雛野。愛してる

かごめごめ

雛野。愛してる

 あれは入学式の次の次の日くらいだったかな? たしか国語の時間だったと思う。

 わたしの前の席の、すっごく髪がきれいな女の子。肩甲骨の少し下までまっすぐに伸びた黒髪が視界に入るたび、シャンプーのCMみたいだなぁ、なんてぼんやり思ってた。正面からまじまじと見たわけじゃないけど、顔もちっちゃくてお人形さんみたいにきれいな子だった。名前なんだっけ、自己紹介のとき可愛い名前だなって思った記憶が……そうだ、確か、こゆきちゃん。


 そのこゆきちゃんの机から、消しゴムが落ちた。わたしは反射的に拾おうと床へ手を伸ばしたけど、バウンドした消しゴムはわたしのそばではなく、こゆきちゃんの隣の席の男子生徒の足下で止まった。男子生徒が消しゴムを拾いあげたので、わたしは手を引っこめた。


「……ありがとう」


 消しゴムを受け取ろうと、こゆきちゃんが手を伸ばす。男子生徒がこゆきちゃんの手のひらの上に消しゴムを載せる。そのとき、男子生徒の指先とこゆきちゃんの手のひらが、ほんの一瞬だけ触れあった。

 次の瞬間には、消しゴムは再び床に落下していた。バウンドして、今度はわたしの足下まで転がってくる。


「……?」


 なんでそうなった? と思いつつもわたしは消しゴムを拾いあげ、こゆきちゃんに渡そうと顔をあげた。

 こゆきちゃんはすでに手を引っこめていた。後ろからではよく見えないが、なにやら口元に手を当てているように見える。そんな彼女を、隣の男子生徒は驚愕したような表情で見ていた。


 ふと、強いにおいを感じた。酸っぱいような、苦いような、独特な臭い。強烈な異臭が、一瞬にして空気中に充満していた。

 こゆきちゃんのまわりの席の子たちが、みんな一斉に首をめぐらせる。ざわめきはこゆきちゃんを中心に、波紋状に広がっていく……。


 こゆきちゃんが嘔吐してしまったのだと察したわたしは、けれどなにができるわけでもなく。じっと席に座ったまま成り行きを見守っていると、先生がチョークを走らせる手を止めて、こちらに近づいてきた。


御堂みどうさん? 大丈夫?」

「平気です」


 心配げに声をかける先生に、こゆきちゃんは思いのほかしっかりとした口調で答えた。


「このクラスの保健委員は?」

「まだ決まってませーん」


 先生の問いかけに、クラスメイトの誰かが返事をする。


「そう……」


 これはもしや自習になる流れかな? なんてぼんやり考えていると、先生と目が合った。


「…………あの、わたし行きましょうか?」


 思わず、そう口走っていた。


「ほんと? お願いできる?」

「あ、はい」

「助かるわ、よろしくね美殿みとのさん」


 わたしは席を立って、こゆきちゃんに近寄った。顔を覗きこむ。こゆきちゃんは口元を手で覆ったまま、上目遣いにわたしを見る。

 うわ、睫毛長い。肌、超白い。くりっとした目は驚くほど澄みきっていて、じっと見つめられると、心の中まで見透かされてしまうような気がした。


「えっと……大丈夫?」


 なんと声をかけていいのかわからず、先生と同じことを訊いてしまう。


「平気」


 返ってきた答えも同じ。口を押さえていてもよく通る、耳に心地いい声だった。

 こゆきちゃんが席を立つ。目線で促されたような気がしたので、わたしはこゆきちゃんが後をついてくるのを確認しながら、教室の外に出た。

 そのまま階段へと向かう。保健室はたしか一階だったはず。


「待って」


 ふいに呼び止められて、振り返る。


「ごめんなさい、一度口をすすぎたいのだけど、いいかしら」

「あっ、そうだよね、気がつかなくてごめん……」

「いえ。こちらこそ、付き合わせてしまってごめんなさい」

「そんな、いいよ全然っ」

「ありがとう。すぐに済むから」


 進路を変更して、廊下に設置された水道に立ち寄る。

 ……なんだか、ずいぶんと大人びたしゃべり方をする子だなぁ。つい先月まで小学生だったとは思えない。だけど背伸びしてる感じは全然しなくて、むしろ様になってると思った。


