前日譚

割れた鏡は月を映さない

 冬の夜明けは、遅い。

 木製のフェンスに体を預けて河口を見遣る。高層ビルの群れに見下ろされ、港湾に注ぐ鉛色の流れ。ゆったりと朝霧の中を進む船舶をぼんやりと見つめていれば、背後から響く足音があった。こつこつとハイヒールがウッドデッキを叩く音。一歩離れたところ、柵の向こう側を見つめるこちらとは反対に、フェンスへ背を預ける女の気配を感じていた。

 口から零れたミルク色が虚空に消える。隣で女が気怠げに髪を掻き上げた。立ち並ぶビルに隠された地平線のどこかから、間もなく日が昇る。

「誰のことを考えているの?」

 女の声が、冷えた空気を伝って耳に届く。大気も、声色も、気持ちも。冷えて冷えて冷えきった、冬の未明。

 暫し考えて、首を横に振った。

「いや、何も考えていなかった」

 そう、何も。思考を巡らせることもせず、河と海の境目を見つめていた。

「虚ろな人」

 詰るような言葉にも反感は湧かない。そう言われるのならそうなのだろうという、奇妙な納得があるだけ。

 女がくるりと体を反転させ、自分と同じ方向を向く。二人の間に一歩分、空いた距離はそのままだった。この距離が女の答えなのだろう。一年。最初に出会ってからの時間を思うと、よく持った方だとは思う。それでも結局はこうなるのか。自嘲めいた笑いを浮かべようとしても、錆びついた表情筋は反応しなかった。四年前のあの喪失以来、理性と感情の歯車は上手く噛み合わないままだ。

「そうか」

 短い返答を返したあと、しばらく言葉はなかった。ふたつの体温の間を潮風が吹き抜けていく。白々と明けていく空の下、冷気が首を撫でた。ホテルや飲食店の立ち並ぶ歓楽街にほど近い遊歩道だったが、夜も明けきらぬこの時間には人通りもまばらだ。つくづく、破局には相応しい空間だと思う。

 シルクのような滑らかな素材の紐。それが指に絡みつく感覚に似ていた。不快ではないが、とりたてて好ましいと感じるわけでもない。握りしめる訳でもなく、振り落とす訳でもなく、ひとりでに五指に絡む紐をただ放置して。だらだらと女との関係を続けていた。その紐は、今になって指の間から抜け落ちようとしている。ほんの少し指に力を籠めれば繋ぎ留められる。それでいてなお、掴もうとはしない。

 気がつけば空を覆う漆黒は深い藍色に変わっていた。藍色から浅葱色、そして水色へ。徐々に明るくなるグラデーションの中心、ビルの隙間から僅かに見える茜色に東の方向を知る。夜が終わり、朝が始まる。

 女の声がぽつりと落ちた。

「貴方には、忘れられないひとがいるのね」

 その言葉に、心臓が跳ねた。女に彼女のことを話したことはなかったから、ではない。彼女のことが話題に出ただけで動揺する自分自身が、何よりの驚きだった。

「……誰から聞いた?」

「いいえ、誰にも。薄々察してはいたけれど」

 それきり、短い遣り取りは途切れた。

 この一年で、隣に立つ女が聡い人間だということを知った。彼女の存在を悟ったなら、きっと同じように。既にこの世にいないことも気付いているだろう。胸に兆す、刃物で刺されたようなひやりとした痛み。封じこめていた記憶がフラッシュバックする。四年前。現れない待ち人。病院からの連絡。警官からの事故の説明。霊安室の線香の匂い。切れ切れの記憶の断片が次々と瞼の裏を掠めていく。

 ――人間は、愛を誓っていた婚約者を亡くせば悲しむものなのだろう。けれど自分には、感情の記憶は何もない。

 白い布が掛けられた骸の横で、ひどく嘆いていた筈だ。悲しかったのだろう。辛かったのだろう。いつの間にか、推定する形でしか自分の心が理解できなくなっていた。生々しい喪失の記憶だけではない。それ以前の、彼女と出会ってから婚約に至るまでの過程も思い出せない。彼女はどんな顔をしていただろう。どんな顔で笑っていただろう。彼女の存在と一緒に喪ってしまったものは何なのか、それすらも分からない。これでは確かに、自分は女の言う通り虚ろな人間だ。底なしの穴に投げ込まれた石のように、胸の空洞へどこまでも女の言葉が沈んでいく。

