第三章

 夢現ゆめうつつで目覚めた、その日の夜。再び主人に使いを頼まれて町へ行った私は、帰宅するために昨夜と同じ道を駆けて居た。

 今夜は雲一つ無い晴夜せいやで在る。森を出てすぐの崖のところから海に目を向けると、大きな満月が見えた。星々もよく見える。目映まばゆく輝き、水面みなもに反射して、空も海も星で満杯だった。

 ぱしゃ。

 波音に混じって、それは微かに聞こえた。

 昨夜は調子良く聞こえたが、今夜はそれのただ一度のみで在った。少女との再会を心奥しんおうで切望している私の、幻聴だったのだろうか。その可能性は大いに有り得るが、私は坂道を駆け下り、矢張やはり着物が乱れているのを放ったまま、眼前のことを茫然ぼうぜんとし見つめた。

 果たして少女は、其処に居た。しかし今夜は、ぼうっと海を見つめながらたたずんで居る。彼女が美しいこと自体は変わりないのだが、生き生きと踊っていた昨夜とは異なり、うれいを帯びている様な印象を受けた。

 彼女の、二つの表情。此の意味することとは何なのか。彼女は昨日、踊ってしまう程に喜ばしいことが在り、反対に今日は、何か落胆らくたんする様な出来事が在ったのかもしれない。

 浮かぶ満月、空と海に一杯の輝く星々。風が柔らかく吹く度、ふわりとなびく金色の髪。現在目にしている風景は幻想的で、思わず見とれてしまう。私は今、別世界に居るのでは無いかと錯覚する程に。

 風景に見とれるあまり足下がおろそかになって、石を蹴飛ばしてしまった。地面や転がっている他の石にれは当たって跳ね、こつんこつんと、小さな音を出した。音は静寂に呑み込まれるようになり、再び辺りは静まり返る。

 少女は勢い良く振り向いて、此方を見た。その動作に合わせて、彼女の髪も服のすそも、ひるがえる。

「昨日もいらした方ですね」

 鈴の鳴る様な、か細く可愛らしい声だった。

 私は直ぐに頷く。

「恐らく貴方はわたしを、変だと思っていらっしゃるのでしょうね」

 それには頷かない。

「わたしは、貴方がたとは似て非なる者。此の服だって、此処にはまだ存在しないのよ」

 少女は着物の裾を摘まんでみせた。

「貴女は、実に美しい方です。しや、天の御方ですか」

 私の問いに彼女は首を横に振り、そして頬を紅潮させた。

「そんなこと、在りませんよ。そのような言葉を面と向かっておっしゃられると、恥ずかしいですわ。しかし、天、ですか。そうでしたら、どんな人生に成っていたのでしょう。想像も付きません」

 少女はおもむろに此方へ歩いて来る。彼女が一歩ずつ近付くごとに、段々と私の心臓は高鳴り、握った手の平にはべっとりと汗を掻く。思わず後退あとずさりしそうになるのを何とか抑えて、その場に立ちすくんだ。遠くから見ていると分からなかったが、少女の瞳は見たことの無い、透き通るような水色で在った。

「わたしは、海から来たのですよ」

 拍動の音が聞こえていないか、心配だった。息遣いを感じる程近くに、彼女が居る。私の腕を優しく掴んで引き寄せ、耳元で、さながら誰にも聞かれることの無いように、私だけに教えて居るかのように、少女は静かに呟いた。

「海?」

 かすれる声で聞き返す。

「海底から見る空はゆがんでいますけれど、月や星の輝きは分かりました。きっと、とても美しいのでしょう。ずっとそう、信じて居て……。それをこの目で、海水というへだたりなしで、明瞭に見ることが、わたしの夢でした。それが昨日、ようやく叶ったのです。十六度目の、生誕の日でした」

 私は少女にしっかと見つめられながら、緘黙かんもくして聞く。16歳に成ると、海水の中から御顔を出しても良いと云うお許しが出るのよ。これでようやく外の世界を見る事が出来るの、と少女は付け加える。

「実際に、地上で見る空は、月は、とても美しかった。此れほど幸福な日は他に無いだろうとすら思いました。幼少期からずっと、いつの日かはと願って止まなかった夢でしたもの」

「私も、昨夜貴女に御逢いしたことは、夢の中の出来事の様で、実に信じ難いことでした」

 彼女の言葉を聴くうち、こらえきれず、私は口を開いた。

「月と数多在る星々を背景に踊る貴女は美しく、あの時の風景が、どうしても頭から離れません。貴女に御逢いした事、貴女と言葉を交わせた事、それらは、私にとって奇蹟で……このような機会に再び巡り会えた事を、光栄に思います。私も、此れほど幸福な日は他に無いだろうと思います」

 嘘をいてしまった。本当は、少し違う。生家せいかに住んで居た頃の日々も、今仕えている主人に雇われる事が決まった日から現在までの日々も、幸福だった。以前の主人に雇われていた頃だって、働き詰めで大変では在ったが、特別不幸に感じていたかといえば、そうでもない。

「其処まで貴方に仰っていただける価値が、果たしてわたしには有るのでしょうか。わたしは貴方に失礼なことをしてしまいましたもの」

 少女は蕭々しゅくしゅくと目を伏せて言うが、私には何一つ思い浮かばない。

「昨夜、貴方の記憶は途切れて居るはずです」

 少女の言う通りで在るが、此処では黙り込んだ。少女に逢えて、言葉を交わす事が出来て、其れですっかり忘却の彼方に在ったのだから、大して気にする事でも無かったのだろう。

