第三章
今夜は雲一つ無い
ぱしゃ。
波音に混じって、それは微かに聞こえた。
昨夜は調子良く聞こえたが、今夜はそれのただ一度のみで在った。少女との再会を
果たして少女は、其処に居た。しかし今夜は、ぼうっと海を見つめながら
彼女の、二つの表情。此の意味することとは何なのか。彼女は昨日、踊ってしまう程に喜ばしいことが在り、反対に今日は、何か
浮かぶ満月、空と海に一杯の輝く星々。風が柔らかく吹く度、ふわりとなびく金色の髪。現在目にしている風景は幻想的で、思わず見とれてしまう。私は今、別世界に居るのでは無いかと錯覚する程に。
風景に見とれるあまり足下が
少女は勢い良く振り向いて、此方を見た。その動作に合わせて、彼女の髪も服の
「昨日もいらした方ですね」
鈴の鳴る様な、か細く可愛らしい声だった。
私は直ぐに頷く。
「恐らく貴方はわたしを、変だと思っていらっしゃるのでしょうね」
それには頷かない。
「わたしは、貴方がたとは似て非なる者。此の服だって、此処にはまだ存在しないのよ」
少女は着物の裾を摘まんでみせた。
「貴女は、実に美しい方です。
私の問いに彼女は首を横に振り、そして頬を紅潮させた。
「そんなこと、在りませんよ。そのような言葉を面と向かって
少女は
「わたしは、海から来たのですよ」
拍動の音が聞こえていないか、心配だった。息遣いを感じる程近くに、彼女が居る。私の腕を優しく掴んで引き寄せ、耳元で、
「海?」
「海底から見る空は
私は少女に
「実際に、地上で見る空は、月は、
「私も、昨夜貴女に御逢いしたことは、夢の中の出来事の様で、実に信じ難いことでした」
彼女の言葉を聴くうち、
「月と数多在る星々を背景に踊る貴女は美しく、あの時の風景が、どうしても頭から離れません。貴女に御逢いした事、貴女と言葉を交わせた事、それらは、私にとって奇蹟で……このような機会に再び巡り会えた事を、光栄に思います。私も、此れほど幸福な日は他に無いだろうと思います」
嘘を
「其処まで貴方に仰って
少女は
「昨夜、貴方の記憶は途切れて居るはずです」
少女の言う通りで在るが、此処では黙り込んだ。少女に逢えて、言葉を交わす事が出来て、其れですっかり忘却の彼方に在ったのだから、大して気にする事でも無かったのだろう。
「わたしの瞳が光りましたでしょう。あれは催眠術の様なものなのです。わたしは貴方に逢えたことに動揺し、
少女は深く御辞儀をした。
「大丈夫ですよ。仕方の無いことです。それに、今こうして貴女と言葉を交わせる、
少し間を置いて、言い
「本当は、それすらもいけないことなのですよ。父上と母上には、地上の者と関わってはならないと、強く言われておりますもの」
少女は弱々しく微笑んだ。
「それならば、どうして? 此処に再び訪れたのだとしても、私を避けて、見つかったのならば昨夜の様に催眠術と云うものを掛ければ良かったのではありませんか」
「もう、どうでも良いんです」
少女は目を伏せる。
「わたし、明後日に結婚するの。父上に決められた殿方と。そうしたら、もう地上には来ることが出来ません。あと何年、何十年、何百年と生きるか知れないのに。だから、今日で
少女は
「もう、貴女とは御目に掛かれないのでしょうか」
私は突き付けられた事実に
「ええ、そうね。このお月様とも」
海の方へ、一歩一歩ゆっくりと、歩みを進めて行く少女。
その瞬間で在った。少女が消えた辺りより、もっと奥のところに、彼女は現れた。しかし先の彼女とは少々異なる姿で在る。少女の胸元には、さらしでは無いが何やら純白の布が巻かれ、彼女の右横の水面から少しばかり出ているのは、魚の尾びれであろう。
人の上半身に、魚の下半身。どう見ても
少女は海から首から上のみを出し、遠くへ進んだ。彼女の動きに
とはいえ此れは、単なる私の身勝手だ。
私は、彼女に嘘を吐いた。単に、自分を良く見せようとする欲が働いただけで在る。彼女は秘密を打ち明けて呉れたというのに――……私は、そんな彼女に対して、自分自身を偽ったのだ!
私は、彼女の話のすべてを信用する事が出来なかった。彼女が少しの時間、海に消えた時、私は助けに飛び込もうとした。しかし彼女に、心配は必要無かったのである。此の少女は、海に生きる種族なのだ。私とは異なる者なのだ。理解した。ああ、確かにした。証拠も見た。彼女の潜水時間を、あの尾びれを見よ。其れなのに私は、表面的には信用している風に見せ掛けて、完全には信ずる事が出来なかったのだ――……少女の純粋な美しさを称えておきながら! 彼女の事は信じない癖して、私の利己的な願望や理想は
少女の身体のすべてが、とっぷりと海に沈んだ。
水面を照らし煌めかせる、闇夜に浮かぶ、非の打ち所が無い丸みを帯びた月。
辺りが静まり返る中、ざざあ、と緩慢にも耐えず繰り返される波音。
私は、無心に、彼女の姿を追った。
月下美しの君 かおり @da536e
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