 黙りこむ自分を横に、女の声は続く。

「いっそ分かりやすい浮気ならよかった。それなら、私も未練なく別れられた。……最後の最後まで、貴方は私を愛してはくれなかった」

 海から吹きつける風に女の黒髪が踊る。視線が突き刺さるのを感じた。大概の人間ならば、ここで少しなりとも罪悪感を覚えるのだろう。この期に及んで何も感じず、立ち尽くしているだけの自分がいる。愛とは一体どんなものなのか。自分と彼女の間にあったはずの感情すら、もう思い出せない。乾いた唇を動かして、声を紡ぐ。

「『深い仲になるつもりはない』と。――最初に、言ったはずだ」

 何を失くしたのか、何を忘れたのかさえも判断できないほど多くのものを彼女と共に喪ってから。他の人間を愛することなどとうに諦めていた。それでも、社会人としての生活を続ける以上どうしても女性との接点は生まれる。個人的な付き合いも多くなる。その中で、ぎりぎりのところで踏みとどまるために口にしていた言葉だった。

「ええ、承知していた。それでも私は、希望を捨てられなかった。形だけでも近くにいれば、いつか貴方の愛を得られると夢想していた」

 かつりとヒールの音を立て、女が半歩踏み出す。自分の間に空いていた距離が詰められる。僅かな空間を隔てて、目と目が合った。

「貴方のことが、好きでした」

 一年間、自分の手に絡まっていた紐が解けてゆく。紐の片端が指の先端にかかった。これが最後の機会。掴むことを選ぶか、指から紐が抜けてゆくのを静観しているか。これが最後の機会だと、女の目は語っている。

 空虚は、答えを出すことすらせずに。感情の載らない表面的な事実だけを吐く。

「すまないが――貴女の気持ちに応えられるだけの俺は、もう残っていない」

 あまりにもあっけなく。紐は指から滑り落ちていった。もう掴むことのないその感触すらも、空洞には残らない。 

 表情の抜け落ちた女が一歩後ろに下がる。愛を忘れた身勝手な男と、愛を求める身勝手な女。結局は、交わることのない平行線だった。そんな気がした。

 別れの言葉の一言もなかった。身を翻した女は、朝日の下を歩き去っていく。もう二度と出会うことはないだろう。悲しいと感じることなく、諦めの気持ちを抱くこともなく、立ち尽くしたまま女が視界から消えるまで見送っていた。

 

 一時間前までは夜闇に浮かぶシルエットでしかなかったビルの群れを太陽が照らし出す頃になって、ようやく歩き出した。ふと、既視感がよぎる。朝日を照り返す建物の並びに見覚えがある。一回や二回ではない、一時期足しげく訪れていた景色。周囲を見回し、記憶を辿ろうとした瞬間、囁く声があった。振り返ってはいけない。かつての自分からの、理由を忘れてしまった忠告が脳裏に響く。ここには、忘れてしまった何かがある。声に逆らって過去を振り返るべきか否か。判断ができない。感情のこぼれ落ちた空の器だけが、駅へ向けてただ足を進める。

 高架沿いのホームから電車に乗り込み、河口を囲むように立ち並ぶビル群を車窓から見つめたとき。そのうちの一棟、老舗のホテルとして知られる建物に目が止まった。


 ああ、思い出した。あのホテルは、四年前のあの日に彼女と待ち合わせていた場所。式を挙げる予定だった会場だ。


 電車が動き出す。ステンレスに区切られた窓枠の中を景色が流れる。一人で暮らす空間の広さに耐え切れず引き払った、同棲していたマンションもこの風景のどこかにあるだろうか。渡せずじまいになった指輪は、葬儀と引越しと仕事に忙殺されるうちに何処かにいってしまった。あの小さな金属環とそこに光る宝石を、せめて骨壺に納めてやれたとしたら。今の自分とは、何かが違っていたのだろうか。捨てることも売ることもできなかった指輪の幻影だけが、いつまでも胸に影を落としている。




 まるで抜け殻だなと、古くからの友人に言われる。小さく頷いて、カウンターに置かれたグラスを口に運んだ。相変わらず、味の分からない酒だった。

「そういうところだと言っている」

 バーの飴色の天井を見上げ、友人が溜息を吐いた。彼にとっては、自分は今の台詞に反発すべきところだったらしい。一拍おいて、その判断ができないからこそ抜け殻と評されたのだと思い至った。

