第二章

 おもむろに目を開けた。見慣れた天井、内装、蒲団、諸々全て。自室の寝床に横たわって居るようなのだから、当然である。

 不思議な夢を見た。やけに迫真感の在るもので在った。夢の中では、まるで夢で在るかのようだと思いながら走り、波音を聴き、人影を目で追ったというのに、起床した今では夢は現実的で在ったと考えている。少女の実体は、結局判らなかった。それが酷く心残りだ。

 朦朧としつつ窓の外を見遣みやる。わずかに明るくなって来ており、朝焼けが始まって居た。仕事は日の出位からなので、どうやら遅刻はせずに済みそうである。立ち上がろうとして蒲団に手を付くと、じゃり、と云う感触。これは、と両の掌中を見れば、砂が付着しているではないか。夢では無かったと云うのか、あのようなおよそ非現実的な出来事が。

 いや、こうしては居られぬ。時刻に遅れてしまう為、早々に仕度したくをせねばならない。恐らく昨晩は入浴して居ないだろうと、簡単にでも身を清める為、井戸の在る洗濯場へ行くことにした。井戸から釣瓶で水を汲み、身体にざばあと振り掛けると、余りの冷たさに震えてしまった。洗顔も為終しおえ、ごしごしと部屋から持って来た手拭いで水を拭き取り、着物を素早く羽織る。大きく伸びをしてみれば、起床したばかりのときよりは大分だいぶ気が晴れていた。

 お早う御座います、と声を掛けられる。同じく挨拶を返しながら振り向くと、朋輩ほうばいの青年で在った。彼と私とは年齢の差は幾つかあるものの、友人としての付き合いも在り、いとまが出来ると度々談話をし合う、親しい仲だ。

 彼は洗顔をし、持ち合わせた手拭いで顔を拭くと、眠そうに大きな欠伸あくびをした。

「昨夜は遅かったのかね」

「ええ。主人が薦めて下さった小説が面白くて、つい」

 彼は本を読む事に興味があったようだが、お金も時間も無く、其れは中々叶わなかった。そういう事情を知った優しき主人は、彼に良く本を貸しているのだ。主人は本を読む事が好きで、多くの書物を所蔵している。書斎に初めて入った時は驚いたものだ。私が此れまで関わってきた人々の中には、本を読む人は殆ど居なかった。

 主人の下に務める事が出来たのは、人生にいて最も幸福な事であると思う。私の前で言葉にした事こそ無いけれど、恐らく彼も……いや彼こそ、そう感じている筈だ。主人は、彼の長年の願いを、叶えて下さったのだから。

 子供の頃は両親や祖父母、兄弟達と共に暮らしていた。貧しかったのもあって、学校から帰ったら田畑で働いた。ちなみに、そういった家の事情は、彼も私と同じ様で在ったと、以前に聞いている。私は彼の様に、将来特別したい事は無かったし、仕事が終われば近所の子供達と遊ぶ事は出来たというだけで満足していた程だし、義務教育を終えても就職はせずに、何とか高等小学校への進学も出来たのだから、幸せな子供時代で在ったと言えるのだろう。

 しかし、高等小学校を卒業した私は遂に、家を出て働いていかねばならなくなった。以前に勤めた主人の下が、初めての勤め先である。私と青年が出逢ったのは、以前の勤め先にいてであった。私が仕える主人に、彼も雇われたのだ。以前の主人は商家さんであった。其処では、朝から晩まで引っ切り無しに働き、夜は疲れて眠る他無かった。現在の様に彼と楽しく話す時間も、殆ど無かった。

 現在の主人は、以前に雇って下さっていた主人と知り合いで、度々前の主人の家を訪れた。私と青年は、部屋へ案内したり、主人達の居る部屋に茶を運んだりした際に、今の主人から声を掛けられる事が在って、しばし談笑したりした。或る日、今の主人は、私と彼に言った。私の元で働く積もりは無いか、と。今雇って下さっている主人がお許し下さるのであれば、是非。私と彼は、そう答えた。立ち聞きをするなどと云う失礼な事をしてしまったと今は反省しているが、主人達の会話に依ると、どうやら前の主人の家は傾きつつあったらしい。今の主人はその相談に乗っており、私と青年の新たな雇い先と成る事を請け負って下さったのだ。そうして私と彼は、今の主人の屋敷に勤める事と成ったのである。

 主人はお金持ちの様であったが、商家では無かった。私と青年以外に使用人は、女中が一人居た。我々に与えられた仕事は、畑仕事と、主に町や主人の親戚宅への使い、炊事洗濯、掃除、庭の手入れ等で在る。

