あの三角屋根の下、ひとつ小さな窓のある、いつか本で見たAtticを。

和田島イサキ

あの三角屋根の下、ひとつ小さな窓のある、いつか本で見たAtticを。

 近所の古道具屋にあったあのカメラを、今日ほど欲した日はきっとなかった。

 昔なにかの本で読んだ。屋根裏部屋Attic。白木の三角屋根は小学校の頃、校庭の端から何度も見た。でも、初めてだ。嵌め殺しだと思っていたガラス窓が開いて、そこに人の姿が見えたのは。

 最初に思い出したのは日記帳だ。革張り、鍵付きのちょっと立派なやつ。中学に入ってつけ始めたそれは、最初の三ヶ月しか保たなかった。だから、ページはいくらでも余っている。なのに、足りない。文字では残せない気がするから、と、そんな柄にもないことを考えた。

 だから、カメラがひとつあればいい。そう思い、そのおかげで少し頬が暖まる。

 十二月。卒業まで残り三ヶ月。中学最後の冬休みに、ぽつねんと人を待つ昼下がり。

 少し肩をすくめ、マフラーに頬を埋める。きっと可愛らしい仕草ではないけれど、でもこの気温に逆らえるほど私は強くもない。澄み切った空気が肌を刺すみたいで、どうしても意識が冴えてしまう。もう少し、まだぼんやりしていたいのに。そんな私の個人的な事情は、きっと北陸の冬には関係ない。

 ——なんて断ろう。

 そんなことは、でも、あまり考えたいと思わない。少し早めに来てしまったことを、いまさらながらに後悔する。かつて六年間を過ごした、懐かしの小学校の裏手側。自転車置き場の低い屋根の下、いま私の待つ相手は幼なじみだ。

 来年の春にはもう、一緒にいることはできないけれど。

 でもいつまでも友達だと、なんとなくそう思っていた。手紙を書いてもいい。電話だってできるだろう。私は、大阪へ行く。そこに私の進みたい学校があって、そこにはきっと知らないことが山ほどある。関西なんて初めてだし、寄宿舎がどういうものかもわからない。楽しいことも、そうでないことも、きっといくらでもあるはずだ。その話をしよう。聞いてもらおう。これまでずっと、そうしてきたように——。

 そう、思っていたのに。

 自分勝手だったなあ、なんて。本当は悲しくならなきゃいけないのに、でもなんでだろう。なんとなく心に穴が空いたみたいで、そのちょっとした喪失感の他は、それらしい感情はなにもない。もう少しで彼が来る。何を言うかは、知っている。なんて断ろう。目を見た方がいいのか、表情はどうしたらいいのか。冴え渡る意識の中、理性的な考えばかりが渦巻いて、だから本当に不思議だった。

 こんなに可愛げが無いのに。

 なんで、好きになんかなっちゃったかな。

 頬まではマフラーに埋められても、顔全体をそうするわけにもいかない。ぼんやりもできなくて、なんとなく見つめたままだった景色の中に、ふと目に留まったのが、それだった。日記帳を連想して、あの古いカメラを思い出して、そしてようやく体に、血が通う。どうしてだろう。窓から覗いたその顔は、前から見知っているものだったはずなのに。

 鼻歌でも歌っているのかな。その予感は、距離がありすぎて確認はできない。でも、当たっているはずだという確信は、あった。

 近所に小さな教会があって、そこに遊びに行っていたのはそれこそ小学生の頃。ちょっとした催しのときなんかは、ただでお菓子がもらえて嬉しかった。いま思えばちょっと可哀想な話、強面の神父さんには人気がなくて、だからいつもお菓子をねだりに行っていた、その先がつまり、彼女だった。シスターだと思っていたけれど、別にそこまでわかりやすい服装をしていたわけじゃない。ただ、いま私の目に見える彼女、普段着姿のそのひとは、やはり記憶の中のそれとは印象が違った。

 どうしてか少しほっとして、そして直後に、緊張する。

 ——このあと、会いに行ってみようか。

 そんなことを、ふと連想してしまったせいだ。

 久しぶりだ。あの教会に行くのは。彼女は覚えているだろうか。仮に覚えていてくれたとして、なんの話をすればいいのだろう。というか、私は——何を考えているんだろう。なんの用事も理由もないのに。突飛な考えにもほどがあった。

 でも、悪い考えだと言い切る、そのためにはどうしても理由が足りない。

 不意に耳を衝いた、自転車のブレーキ音。不快な音には違いなくて、そのせいで初めて、心臓が跳ねる。目を向ければそこに、見慣れた姿。物心ついて以来、もう何度も見てきたその姿。どう表現したものだろう。怖い、というのは少し違う。苦しい、では少し曖昧だ。〝嫌だ〟——たぶん、それが一番近い。口の中に苦みのようなものを感じて、途端に体の芯が重くなる。