「以前にも、虚ろな人だと言われた」

 払暁の川辺で去っていった女が口にした言葉を、友人に告げる。別れたと告げた瞬間、友人が眉を顰める。説教めいたことでも言われるかと思ったが、予想に反して友人は酒を呷っただけだった。

 隣で酒を飲んでいるこの男は、自分の事情を知っている人間の一人だ。物言いたげな顔をしながらも何も言わないのも、彼なりの配慮らしい。

 もう一口、自分のグラスに口をつける。アルコールが喉を灼く。

「見ていられねえよ」

 ぽつりと零すように、友人が呟く。ごとりとカウンターに戻されたロックグラスと、氷とガラスのぶつかり合う澄んだ音。頭上でシーリングファンが、暖房にぬるついた空気を攪拌している。しばしの間、黙って壁を見つめていた。

「そのまま一生、抜け殻のまま孤独を貫く気か?」

「……分からない」

 そう、分からないのだ。亡き人に心を奪われたまま沈んでいくと、そうはっきり心に決められたなら良かった。思考を停止したまま、別れたあの女と交際の真似事を始めたときのように、ずぶずぶと流されていくのだろう。

「救えないな」

 呟いて、友人がグラスに残った最後の一口を飲み干す。俺が払うと言い置いて彼は席を立った。その声に滲んだものは同情か、憐憫か。振り向かずにバーを出て行く友人の背を見送る。味気ないアルコールで濡らした唇は、溜息すらも零さなかった。


 女が去った後の日々は、存外代わり映えのしないものだった。目を覚まし、出社し、退社後は適当に食事をして帰宅し、寝る。日常へたまに挟まれていた女からの誘いがなくなっただけ。無味乾燥な日々に沈み込むように骨を埋める、そんな錯覚が現実味を帯びてきた頃に。

 自分が関わっていたプロジェクトの関連だったと、社会生活のためだけに残っているような脳の一部分が考える。とあるホテルのワンフロア、十数社から招かれた参加者が料理もそこそこに名刺交換に駆けずり回っている。慰労半分、コネ作り半分のよくある立食パーティー。気づけば自分の手元にも、流されるように交換していた名刺が十数枚。一度整理しようと、いったんホールの外に出た。廊下に敷かれた毛足の長いカーペットの上を歩き、適当な椅子に腰掛ける。ぽすりと空気の抜けるような音が重なった。おや、と隣に首を巡らす。全く同じタイミングで、隣の椅子に腰を下ろしたらしき女性と目が合った。

 軽く会釈され、慌てて小さく頭を下げる。一瞬反応が遅れたのは何故だったろう。横目で隣の女性を一瞥する。緩く巻いた長い黒髪に、胸元にパールをあしらったフォーマルなワンピース。ネイビーブラックのアイシャドゥが切れ長の瞳を際立たせている。

 じろじろと眺めるわけにもいかず目を逸らしたが、頭の中に何かが引っかかったような感触は続いている。初対面の、隣に座っただけの彼女がどうして気になるのか。胸をざわつかせる数年ぶりの感触を振り払うように、名刺入れに溜まった名刺を取り出した。

 空になったデザートの容器がスタッフに回収されていき、棒読みめいたお開きの挨拶がなされた後。所属と連絡先の記載された戦利品を懐に収めたスーツの群れが続々と会場を出て行く。自分も上着を羽織り、鞄を手に取ったところで背後から呼び止められた。振り返る。


 ――亡きひとが、そこに佇んでいた気がした。


 無論、目の錯覚に決まっている。そこに立っていたのは、先ほどの女性だった。薄いピンクの口紅を塗った唇が、何事か言葉を紡ぐ。交わした遣り取りは覚えていない。きっと事務的で当たり障りのない挨拶と紹介だ。機械的に名刺を交換して、その場を離れた。

 あの女性は、昔に亡くした愛しい人に似ているのだと。ホテルに直結する、駅まで延びる連絡通路を歩きながら気がついた。だからといって、今更何の感情も浮かんではこない。ただ。彼女と出会うのは、これが限りにはならない。そんな予感だけがあった。

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同床異夢のセレナーデ 百舌鳥 @Usurai0000

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