 主人は、我々使用人を、大変気遣って下さった。休日を作って下さるし、夕餉ゆうげや風呂の準備等、夜間の仕事は当番制で、其れが無い日は、黄昏時以降は自由な時間と成るのだ。そういう時間で、我々は本を読んだり、両親や親戚、友人宛てに手紙を書いたり、早めに身体を休めたり、町へ遊びや買い物に出たり、自由に過ごす事が出来る。共同部屋では無く、使用人各々おのおのに部屋を与えて下さるし、その上、彼の様にしたい事が在るものの、金銭的事情等で叶わないので在れば、多少の援助をして下さりさえするのだ。此程に有り難い事が、幸福な事が、在るだろうか。最近では就職に困る人が多いと、小耳に挟んだ。このような御屋敷に雇われた私達は、きっと運も良かったのだろうと思う。

「楽しむのは良いが、程々にね。身体に差しさわりが有るだろうから……。最も、此れは耳に胼胝たこが出来る程聞いている事かも知れないが」

「実にその通りなんですよ。主人もおっしゃっていたんです。『君、目の下にくまが出来ているよ。察するに、遅くまで本を読んで居るんだね。返すのは何時いつでも良いと言った筈だし、きっと続きが気になって仕方が無いんだろう。気持ちは分かるが、身体を悪くしてはならないから、出来る限り夜分は控えるようにしなさい』と云う様な事をね。出来る限り、そうしたいと思っては居るんですが、どうも難しい。主人の言う通り、続きが気になって、寝付けないんですよ」

 彼は頭を掻きながら苦笑する。

「そういう気持ちは、私にも分かるよ。昨日、私は町へ用事で使いに出たんだが」

「ああ、そうでしたね」

「うん。しや、君も見たかな。昨夜は、実にい月だったんだ。帰り道、つい浜辺へ下りて行って、見惚みとれて仕舞ったよ」

 少女の件は黙っておく。何だか、親しい彼にさえ、話したく無かったのだ。少女の事は、私だけの秘め事にして置きたかった。

「確かに、綺麗でしたね。そう言えば、主人も仰っていたな、今日は満月だと」

「そうなんだよ。だから小望月こもちづきだと分かったが、満月に見紛みまがう程に丸かった」

 夕べの月を思い起こしながら話す。

「成る程なあ。それだから、昨晩は帰りが遅かったんですね。貴方は何時いつもは遅くとも正子しょうし頃には帰るのに、昨晩はうしの刻頃だったじゃありませんか」

 私は吃驚きっきょうした。

「私は丑の刻に帰ったのか」

「そうですよ。覚えておられないのですか?」

「いや……あの、疲れてしまってね。時計も見ずに、とこいたのだよ」

「廊下を歩く足音が聞こえたものですから、襖を開けて見たんです。真夜中に誰だろうかと。そうしたら貴方が、丁度通り過ぎた所にられて」

「其れは、確かに、私だったのかな」

「ええ。私が貴方の御名前をお呼びすると、振り返られて、その時きちんと御顔を拝見しましたので、此れは確かです。其の後、挨拶を軽く交わしましたよ」

 彼は少々眉根を寄せて答えた。申し訳なく思う。彼がそんな、益も無いのに、嘘を言う筈は無い。其れは分かって居るのだが……。私は、昨夜帰宅を果たせたと云う記憶を持たない。どうしても、信じる事が出来ないのだ。

「そうか……。済まないね、どうも有り難う」

 かく御礼を言うと、彼は会釈えしゃくをして裏口より屋敷へ入ってしまった。少しばかり執拗だったろうか。彼には不審に思われたことだろう。

 それにしても……此れは何ということだ。彼の証言を含めて纏めると、私は屋敷へ戻り、途中で彼と挨拶を交わし、自室の蒲団で眠って、朝には其処で目覚めた……と云う事である。だがしかし私には、昨晩、屋敷まで戻った記憶が無い。私の記憶は、あの砂浜で少女を見、視線が交錯している内に唐突な眠気が襲い、倒れたところで途切れて居た。そもそも何故私は今此処に居るのか、よく理解して居ないのだ。

 あの出来事は、まさか夢で在ったと云うのか。信じられない気持ちだが、何しろあのような現実味の薄い出来事だ、その可能性は捨て難い。しっかと記憶に焼き付いて居ると云うに、少女を見たと云う証拠は、一切無いので在る。寝起きの私の手の平に付いて居た砂は、帰宅の途中で付着した物なのかもしれぬ。仕事をしていて余りにも疲労し、手を洗う間も無く、蒲団へ倒れ込んで眠り、夢を見た。其の可能性は有り得る。

 私の胸中には、少女の存在と、実は自力での帰宅は果たせていないというにわかには信じ難い事とを、私の頼りない記憶にすがって信用したい想いと、青年の証言と朝は自室の蒲団で目覚めたと云う事実からして、月の下で少女を見たのちに砂浜で倒れたという事は有り得ないという想いとが、せめぎ合って居るので在った。

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