同床異夢のセレナーデ

百舌鳥

小夜啼鳥の渇望

 瞼の上に柔らかな温もりが注がれるのを感じる。ゆっくりと目を開けた先には壁があるだけ。背中越し、合わせた素肌から自分のものではない鼓動が伝わる。ブランケットの下で寝返りをうてば、眠る彼の顔が視界に入った。満ち足りたような寝顔を見つめるうちに、心臓が締め付けられる感触に襲われる。胸の奥底が熱くなる。他の感情全てを塗り替える多幸感が広がっていく。

 ――愛されているなんて、錯覚してしまう。


 業務上の付き合いで出席した、取引先のどこだったかが主催するパーティーだった。表面上は人のひしめく場に適応しているようでいて、その実何処にも目を向けていないような男がいた。ホールの片隅、一人佇んでいた彼の横顔が目に留まったのがはじまり。静かに周囲を拒絶するように立っている彼が無性に気になって、そうして私から声を掛けた。


 好きだ、と思ってから。転がり落ちるのは、早かった。何かと理由をつけては会うようになっていくまでに、さほど時間はかからなかった。どこか虚ろな瞳をした彼が欲しくて、隣にいたくて、拒絶されないのをいいことに私の方から手を伸ばした。そうして半ば押し切るように始めて、男女の交際に限りなく類似した行為を続けている。


(君は、似ている)


 ある寒い寒い夜、二人きりで夜景を眺めながら。白い吐息に紛れてぽつりと零された言葉があった。その頃には、もうとっくに。私に向けられる彼の瞳が、時折私ではない誰かを覗き込んでいることには気がついていた。


(誰に?)

(遠い昔に喪った、大切なひとに)


 婚約者だった、と。彼が十年前に出会って、七年前に婚約して、そして六年前にあっさりとその命を散らした人。式の打ち合わせのために待ち合わせていた場所に向かう途中の、交通事故だったと彼は言う。私はそのひとの名前すら知らない。そのひとのことを語る声にだけ隠しきれない感情の籠る、彼の絶望も知らない。

 全て見えないふりをして、その手に自分の指を絡ませた。


 彼といるとき、私は透明になる。私といるとき、彼の虚ろな瞳に暖かなひかりが点る。彼の瞳が私を透かして、彼の恋しいひとを視る。彼の呼ぶ名は確かに私のものだけれども、言葉も感情も私に向けられてはいないことは気付いている。彼だってきっと、私が気付いていることを知っている。ねじれた交差にお互い見て見ぬふりをして、それぞれの幻影に溺れる。

 決してぞんざいに扱われている訳ではない。女性としてそれなり以上の扱いは受けているとは断言できる。彼も表だって私を別人として扱ったことはない。彼の口からそのひとの名前が出たのは、あの寒い夜が最初で最後だった。

 それでも、ふと心に影がさす瞬間はある。食事の席の後で彼に貰ったペンダントを抱きしめながら濡らした枕の感触があった。彼女の存在を恨み、やり場のない鬱屈を彼に向けようとした夜があった。そして煩悶の後に残ったのは、どうしても彼を憎むことはできないという単純な事実だけ。私は彼を愛している。愛ゆえに、彼の行為を黙認する。たとえその愛が、愛と言うかたちで報われずとも。彼に本当の意味で愛されたいと、私を見てほしいと慟哭する声を押し殺して。彼に笑顔を向けてきた。


 未だ起きる気配のない彼の頬に手を伸ばす。六年前のあの事故以来、私生活のほとんどを仕事に費やすようになったと言っていた習慣はまだ続いているのだろうか。その時間をほんの僅かでも、彼は私のために割いてくれている。彼の眉間に寄っていた皺をほぐしてやれないかと、閉じられた目の間に指を当てた。ああ、どうしようもなく彼が愛しい。



(俺は君が思っているような人間じゃない)

 ふと、告げられた言葉を思い出す。あれは片手の指に入る程度の回数逢瀬を重ねた頃だったか。自分はがらんどうの残骸だと、彼は自嘲していた。彼女の存在をまだ知らなかった私は、それでもいいと答えることしかできなかったはずだ。その告白の真意も分からずに。

 ベッドの上で下唇を噛み締める。そうだ、それでもいい。彼がその瞳に空虚を宿す以前に、彼を満たしていたものは彼女と一緒に逝ってしまった。だから何だというのか。愛しい彼と共にいられるのならば、私は喜んで、私ではない女の似姿に甘んじる。何百回と己に言い聞かせてきた言葉をもう一度、胸の中で繰り返す。

 一度だけ、ひどく残酷な言葉を口走った覚えがある。


(あなたの恋しい人より先に、あなたと出会えていればよかったのに)


 紛れもない嫉妬だった。死してなお彼の瞳に映り続ける彼女への、女としての嫉妬。最低なことを言っているという自覚はあった。


(その場合に君が出会うであろう俺は、君が出会った俺ではないな)


 予想に反して、返ってきたのは平坦な声だった。怒りも悲しみも含まない、感情の揺らぎひとつない声。それだけで、彼女には決して勝てないという事実を突き付けられるには十分すぎた。そこに彼の意図はないだろう。機械的に言葉を返しただけ。彼が私自身を愛してくれることはないと悟ったのも、その瞬間だった。


 窓から降る朝の光に刺激されたのか、彼が身じろぎする。何かを探すようにシーツの上を彷徨う腕に身を寄せると、背中に回った腕に抱きしめられる格好になった。規則正しい寝息が聞こえる。彼の瞼の裏に映るのは、きっと私ではない。眠る彼の耳に唇を近づけた。


「私のことを愛してくれない、あなたのことを愛しています」


 呪いにも似た懺悔。あるいは、諦観にも似た糾弾。掠れた声で紡がれる囁きに反応してか低い唸りがあったが、彼に目を覚ます様子はない。

 こんな関係は、いずれ破綻するだろう。私が耐えきれなくなるのが先か、彼が飽きるのが先かは分からない。けれど今は、確かに彼を愛している。亡きひとの面影を求めて私に触れる彼が酷い男だというのなら。彼からの愛に似た感情を享受する私もきっと同罪だ。


(その場合に君が出会うであろう俺は、君が出会った俺ではないな)


 彼の言葉が再び頭に浮かぶ。果たして彼女を喪う以前の彼に出会ったとして、私は彼を愛せるだろうか。私が恋をしたのは彼であって、彼の空虚にではないと。証明できる日は来ない。死者が戻らないのと同様に。

 せめて今ここに感じる温もりだけは本当であれと、彼の腕の中で目を閉じた。

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