第28話 残された楽園
春の日差しが緑の大地にふりそそいでいました。
残された楽園は、現の大地を愛してやまない森の癒しの王が住む、平和な国でした。
しかし、それも長くは続かないでしょう。森の癒しの王は、最近特に物思いに沈むようになり、近々、光の隠れ里に移りすみ、隠居するつもりなのでした。
王の娘は落陽の乙女であり、娘を老いで亡くしてしまった悲しみは、月日を重ねて王を苦しめておりました。
癒しを与える力を持つ王も、自らの悲しみを癒すすべを知りません。
悲しみを忘れるには、死を選ぶか、翼ある船で去るしかありませんでした。
季節は春でも、光戦の民にとって現の大地は、すでに晩秋を過ぎ、冬の趣だったのです。
隠れ里のアルヴェとシルヴァが、前にこの地に立ち寄ったのはつい数ヶ月前、一人の少女を連れてきた時です。
「もう、すっかり元気になっているよ。乙女たちのいいお人形になっている」
輝く金髪の光戦の民が、愉快そうに言いました。
隠れ里に住む光戦の民に比べて、ややおしゃべりで陽気な楽園の光戦の民たちは、スミアにとってもいい相手だっただろうと、アルヴェは思いました。
木々の間に住居を建てるのは、アルフェイムの名残でした。
アルヴェとシルヴァは、少女の住まう部屋へと続く階段を上りかけていました。
「シルヴァ?」
突然、止まった弟に、アルヴェは上りかけた階段の中腹で声をかけました。
「私は遠慮しておく。兄者一人のほうが、スミアも話したいことが話せると思うから」
弟のおかしな気の回し方に、アルヴェは苦笑しながらも従いました。
テラスには、心地よい木漏れ日が降り注いでいました。
しかし、少女は影のない日向にいました。
風に揺れる栗色の髪は、光戦の民のように結われ、金の髪飾りで止められていました。眩しいほどの光の中、少女の肌は金色に輝き、生命の力に満ち溢れていました。
着ているドレスはシンプルで、飾りといえば金色の腰帯だけでしたが、金糸で刺繍を施した鮮やかな朱色で、少女の肌に良く映えました。
アルヴェは木漏れ日の下で、しばらく少女を見つめていました。
「アルヴェ?」
先に声をかけたのはスミアのほうでした。
光戦の民は、鎧こそつけてはいませんでしたが、出会った時とさほど変わらない服装でした。
春の陽気のせいか、立ち襟の服の上ボタンだけを外して、涼やかな微笑みを浮かべていました。
「綺麗になったので見とれていた」
アルヴェの言葉に、スミアは恥ずかしそうに下を向きました。
この国に来て二ヶ月、スミアは、光戦の民は嘘をつかない種族だということを知りました。
「みんなが、これが似合うと……」
アルヴェが来ることを知って、そわそわしているスミアを、森の乙女たちが、すっかり面白がって着飾らせたのです。
「私もそう思う」
自分の予言があたったせいか、アルヴェはうれしそうに微笑みました。
アルヴェは、スミアの横に歩みよると、手すりに寄りかかって空を見上げました。
涼しい風が吹くものの、スミアの身近に冬は感じられませんでした。
「王国に行くと聞いた。別れになるな」
スミアはこくりとうなずきました。
「……ごめんなさい」
「謝ることなど何もない」
「あたし、土鬼狩りの邪魔をしちゃった」
アルヴェは、ゴアを切り殺そうとした時のことを思い浮かべました。
「あの時ね、あたし、とっても悲しかったの。妹は土鬼になっちゃったのに、無我夢中で、気が付いていたらゴアを助けなきゃ! って思っていたの。その時、あたしも汚れた土鬼の仲間になったんだと感じた」
冷たい風がスミアの頬を撫でていきました。
光戦の民たちと過ごしたせいでしょうか? まだ綺麗な発音とはいえないものの、スミアの言葉から、土鬼なまりの汚い音が消えていました。
「あたし、ゴアに斬られた時、悲しくて死んじゃうんじゃないかと思った。でも、後から思い出してみれば、最初にゴアを斬りつけたのは私なの。ゴアは腕にけがをしても、赤ちゃんは落とさなかった。ゴアは、きっと赤ちゃんを守りたかっただけなんだと思う……」
アルヴェは不思議そうにスミアを見ました。
子供のように感じていた少女に、ほのかな母性の芽生えを感じたからです。
「あたし、あの時はきっと、ゴアが惨めでかわいそうだと感じていたの。でも、ゴアはやっぱり人間なの。心は何もあたしと変わらない。もしかしたら、焼かれた巣穴の花だって、ゴアが捧げたものかもしれない。相手は土鬼かも知れないけれど、ゴアはゴアなりに恋をして、子供を産んだのかもしれない。だから、ゴアが不幸だったなんて、あたしには決め付けられない」
十二年前、もしも土鬼の反対腕に石があたっていたら、今、アルヴェの前にいるのはゴアのほうで、逃げていった土鬼はスミアのほうだったかも知れません。
スミアは涙を浮かべました。
土鬼の【おまえか】とスミアを呼んだ、信じきった声が頭に響きました。
「ゴアは人間なの。あたしとまったく同じなの。そして、あの土鬼たちは、それを知っていてゴアを仲間としたの。そう思ったら、あたし……もう、土鬼を殺せないと思った」
すでに、スミアには復讐の意味はありませんでした。
アルヴェとシルヴァが乗り越えられない憎しみや悲しみを、スミアは乗り越えてしまったのです。