 意気地のない女だ。

 しかも、卑怯だ。

「ごめん」

 なんの迷いもなく、そのうえ、笑顔で。〝用事があったの忘れてた〟。よくもまあ、言えたものだと思う。先送り。相手に覚悟をさせるだけさせておきながら。こんな女、どうして好きになったのだろう。ずきん、と、染みる。なにかが、どこかに。

「明日、同じ時間でいい?」

 弾むような声、唯一の取り柄だって自称してさえいる、その〝元気〟がこんなところで出る。まるで私が私じゃないみたいで、なんて、もし日記につけるならそう書くだろう。誰にも見られることのない自分のための記録、そこに堂々と嘘をつく。だって私は、知っていた。これが私で、そしてその私のお願いを、彼には断ることができないということも。

「じゃあ、またね」

 走り去る、その足取りの軽さが嫌いだ。晴れた空に感じる、どこか爽やかな気持ちが醜い。どうしてこうなってしまったのか、それに気付かずにいられるほど、きっと私は幼くなんてない。ひとつひとつ〝卑怯〟を積み重ねて、そのうえから溶かしたチョコレートをかけるみたいに、たっぷりたっぷりの嘘をまぶす。その跡が見える、文字になって残ってしまうから、日記帳の鍵は近所の川に投げた。

 走る。それも、結構な速さで。呼吸が乱れて肺が苦しい、心臓が脈打つのがようやくわかった。いまさら、遅すぎるよ、と、また責任逃れをする——もし春になって大阪へと着いても、でもそんな自分だけは置いては行けない。空気はこんなに澄んでいるのに。そこに触れる私の肌、そのすぐ下に渦巻いているのは、ひどく澱んで薄汚れたなにか。針でつつくところ想像したら、中身は黒いタールのようだ。咳き込む。吐き出す。肺の中の空気、全部を。

 ——弾けてしまいそう。

 ——弾けてしまえばいいのに。

 冴え渡っているはずの意識は、いつも通り理性的なはずの私の思考は、でも結局のところなんの役にも立たない。言葉ひとつ、まともに紡げなくて、それは水に溺れる子供のようだ。「はあっ」と、意識して声に出してひと呼吸、振り抜く腕の振れ幅を増す。ただひとつ、よかったことがあるとしたら、それは向かうべき場所が決まっていたことだ。

 できすぎだけれど。白木の木造建て、あのころ何度も訪れた教会。

 路地の先に門が見えたとき、なんだか膝が震えるような心地がした。そこに見えたのは、彼女だった。名前は知らない。「きょうかいのおねえさん」、ただそう呼んでいた、彼女だ。記憶というのは本当にあてにならなくて、もっと年上だと思っていたのに、でも彼女はまだ若いままだった。

 きれいなひとだ。

 思い出を重ねるまでもなく、そんな言葉が脳裏をよぎる。厚手のカーディガンに黒いマフラー、ロングスカート姿はいかにも上品な感じがして、手には古びた一本の竹箒。とてもきれいで、澄んだ冬の空気みたいなひとで、そんなひとがすぐ前に普通に存在していることに、私はどうしようもなく——おかしな表現だけれど、なんだかお礼を言いたいような気持ちになった。

 同時に、申し訳なさも。

 足が止まる、それよりも一瞬早く。目があった。私は驚いたけれど、でも冷静に考えれば当たり前のことだ。真冬日に、狭い路地を全速力で駆ける中学生。そう滅多にいるものではなくて、そしてその通りの表情を——きっと言葉にするなら「あら」、そういう顔を、彼女は見せた。

 いや、正確には、見せかけた。

 私はまったく気付いていなかったけれど、町には少し風が出ていた。そのせいなんだと思う。彼女の黒髪が変な感じに揺れて、そして次の瞬間に聞こえてきた。文字にしてしまうと大変間抜けなのだけれど、でも本当にその通りに聞こえたのだから、もう驚くより他にない。

「……へくしゅっ!」

 くしゃみ。それだけで済めばよかったのに、でも話はそんな生易しいものじゃない。思いっきり鼻水を垂らしてしまって、なんか泣きそうな顔で顔を背ける、きれいなきょうかいのおねえさん。もうどうしていいのかわからなくて、でもそれはきっと、彼女も一緒だったのだと思う。

 日頃の行いがうんたら。本当にその言葉の通り、コートのポケットにはちり紙があった。

 日記をつけてなくてよかった、と思うのは、この先をどう書けばいいのかわからないからだ。懐かしい教会の中、記憶よりも少し天井の低いその場所で、私の両手の中に白いマグカップ。絵柄は、ブルーナ。聞かずとも彼女の趣味だとわかって、それがどうしてか妙に落ち着く。

