それで私は、今日も仕事する。

芹意堂 糸由

それで私は、今日も仕事する。

 この仕事を何十年以上続けている私のことです、何も一流とまではいいませんが、手練れのあたりには成長していると自負しておりました。それでこそ仕事に誇りに思っていたので、知識も並大抵ではないと信じておりました。辞めていく友にも背き、この仕事を信じてきた私のことです、充分この仕事を愛せていると惟っておりました。

 だからこそ。

 だからこそ衝撃だったのです。同時に私は、悲しんでいました。恐ろしく嫉妬し、自分を責めていました。

 なにも、誰が悪い、とかの話ではありません。だから不意に現れた怒りを、自分に向けるしかなかったのです。自分が悪い、自分が悪い、といって変な暗示をかけるしか私にはできなかったのです。嫌な話です。

 私はそのとき、首都圏内の横断歩道を歩いていました。仕事の通りに。人混みに紛れ、同業者を隣に、また前に、ときにすれ違って歩いていました。仕事中でしたので、私語を慎み、顔見知りの同業者にも目配せさえせず、感情を無にしてリクルートスーツ姿で歩いておりました。空は白く濁っており、建ち並ぶビル群はその色を鈍く反射していました。別にどうでもいい話なのですが、私はそういった変哲のない空が好きなのです。何にも見いだせない風景の中での方が、ずっと仕事に打ち込めます。ですので、私はこのときずっと機嫌が良かったのです。そのまま仕事を終えることができれば、今頃私はこんな物思いに耽ずにしっかりと寝付けているに違いありません。そうあれば良かったのでしょう。

 しかし、そうにはならなかったのです。

 午後五時をまわり、私は仕事を終えました。定時になったことを理由に、ゆっくりと帰宅しようとしました。いつもより早い時間帯だったので、本屋にでも寄ろうか、パチンコでも行こうか、それともたまには自分の好きなように歩くことのできる散歩も良いかもしれない、そんなことで頭を働かせていました。いえ、胸をふくらませていた、の方が正しいのかもしれません。なんでも私は、そのとき笑顔でした。たとえ仕事を誇りに思っていたとしても、余暇の時間は良いものです。なんにせよ息抜きは大切です。

 そのとき、奇妙な、珍妙かつ前代未聞な、要するにおかしなものが私の視界に入ったのです。気持ちの悪いような、まるでそこの地面が自然界の理に反しているような、私を誑かしているようなその光景から、私は目が離せませんでした。それはちょうど駅の出入り口、人が見やすいように一段高く上がっている広場にありました。数十名の人がその周りに集まり、その光景を見て歓声が湧かれています。どうやらその光景に混乱している、驚いているのが自分だけではないのがわかり、私はほっと一息をつきましたが、どうやら私と彼らの中には違いがありました。彼らの表情から見るに、彼らは感心や尊敬の色を抱いており、私はちょっとした怪訝さと、焦燥感を抱いていました。彼らは純粋にそれを見て楽しんでいましたが、私は楽しむよりまるでそのものを疑うかのように見ていたのです。初めはそれに気付かずそれに近づきましたが、だんだんと自分の心情が冷静に捉えられるようになります。そんな自分にひどく驚きましたが、私の負の感情はとまりませんでした。羨み、恨み、妬みの思いがぐるぐると音をたてて渦巻き、私は我を忘れるほどそれを注視していました。

 それは、訊いてみるとムーンウォークと呼ばれるものでした。どうやらストレートダンスの技の一つのようだ、という情報を入手すると、私はそれをやっていた者等に歩いて近づきました。若くて整った顔は、まるで私の正反対でしたが、私もその若者等も「歩く」ことに愛を持っていることは確かだろう、そう自分に言い聞かせて彼らに怪訝に言問いました。


 なんだね、それは。


 ムーンウォークですよ。マイケル・ジャクソンって知ってますよね?あれですよ。


 若者等はすらすらとものを言い、私に笑顔を振りまけました。しかし私は肝心なその「マイケル・ジャクソン」を知らなかったので、彼らが続ける説明の三割も理解できませんでした。彼らに礼を言うと、私は心此処にあらず、といった放心状態でその場を離れました。そこにいることが耐えられませんでした。私は自分の仕事を誇りに思っていましたし、それを自負していただけにその事実が厳しかったのです。

 そのせいで、私は今も寝付けないのです。



 私はこの仕事を何十年以上も続けていました。「歩く」。そんな単純な仕事でしたが、実に奥が深く、ときに世に大きな影響を与える仕事です。言われた通りの道を、言われた通りの服で、言われた通りの人物を演じ、言われた通りに歩くのです。ときに田舎道を老農家で、ときに都会にてビジネススーツで、ときに平日のお昼に不審者のような格好で、そしてときに山奥を修行僧を演じて歩くのです。給料は決して高くありませんでしたが、私はこの仕事を誇りに思っていました。

 だからこそ、それは実に衝撃的でショックだったのです。

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それで私は、今日も仕事する。 芹意堂 糸由 @taroshin

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