空はベネジクト液

紫蘭

空はベネジクト液

「空はベネジクト液」

そう言って兄が笑ったのはいつのことだったのか、もう今の私は覚えていない。

それでも、兄がいつも自信満々の表情で私を見ている瞬間が本当に大好きだった。



私が6歳、兄が11歳の時、私達の両親は交通事故に遭った。

その日は夕方にかけて突然、大雪警報と強風警報が発表された天気の不安定な日だった。

そんな日に悲劇は起こった。

前も見えないくらい吹雪いている雪道を走っていたトラックがデート帰りの両親の乗っていた車を潰したのだ。


“強風に煽られ、トラックが横転しました。

隣の車線を走っていた車が下敷きになり、トラックの運転手は意識不明の重体です。

下敷きになった車に乗っていた男女は死亡が確認されましたが、まだ身元は分かっていません”


祖父母の家で兄とその速報ニュースを見ていた私は、他人事だと思った。

だから私は兄に深く考えず、平坦な声で「大変だね」と言った。

兄は「たとえ、知らない人でも怪我してるんだからそう言うことは言っちゃダメだよ」と私の頭を撫でた。

私は兄のその言葉に素直に頷いた。

まさか、その潰された車に乗っていたのが自分達の両親だとは知らずに。



事故の後、私と兄は当然のことのように祖父母に引き取られた。

よく漫画であるような引き取られた先での虐待や暴力も無かった。

毎日温かいご飯と柔らかい寝床がきちんと用意されていた。

兄は礼儀正しい模範的な子供だった。

祖父母の両方に深く愛情を注がれているのが、鈍感な私でもよく分かった。

それに対して、私は感情の起伏が少なく、何を考えているのか分からないような子供だった。

学校のクラスメイトだけでなく、祖父母からも疎まれるようになっていた。

それでも兄だけは私に構ってくれた。

私はそんなに兄が大好きだった。


祖母は母を失ったことのショックが大きく、事故から1、2年の間は、ずっと塞ぎ込んでいた。

だかそれは、段々と主に兄、時々私への執着に変化を遂げていった。

毎日毎日、学校から帰るといつどこで何をしていたのか事細かく訊かれ、正直私はうんざりしていた。

学校では友達とそこそこに過ごしているだけの私にとって、学校での感想など皆無に等しかった。

「朔ちゃん朔ちゃん」と猫なで声で祖母は兄を呼ぶ。

兄はいつも楽しげな友人との笑い話を祖母に、飽きることなくしていた。

兄はそれをどう思っていたのだろう。

少なくとも私の前で嫌そうな顔をした事は無かったように思う。


兄は中学に上がってから、瞬く間に賢くなっていった。

家でも歯磨きをしながら参考書を読んだり、常に勉強していた。

その様子に祖父母は大喜びだった。

兄に「勉強楽しい?」と訊いたら、「楽しくなかったらしないよ」と言われた。

私には勉強の面白さがよく分からなかったけど、兄が楽しそうなのは嬉しかった。


私が暇そうにしていると、兄は突然、自分の持っている知識を語り出すことがあった。

その時の自信に満ちた表情!