 こゆきちゃんが口を濯いでいるあいだ、特にすることもなかったわたしは、隣でぼんやりこゆきちゃんのきれいな横顔を眺めていた。何度か口を濯いだあと、手を洗って、蛇口を締める。顔をあげたこゆきちゃんと、ばっちりと目が合う。


「あ……えっと、その……体調、悪かったの?」


 なんとなく気まずくて、を埋めるようにそんなことを訊いた。


「いいえ。別に、体調が悪かったわけではないから」


 取り出したハンカチで手を拭きながら、こゆきちゃんが答える。


「……? そうなの……?」


 それにしても、改めて正面からまじまじと見てみると、こゆきちゃんは本当に美人さんだった。テレビとか雑誌以外でこんなにきれいな女の子を見たの、たぶんはじめてだ。感動さえ覚える。


「とはいえ、着替えなくてはいけないから、保健室には行くけれど」


 わたしの質問のような独り言のような言葉には答えずに、こゆきちゃんは続けた。ほんとだ。よく見れば、紺色のセーラー服の袖やスカートの一部が汚れてしまっている。


「行きましょう」


 言って、こゆきちゃんはすたすたとわたしの先を歩き出す。わたしも後に続いた。これじゃどっちが付き添いなのかわからない。

 特に話すこともなく、互いに無言のまま廊下を進む。ふたりぶんの足音だけを響かせながら、階段を下りていく……。

 一階に着いたとき、こゆきちゃんは聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぼそりと言った。


「やっぱり……転校するしか……」

「えっ!」


 平然としているように見えたけど、そこまで思い詰めていたなんて。でも……そうだよね、当然だよね。入学早々、みんながいる中で……うん、わたしが同じ立場でも、絶対しばらく立ち直れないと思う。――けど。


「大丈夫だよ! そんなにたいしたことじゃないよ、うん! クラスのみんなだって全然気にしてないと思うし! あ、もちろんわたしもね? だからあんまり思い詰めないほうがいいよ! ほら、人の噂も……なんだっけ、四十九日? って言うし!」


 どうしてか、わたしは必死になってフォローしていた。


「え? ……あぁ、違うの。そういうことではないの」

「え、でも今転校って」


 そういうことじゃないの?


「あなた、さっきの……見てた?」

「さっきの?」

「私が消しゴムを受け取ったところ」

「あ、隣の男子が拾ってくれたやつ? うん、見てたけど?」


 というかちゃんと受け取れてなかったような。そういえば、拾った消しゴムどこ置いたっけ。


「私ね、だめなの。男の人に触れたら、どうしても気分が悪くなってしまって」

「え……」


 まさか、それが原因で? 確かにあのとき、一瞬だけ手が触れあったように見えたけど。でも本当に少しかすめた程度だった。あれだけで、吐いちゃうくらい気分が悪くなったってこと……?


「事情を知っている両親から、無理そうならいつでも転校していいと入学する前から言われていて」

「そうだったんだ……」


 急に話が変わったと思ったけど、そう繋がるんだ。


「女子高ならともかく、女子中学校なんてこのあたりにはないでしょう? だから転校となると、家族も巻きこむことになるの。私は、家族にまで迷惑をかけるのが嫌だった。だから共学で頑張ろう、って……環境が変われば少しはマシになるかもと思ったのだけど、やっぱり、そううまくはいかないみたい」

「そっか……ちなみに、その“事情”って?」

「……昔ね、その、ちょっといろいろあって」


 どうやら話す気はなさそうだ。そりゃそうだ、初対面も同然のクラスメイトに、いきなりそんなデリケートっぽい話は普通しないだろう。興味本位で訊くようなことじゃなかった。


「そうなんだ……変なこと訊いちゃってごめん」

「いえ、こちらこそごめんなさい……急にこんな話聞かされて、困ったでしょう? 私も、ここまで話す気はなかったのだけど……少し、心が弱っていたのかも」


 そう言うこゆきちゃんは、本当にどこか弱々しく見えた。さっきまでの凛とした雰囲気が消えて、どこにでもいる普通の女の子みたいになってる。なんだろ……この、放っておけない感じ。


「わたし、話聞くくらいしかできないけど、それでもよかったらいつでも声かけてね? ほら、席も近いし?」

「……そんなこと言われたら、本当に話しかけてしまいそう」

「本当に話しかけていいんだってば。大人の社交辞令じゃないんだから」

「……うん、そうね。ありがとう」


 そんな話をしているうちに、保健室の前に着いた。


「あとは一人で平気だから。付き添いありがとう……ええと、ごめんなさい」

「あっ、わたし? 美殿雛野ひなの

「雛野。ありがとう」


 いきなり名前で呼ばれると思わなくてびっくりした。


「……どういたしまして」


 こゆきちゃんはわたしに背を向けると、コンコンとノックしてから、「失礼します」と戸を引いた。


「誰もいないみたい」


 こゆきちゃんの背中ごしに中を覗く。


「ほんとだ。職員室覗いてこようか?」


 そもそも保健の先生って、職員室にいるのかな?