今後、土鬼狩りの光戦の民たちとは、共に歩むことはできないでしょう。
光戦の民の復讐の矢羽は、土鬼を射殺すと同時に、スミアの心を二つに引き裂くでしょう。
スミアは声を詰まらせました。
「アルヴェと……もう……同志じゃない……」
アルヴェは、スミアの頬に手を伸ばしました。そして、そっと涙を拭きました。
「スミアが狩人である時節は過ぎ去ったのだよ。今は、春に生きればいい。君はこれからも、多くの季節を乗り越えていくのだから」
スミアは潤んだ瞳のまま、アルヴェの瞳を見つめました。慈愛の輝きのさらに奥に、深い悲しみが横たわっていました。
神から与えられた使命はすべて終えました。
力ももはや潰えました。
華やかな勝利の後に残ったのは、奪い取った命の数だけの虚しさでした。
光戦の民の冬は過ぎ去らないのです。春は訪れないのです。
――悲しみの大地に憎しみの雪が降り積もる狩人の時節。
戦いのために存在した光戦の民にとって、復讐のみが忘れることのできない悲しみを和らげる方法であり、天空を渡ることだけが心の痛みを消し去る方法でした。
そのことに気がついてしまったことが、スミアの一番の悲しみでした。
アルヴェの悲しみに、スミアには何もできないのです。
人間であるスミアには、その苦しみをともに分かち合うことはできず、ただ、暖かな日差しの中で、過酷な冬を過ごす光戦の民たちを切なく思うだけでした。
スミアにできることといえば、ただ、アルヴェが望んでくれたように、人間らしく自分で自分の道を切り開いてゆくこと。
だから、スミアは王国へ行くことを決意したのです。
アルヴェは優しい微笑みのまま、言いました。
「君が旅立つと聞いて、大慌てで贈り物を考えた。私はきっと、もっと価値ある物を君に与えられると思うのだけど、今はこれしか浮かばなかった。職人にお願いして、急いで作ってもらったものだが……。なかなか良くできている」
そう言うと、アルヴェは金の首飾りをスミアの首にかけました。
それには緑色に輝く宝玉がついていて、スミアを驚かせました。
その石は、アルヴェの服のボタンに使われていたエメラルドで、スミアにとって石よりも、石が呼び起こす思い出のほうが大切なものでした。
成り行きとはいえ、光戦の民が少女の身請けを申し出たのですから。
そして、これは、スミアが自由に生きることができる証でもありました。
スミアは、うっとりと石の放つ緑の光を見つめていました。
どんなに季節を乗り越えても、けしてつきない光。けして忘れない思い出。
そして……。
「ありがとう」
スミアの頭の中を、アザミ野の思い出が走馬灯のように駆け抜けました。
冬枯れた季節でしたが、これほど満ちたりた季節を、スミアは知りませんでした。そして、たとえどのような豊かな季節が過ぎていっても、かなう季節はないでしょう。
ありがとう……。
これ以上の言葉がもう見つからず、あふれ出そうな思いを押し殺して、スミアは明るい笑顔を見せました。
「あたし、飢えて死にかけても、旅の行商にこれは売らないよ」
二人は思わずくすりと笑いました。
シルヴァの服のサファイアは、すでに老婆の手を離れ、行商のものになっていることでしょう。王国の地、賑わいを見せる市場の片隅で、偶然スミアが見つけ、買い戻すのは今から十二年後のことなのです。
楽しく弾んだ会話のあと、やがてスミアの笑みは消えました。
いくつもの季節を超えて、美しく成長し、たくましく生きていこうと決心したところで、アルヴェはそのスミアを見ることはあるのでしょうか? 元気なスミアを見てもらえるのでしょうか?
「アルヴェは……天空へ帰ってしまうの?」
ハシバミ色の瞳が、永久の別れを予感して、どこか不安げに揺れました。
澄みわたった春の空を、アルヴェは見上げていました。翼船にも似た白い雲が、かすかにたなびき、浮かんでいました。
「いつかは誰でもね。でも、まだ私とシルヴァの狩りは終わっていないのだよ。終わるのは、まだまだ先のこと」
おそらくきっと……ゴアが生きている限り、土鬼の殲滅はできない。スミアが生きている限り、この地を去ることはない。
アルヴェは微笑みました。
アザミ野――凍りかけた川。小さな舟。痩せこけた少女。
冷たい荒れ野で希望を見いだしたのは、もしかしたら、アルヴェのほうだったのかも知れません。
「だから、今は別れの時だとしても、いつかまた、この大地のどこかで、君に会えるかもしれないね」
スミアは不思議そうな顔をしていました。
光戦の民の銀髪を揺らす風は、かすかな花の香りを運んでいました。
それは春の風でした。
厳しい冬の時代であっても、かすかな希望の光が冬枯れの野を照らす日も、おそらくあるにちがいません。その光の中でくつろぐことも、狩人には許されていることでしょう。
スミアの額に、アルヴェは身をかがめて口づけしました。そして、スミアにはわからない光戦の民の言葉でつけくわえました。
『さようなら、愛しき人よ』
完結
狩人の時節 わたなべ りえ @riehime
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