私はその顔が見たくて、兄に難しい知識を授けて貰いに行った。

そうすると兄は私の望む表情を讃えながら、私に語り掛けてくれた。

兄の言ってる言葉は凄く難しくて、多分私は半分も理解していなかった。

分からないくせに、兄の話に頷くのは気が引けたので、私は分からない所があったら即座に兄に質問した。

兄は、ゆっくり私が理解出来るまで何度でも説明してくれた。

やっぱり私はそんな兄が大好きだった。


特に私が好きだったのは、“ベネジクト液”の話だ。

その当時、兄は学校で習った“ベネジクト液”が大のお気に入りだった。

「いいか、律。ベネジクト液っていうのはな、空の色をしてるんだよ。なのに麦芽糖が溶けてる水溶液を加熱すると赤褐色になるんだ。なんか凄いよね」

「ベネジクト液?麦芽糖?何それ?」

「ベネジクト液は麦芽糖みたいな還元性の糖を調べるための薬?みたいな物だよ。麦芽糖はねー。そうだなぁ」

兄が腕を組んで楽しそうに考える。

私にも分かるように噛み砕いて説明するために何かいい例がないか模索しているのだ。

「あっ!律はデンプン糊って使ったことある?」

「あるよ」

「麦芽糖っていうのは、そのデンプンを細かくした物質のことなんだ」

「デンプンを細かく」

「そう。でね、ベネジクト液って綺麗な青色をしてるんだ。しかもその麦芽糖の溶けてる水溶液にベネジクト液を入れて、火にかけるとね、赤褐色になるんだ」

「赤褐色ってどんな色なの?」

「夕焼け空を濃くした感じかな」

「あーだから空なんだね!」

私が嬉々として言うと兄は満面の笑みでうんうんと頷いた。

「流石僕の妹!飲み込みが早いな〜」

兄がそう言って私を褒めてくれるのが、嬉しくて照れくさかった。


兄がその話をした日から、私は真っ青な空と真っ赤な夕焼け空を見る度にベネジクト液のことを思い出すようになった。

学校の子達には私の感動を理解してもらえなかったけど、私はそれでも良かった。

やっぱり私の兄は凄い、と強く思った。

中学に上がってから、私は兄のおかげでピンポイントで知識が深くなっていることに気が付いた。

それもそれで面白いので、私はそのまま放置することを選んだ。



私達の生活が急変したのは、兄が高2、私が小6の時だった。

ずっと元気でピンピンしていた祖父が心筋梗塞で死んだのだ。

祖母は母が死んだ時のよりもずっと塞ぎ込み始めた。

兄がどれだけ介抱しても無駄だった。

祖父の死から1年後。

後を追うように、祖母もまた心筋梗塞で死んだ。

悲しくはなかった。

祖母が一秒でも早く祖父の元に行きたがってるのは何となく知ってたし、そういう気持ちも理解出来る。

やっと念願が叶ったのだから私に悲しむ権利は無い。

兄は祖父の時も、祖母の時も、葬式のような人前では泣かなかった。

葬式後に誰も見ていない所で私を抱き締めて啜り泣いていた。

兄が泣くと私も悲しくなって、結局、二人で声を押し殺して泣くのが定石だった。

こうして私の肉親は兄だけになった。


兄は私の生活を守る為に大学進学を諦めて、専門学校に行きながらバイトをするようになった。

私の知らないうちに兄は、車の免許、大型トラックの免許まで取っていた。

バイト先の人が格安で免許を取れる所を紹介してくれたらしい。

兄のバイト代と祖父母の遺産のおかげで、私達は大きな問題に直面することなく生活していた。


兄が私を置いて、先へ先へ進んでいくその間に私は高校生になっていた。

私は学校が好きでもなかったけど、嫌いでもなかった。

勉強も同様だ。


ある日、兄が「息抜きに遊びたい」というので兄と二人で街に出た。

遊園地なんかで遊び終えて、家に帰る途中、私はとある店のショーウィンドウから目が離せなくなった。

特徴的な曲線を描いているギターがそこには置いてあった。

私は一瞬で心を奪われた。

目を細めて、睨み付けるように値段を見ると10万円と書いてあった。

私はとても驚いた。

ギターはこんなに高い物なのだと。

だから私は慌てて、何事も無かったかのように目を逸らした。


兄はそんな私の行動を見逃さなかった。

数ヶ月後の私の誕生日に、兄はその時のギターを買ってきたのだ。

「大事に使えよ」

兄にしては珍しく恥ずかしそうに言った。

私は嬉しくて嬉しくて、その日から毎日のようにギターを弾くようになった。


私にもそんな変化があったように兄にも多少の変化はあった。

兄は前のように私に知識を垂れ流すようなことをしなくなったのだ。

それでも、ベネジクト液の話はいつまでも忘れられなくて、空を見る度に頬が緩む。


めまぐるしく動く日常に、ようやく慣れてきた頃だった。

兄が死んだのは。

即死だったらしい。

なんとも言えないあっけない最期だった。

兄はバイト中に乗っていたトラックで事故を起こした。

被害者にも多くの被害が出た。

その被害者がヤクザらしく、私達の家の前に時折、ヤクザが構えていることもあった。

それも一週間程度で終わり、私は一人になったことを強く感じるようになった。

兄は死んだ。

もう私の優しい兄は帰ってこないのだ。

そう思うと涙が止まらなくて、夕焼け空が青空に変わるまでずっと泣いていた。



その後、私はとある音楽関係者に拾われ、ギタリストとしてデビューした。

兄のことは今でも、論理的に考えても納得出来ないと思うし、受け入れられない。

でも私は今日も生きる。

空はベネジクト液、という言葉と共に。



私はギターを背負い、部屋の電話の横に置いたコップの水を入れ替える。

水の中には一輪の花が浮かんでいた。

私はその花を凝視してから、ゆっくりと背を向けた。

底の低いパンプスを履いて、私は家を出た。

辺りにはアパートのドアの閉まる大きな音が鳴り響いていた。

人混みの焦燥感の中で、私は今日の空もベネジクト液だと思った。

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空はベネジクト液 紫蘭 @tsubakinarugami

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