「ううん、中で待ってるから」

「わかった」

「それじゃ雛野。またあとで」


 室内に足を踏み入れたこゆきちゃんが、戸を閉めようとする。


「ま、待って!!」


 わたしは思わず、声をあげていた。あれ、こんなに大きい声を出すつもりじゃなかったのに。こゆきちゃんは手を止めて、驚いたように目を大きくしてわたしを見つめた。


「あの…………転校、しちゃうの?」


 こゆきちゃんがなにか答えようとして唇を動かしたけど、わたしはそれを聞く前に言葉を続けていた。


「あのさ! 思ったんだけど、やっぱりわたしにも協力できることがあるかも! ほら、消しゴムを一番乗りで拾ったりとか! そしたら男子と関わらなくて済むでしょ? それだけじゃなくて、なにかピンチなことがあれば、ぜんぶわたしがフォローするから! わたしが守ってあげるから! だから……その、なにも今すぐ転校しなくても、いいんじゃないかなって……」


 ……なんでわたし、こんなに必死になってるんだろう? 自分でもよくわからなかった。


「そ、そういうわけだからっ。それだけだから。それじゃっ」


 言いたいことをすべて言い終わると、急に猛烈な照れくささがこみあげてきて、わたしはこゆきちゃんに背を向けた。


「雛野。待って」


 正直このまま駆け出したい気分だったけど、無視するわけにもいかず、わたしは振り向いた。

 こゆきちゃんはまっすぐにわたしの目を見ながら、言った。


「私は御堂恋雪こゆき。恋雪でいいから。私といることで、もしかしたらたくさん迷惑をかけてしまうかもしれないけれど――それでもよければ、今後とも仲良くしてね、雛野」

「……うん! こちらこそよろしくね、恋雪ちゃん!」



     ❆ ❆ ❆



 恋雪ちゃんのきれいすぎる黒髪が視界に入っていたせいか、またあのときのことを思い出していた。

 はじめて恋雪ちゃんと言葉を交わしたあの日から、もうすぐ一か月になる。来週の始めには席替えをやると担任から予告されていて、クラスのみんなは待ち遠しくて仕方ないみたいだった。もう少し今のままでもいいのになぁ、なんて思ってるのはわたしだけなのかな?


 それにしても、本当にきれいな髪だなぁ……。毎日見てるのに全然飽きない。時折、シャンプーのいい匂いがふわりと押し寄せてきて、その瞬間がもう最高に幸せだった。

 そんなことばかり考えていて授業に集中できていなかったせいか、わたしはうっかり消しゴムを落としてしまった。跳ねた消しゴムは、恋雪ちゃんの踵に当たって止まった。

 恋雪ちゃんが机の下を覗きこみ、拾いあげてくれる。


「はい」

「ぁ、ありがと……」


 わたしは消しゴムを受け取ろうと手を伸ばして――けれど途中で、躊躇ためらいが生まれた。

 あの日の光景が、教室のざわめきが、脳裏にフラッシュバックする。

 もし今、また同じことが起こってしまったら。恋雪ちゃんに、またつらい思いをさせてしまうかもしれない……。

 空中で静止したわたしの手が、ふいに温もりに包まれる。

 恋雪ちゃんがわたしの手を取って、反対の手で消しゴムを握らせてくれる。


「平気。雛野は女の子でしょう?」


 わたしの心中を見透かしたように、恋雪ちゃんは言った。


「雛野の手なら、大丈夫だから」


 柔らかな手のひらが、わたしの手をぎゅっと包みこむ。同時に、胸の内側にも温もりが満ちていく。


「あ……」


 わたしは、特別なのだと。恋雪ちゃんにとってわたしは特別なのだと。そう言われた気がした。

 それが錯覚なのはわかってる。実際のところ、わたしは恋雪ちゃんにとって、ちょっと仲の良いクラスメイト程度でしかなくて。けっして選ばれたわけじゃない。ただ、女の子であるというだけ。男子ではなく女子であるという、ただそれだけの話でしかない。