 そして、もうひとつ。

「おひさしぶりね」

 そのひとことだけで、なにかもう充分な感じがした。特別ななにかがあったわけじゃなくて、本当にただ久しぶりなだけの、その意味だけを持ったその言葉が、どうしてこんなに大きく思えるのだろう。充分で、満ち足りていて少し幸せで、でもそのくせやっぱり足りない。話したい、でもなにを話せばいいんだろう。その迷いも含めて、全部大事なもののように感じた。

 ——意識が冴えていた、とか。どうしてそんな嘘がつけたのだろう。

 結局マグには、口をつけなかった。そんなことをしたら喋れない。なんの脈略もなく、久しぶりに顔を合わせた相手に、私はまず核心から話した。というか、勝手にぶつけた。そう決めて、でもそのための言葉にぐるぐる迷って、結局出てきたのはもうどうしようもない言葉。

「なんで、わたし」

 ——なんで私、どうして彼のこと、好きになれなかったの。

 質問ではなく、会話でさえない。吐き出した、そんな感じが確かに、した。それでも涙は出なくって、でも、もう、かまわない。日記帳の鍵と、古いカメラと、三角屋根が頭を巡って、それでもまだ、ここにいる。呼吸をしている。心臓が動いていて、そしてそんな私の前に、彼女がいる。同じデザインで、そして絵柄が少し違う、白いマグカップを握って。

 まるで懺悔みたいで、馬鹿らしい。かっこわるい。そしてそれでももう、仕方がないんだと諦めた。もう、駄目だった。どうしても嫌だった。まるで不安を感じているような、怯えているような、きっと端からはそう見えてしまうであろう、私が。しばらく会っていなかったはずの彼女、それが一目で見抜いたほど私は私で、つまりあの頃のままの小さな子供だ。

 小さくて、弱くて、不安で怖くて——でも、違う。

 そうじゃない。

 ——悔しい。

 私は、私であることが、私でしかないことも含めて、本当に悔しい。

 ようやくのこと、涙が出て。ただ一筋、でも、いまさら。遅すぎる。遅すぎた。こんなの、結局、また卑怯なだけだ。何をしても私は私で、結局逃げることはできないんだ。そう思い知ったはずの私の手のひら、両手で包み込んだマグだけが温かくて。震えて崩れ去ってしまいそうな自分を、その熱が繋ぎ止め、磔にしてくれている。

 もしひとりでいられたなら、消えることだってできたはずなのに。

 どうして、こんなに温かいんだろう。

 静寂と、柔らかな空気。少し埃臭い屋内は、あの刺すような冷気が嘘のよう。目の前の彼女は、ただ髪を小さく揺らしただけで、そしてそれが充分すぎる答えだった。悔しいほど簡単に、あっけないほど一瞬で、私は私であることを認めさせられた。何も変わらない、答えらしい答えなんて出ない、それが結論。彼女はただ、小さく鼻をすすり上げただけだ。

「ごめんなさい、風邪気味なのかも」

 そして、照れ笑い。それも、困ったように眉を曲げてだ。ああ、ずるい——私よりもきっと、ずっと、ずるい。当たり前だった。きれいなおねえさんがずるくないはずがない。卑怯だ。さっき「懺悔みたいだ」なんて思ったのが恥ずかしくて、でもまだ、笑うまではいかなかったけれど。

「でも、大きくなったわね……っていう言い方は、ちょっと偉そうかな」

 とりあえず、頷いた。ムッとされるかと思ったら、なんか困ったような顔をされた。でも一拍おいて結局ムッとする、そんな卑怯な人がいま目の前にいる。よかった、と思った。なにがかはよくわからない。でも、まだお昼を回ったばかりのいま。時間がある、それだけでもひとつ、思いもかけない拾いものをした気分だ。

 なにを話すかなんて知らない。まだ考えがまとまらないし、そもそもどういう関係なのか、よくわからないのだからもう仕方ない。でもひとつ、いい考えがあった。どうせ話なんてとりとめもない、ならそれはもうそれでいい。何が変わるわけでもないのなら、そんなのはただ流れてゆくだけのもの。そしてその流れの中で、ひとつ、おねだりしてみよう。どうしてかそれは、いまの私にとって、絶対に先送りにしてはならないもの。

 いつか春が来て、私がこの町を離れる前に。

 いや、中学最後の冬、いまこの冬休みの内に。

 というか、今日。

 ——カメラも、日記も、ないけれど。


 あの三角屋根の下、ひとつ小さな窓のある、いつか本で見たAtticを。


 この目に見たいと願った日は、きっと一度も、なかったはずだ。


〈あの三角屋根の下、ひとつ小さな窓のある、いつか本で見たAtticを。 了〉

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