういえばね、美琴。昨日のパスタ、ちょっと塩っ辛かった」
「まずかった?」
「そこまでじゃない」
「今度気を付けるね」
「今度も作ってくれるの?」
「……」
「楽しみにしてるね!」
沢山のユリの花、今日は花瓶にそれを生けよう。その後、美琴がいいよと言ったら、出かけよう。美味しいコーヒーを飲んで、いろんな服を見に行こう。リップも買って、ハンドクリームも買おう。
美琴、大好きだよ。今日もあなたと話せることが、私の一番の幸福なんだ。
カインド・デイ キジノメ @kizinome
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