「わたしの瞳が光りましたでしょう。あれは催眠術の様なものなのです。わたしは貴方に逢えたことに動揺し、咄嗟とっさにあのようなことをしてしまいました。申し訳ありません」

 少女は深く御辞儀をした。

「大丈夫ですよ。仕方の無いことです。それに、今こうして貴女と言葉を交わせる、ただそれだけで、私は満ち足りておりますから」

 少し間を置いて、言いにくそうに少女は口にする。

「本当は、それすらもいけないことなのですよ。父上と母上には、地上の者と関わってはならないと、強く言われておりますもの」

 少女は弱々しく微笑んだ。

「それならば、どうして? 此処に再び訪れたのだとしても、私を避けて、見つかったのならば昨夜の様に催眠術と云うものを掛ければ良かったのではありませんか」

「もう、どうでも良いんです」

 少女は目を伏せる。

「わたし、明後日に結婚するの。父上に決められた殿方と。そうしたら、もう地上には来ることが出来ません。あと何年、何十年、何百年と生きるか知れないのに。だから、今日で最期さいご。……そう、わたしは死ぬのだわ。この美しい景色を見ることが生涯叶わないということは、詰まりそうなのでしょう。身体は死んでいないけれど、心は死んでしまうかもしれないわ」

 少女はかれている様に、蕭索しょうさくたる表情で、最後まで言い切った。

「もう、貴女とは御目に掛かれないのでしょうか」

 私は突き付けられた事実に茫然ぼうぜんとするのみで、ようやっと口に出来たのがそれだった。彼女と結ばれたい。そんな恐れ多きことをまさか望んで居たはずも無いのだが、しかし彼女が誰かのものになるという事実は受け入れがたいので在る。少女は私の問いに対し明白に答えることはせず、そっと私から離れて背中を向けた。

「ええ、そうね。このお月様とも」

 海の方へ、一歩一歩ゆっくりと、歩みを進めて行く少女。此方こちらを一切振り返ること無く、彼女の足は遂に波と触れた。わたしは、海から来たのですよ。先に彼女はそう言った。それは真言しんごんなのか、虚言なのか。私はただ、彼女の背中を見つめるのみで在った。ゆっくりで在りながらも、あっという間に少女は海中に吸い込まれた。少女の消えた辺りを見つめ続ける。どれほどの時間が経ったのかは知り得ないが、少女が顔を見せないのを見計らい、焦りと不安が入り交じり合う感情に急かされて、海に飛び込もうと一歩踏み出す。

 その瞬間で在った。少女が消えた辺りより、もっと奥のところに、彼女は現れた。しかし先の彼女とは少々異なる姿で在る。少女の胸元には、さらしでは無いが何やら純白の布が巻かれ、彼女の右横の水面から少しばかり出ているのは、魚の尾びれであろう。

 人の上半身に、魚の下半身。どう見ても御伽話おとぎばなしに登場するかのような、怪異で在る。しかし私は茫然ぼうぜんと見て居るのみで在った。驚き、拍子抜けしたわけでは無い。ただ、美しい、そう感じたので在った。人と魚で成る身体の輪郭が、背後から受ける月光により、はっきりと見える。少女の憂いを潜めた横顔、金色の輝くような髪。精巧に造られた、秀麗な芸術品の様で。

 少女は海から首から上のみを出し、遠くへ進んだ。彼女の動きにあわせ、揺らめく水面みなも。私はその様子を黙って見ていた。少女が進むのを止め、振り返り此方こちらに顔を向けた。遠くて、暗くて、少女の身体の輪郭が曖昧にわかる程度で、表情は読めない。だが互いの視線が交わっている感覚は在った。いや、見えない、実感も湧かない、其れなのだから、事実かどうかは判らない。けれど、そう信じたかった。

 とはいえ此れは、単なる私の身勝手だ。

 私は、彼女に嘘を吐いた。単に、自分を良く見せようとする欲が働いただけで在る。彼女は秘密を打ち明けて呉れたというのに――……私は、そんな彼女に対して、自分自身を偽ったのだ!

 私は、彼女の話のすべてを信用する事が出来なかった。彼女が少しの時間、海に消えた時、私は助けに飛び込もうとした。しかし彼女に、心配は必要無かったのである。此の少女は、海に生きる種族なのだ。私とは異なる者なのだ。理解した。ああ、確かにした。証拠も見た。彼女の潜水時間を、あの尾びれを見よ。其れなのに私は、表面的には信用している風に見せ掛けて、完全には信ずる事が出来なかったのだ――……少女の純粋な美しさを称えておきながら! 彼女の事は信じない癖して、私の利己的な願望や理想はひとえに信ずると言うのか!


 少女の身体のすべてが、とっぷりと海に沈んだ。

 水面を照らし煌めかせる、闇夜に浮かぶ、非の打ち所が無い丸みを帯びた月。

 辺りが静まり返る中、ざざあ、と緩慢にも耐えず繰り返される波音。


 私は、無心に、彼女の姿を追った。

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月下美しの君 かおり @da536e

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