 だけど、それでもよかった。

 わたしは、わたしに向けられたその温もりを、特別な愛情だと思いこむことにした。優しさに満ちた言葉を、自分に都合のいいように頭の中で変換する。それだけでわたしは幸せ、そんなふうに自己暗示をかける。だってこの想いは、きっと叶わない種類のものだから――。


「雛野? どうかした?」

「……ううん、なんでもないっ。消しゴム、拾ってくれてありがと!」


 わたしは恋雪ちゃんのことが好きだった。

 きっとこれが、初恋だった。



     ❆ ❆ ❆



 始業式の日の朝。昇降口の下駄箱に、クラス分けの名簿が張り出されているのを見つけた。わたしは期待と不安を胸に、上から順に名前を確認していく。


「……あった」


 御堂恋雪。そのすぐ下に、わたしの名前も書いてある。隣り合ったふたつの名前を、わたしは何度も、穴が開くほど繰り返し確かめた。


「雛野。おはよう」


 いつのまにか、恋雪ちゃんが隣に来ていた。

 出会いから一年。恋雪ちゃんは今も変わらず、わたしの隣にいてくれている。


「おはよう恋雪ちゃんっ、ねぇ見て、同じクラス!!」

「あら、ほんと」

「えっなにその薄いリアクション! もしかしてうれしくないの!」

「そんなわけないでしょう? 実はね、三学期のうちに沢村先生にお願いしていたの。私のサポートをしてくれる雛野だけは絶対に同じクラスにしてくれないと困る、って」

「そっか、先生は恋雪ちゃんの事情知ってるんだっけ?」

「ええ。言っておかないと迷惑をかけてしまうかもしれないから」

「ふぅん……」


 先生も知ってるんだ……。恋雪ちゃんが心に負った傷のことを思うと不謹慎かもしれないけど、ちょっとだけジェラシーのようなものを感じてしまう。


「といっても、雛野に話したような詳しい内容まではさすがに伝えていないけれど」

「そうなんだ?」


 不謹慎だけど、ちょっと優越感。


「……って、同じクラスになるってわかってたなら、わたしにも教えてよ!」


 春休みのあいだじゅう、ずっとそわそわしっぱなしだったのが馬鹿みたいだ。


「あの……怒らないで聞いてほしいのだけど」

「えっ、なにそれ」

「自分で言うのもなんだけれど、私ってなかなか面倒くさい女でしょう? だからもし、雛野が私のことを重荷に感じていたらって……また同じクラスになるって言って、嫌な顔をされたらどうしようって、考えてしまって。雛野はそんな子じゃないって、頭ではわかっているのに……」


 恋雪ちゃんの表情が、みるみるうちに普通の女の子になっていく。

 普段は凛としているのに、時々こうして、弱気な顔を覗かせる。その顔が好き。

 ほかにも、ピンチのときにわたしがフォローしてあげたときの顔も好き。どこか申し訳なさそうな顔をしたあとに、柔らかく笑いかけてくれる、あの瞬間の顔が好き。思い出しただけで可愛い。

 一年前はただ純粋にきれいだなって思ってたけど、今は可愛いって思う。知れば知るほど魅力があふれてきて、どんどん好きになっていく。


「はぁ。恋雪ちゃん、全然わたしのことわかってない」

「ご、ごめんなさい」


 ……本当に、わかってない。


「なんてね」


 わたしは笑って、手を差し出した。

 わからなくていい。知らなくていい。この気持ちを伝えようとは思わない。きっと困らせてしまうだけだから。恋雪ちゃんは男の子が苦手なだけで、女の子が好きなわけじゃないんだから。

 恋雪ちゃんがそっと、わたしの手を握る。

 この温もりを感じるたび、わたしはいつも、心の底から実感する。


 ――女の子に生まれてきて、よかった。


 この想いは実らない。それどころか、スタート地点に立つことも許されない。それでも――こうして触れあうことはできるのだから。


「また一年間よろしくね、恋雪ちゃん!」

「……こちらこそ」


 固く、握手を交わす。


「雛野。いつもありがとう」


 そうしてわたしは、今日も自分に都合のいい言葉だけを聞くのだ。

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