第二章
不思議な夢を見た。やけに迫真感の在るもので在った。夢の中では、まるで夢で在るかのようだと思いながら走り、波音を聴き、人影を目で追ったというのに、起床した今では夢は現実的で在ったと考えている。少女の実体は、結局判らなかった。それが酷く心残りだ。
朦朧としつつ窓の外を
いや、こうしては居られぬ。時刻に遅れてしまう為、早々に
お早う御座います、と声を掛けられる。同じく挨拶を返しながら振り向くと、
彼は洗顔をし、持ち合わせた手拭いで顔を拭くと、眠そうに大きな
「昨夜は遅かったのかね」
「ええ。主人が薦めて下さった小説が面白くて、つい」
彼は本を読む事に興味があったようだが、お金も時間も無く、其れは中々叶わなかった。そういう事情を知った優しき主人は、彼に良く本を貸しているのだ。主人は本を読む事が好きで、多くの書物を所蔵している。書斎に初めて入った時は驚いたものだ。私が此れまで関わってきた人々の中には、本を読む人は殆ど居なかった。
主人の下に務める事が出来たのは、人生に
子供の頃は両親や祖父母、兄弟達と共に暮らしていた。貧しかったのもあって、学校から帰ったら田畑で働いた。
しかし、高等小学校を卒業した私は遂に、家を出て働いていかねばならなくなった。以前に勤めた主人の下が、初めての勤め先である。私と青年が出逢ったのは、以前の勤め先に
現在の主人は、以前に雇って下さっていた主人と知り合いで、度々前の主人の家を訪れた。私と青年は、部屋へ案内したり、主人達の居る部屋に茶を運んだりした際に、今の主人から声を掛けられる事が在って、
主人はお金持ちの様であったが、商家では無かった。私と青年以外に使用人は、女中が一人居た。我々に与えられた仕事は、畑仕事と、主に町や主人の親戚宅への使い、炊事洗濯、掃除、庭の手入れ等で在る。
主人は、我々使用人を、大変気遣って下さった。休日を作って下さるし、
「楽しむのは良いが、程々にね。身体に差し
「実にその通りなんですよ。主人も
彼は頭を掻きながら苦笑する。
「そういう気持ちは、私にも分かるよ。昨日、私は町へ用事で使いに出たんだが」
「ああ、そうでしたね」
「うん。
少女の件は黙っておく。何だか、親しい彼にさえ、話したく無かったのだ。少女の事は、私だけの秘め事にして置きたかった。
「確かに、綺麗でしたね。そう言えば、主人も仰っていたな、今日は満月だと」
「そうなんだよ。だから
夕べの月を思い起こしながら話す。
「成る程なあ。それだから、昨晩は帰りが遅かったんですね。貴方は
私は
「私は丑の刻に帰ったのか」
「そうですよ。覚えておられないのですか?」
「いや……あの、疲れてしまってね。時計も見ずに、
「廊下を歩く足音が聞こえたものですから、襖を開けて見たんです。真夜中に誰だろうかと。そうしたら貴方が、丁度通り過ぎた所に
「其れは、確かに、私だったのかな」
「ええ。私が貴方の御名前をお呼びすると、振り返られて、その時きちんと御顔を拝見しましたので、此れは確かです。其の後、挨拶を軽く交わしましたよ」
彼は少々眉根を寄せて答えた。申し訳なく思う。彼がそんな、益も無いのに、嘘を言う筈は無い。其れは分かって居るのだが……。私は、昨夜帰宅を果たせたと云う記憶を持たない。どうしても、信じる事が出来ないのだ。
「そうか……。済まないね、どうも有り難う」
それにしても……此れは何ということだ。彼の証言を含めて纏めると、私は屋敷へ戻り、途中で彼と挨拶を交わし、自室の蒲団で眠って、朝には其処で目覚めた……と云う事である。だがしかし私には、昨晩、屋敷
あの出来事は、まさか夢で在ったと云うのか。信じられない気持ちだが、何しろあのような現実味の薄い出来事だ、その可能性は捨て難い。
私の胸中には、少女の存在と、実は自力での帰宅は果たせていないという
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