月下美しの君

かおり

第一章

 猛然と道を駆けて行く。既に日は落ちて辺りは暗い。雲が少し在るものの、しかし今は晴れて居る。月光が辺りを照らしているため視界は広い。余程のことさえ無ければ、迷う可能性は薄いだろう。とはいえ、出来る限り早々に帰る方がより良いはずである。明日あすもまた仕事が在るのだ、支障を来さぬよう、身体を休めておきたい。

 しばらくすると、ざばーん、と勢い良く水が音を立てているのが聞こえた。音に気付いたことと間を置かずに、段々と道の両脇に叢生そうせいしていた木々の密度が、低くなって来ていることにも気付く。そのまま森を抜け、立ち止まる。先の音が明瞭にする方である右側に目を向けると崖が在り、その下に暗澹あんたんとした海が広がっていた。今は曇が月を覆っており、月光による明るさが無い。そのため夜の海は漆黒に染まり、恐ろしく感じられる。耐え切れず外した視線を、二本の分かれ道へ向けた。森を抜けると、音が気になっていたため右に広がる海に注視したのだが、森を抜けた前方と左方には、道が在ったのである。ちなみに、どちらへ進んでも、その先は坂となっていた。仕える主人の屋敷へ行くには、左側に進めば良い。主人や友人の居る屋敷の明るさを恋しく思いながら、左側の道に一歩踏み出す。

 ざざあ、と遠く波の音が聞こえた。前方の坂に進めば砂浜が在るのだろう。主人の屋敷の方へ向かいながらも、思わず波音に耳を澄ませた。

 ぱしゃ、ぱしゃ。

 波音に混じって、それはかすかに聴こえた。

 ぱしゃ、ぱしゃ。

 誰かが、居る。咄嗟とっさにそう確信すると、方向転換をし道を戻って、森を出て前方、すなわち砂浜へ向かう道を進んだ。何故そのような行動に出たのかは、良くわからない。単なる好奇心であろうと、瞬時にそれへ向かってゆくような無鉄砲な事は、滅多に無いと思うのだが。自分の事ながら実に不可解だ。直ぐに下り坂が現れた。下がるままに速さが増して、一息に駆ける。坂道が終わった辺りで、立ち止まった。着物が乱れているのも放ったまま、眼前のことを茫然ぼうぜんとし見つめる。

 前方に広がる、寂々せきせきたる浜辺と海。それを背景に、波の押し寄せるところで人影が一つ、たのしげに、水をすくってはちゅうに振り撒いたりしながら、裸足で駆け回って居る。

 明日は満月だと、主人が言っていた。今日の月は、満月だと思えてしまう程に丸い。いつの間にか雲が移り、その背後に隠れて居た月が姿を現して居た。

 月光が明るく、人影が実際にどのような姿をしているのか、はっきりとした判別は出来ない。刮目かつもくしてじっくりと見ると、どうやら少女で在るらしかった。いぶかしく思う。そろそろ零時れいじに成ろうかと云う頃、少女が一人きりで居るなど危険である。いやしかしただそれだけで有ればまだ良いのだ。小気味良く動き回る少女は、月光に照らされ度々その姿を光の元に晒す。少女は、丈が短く帯の無い、真っ白な着物を着ており、絹のようなきらめく髪をして居た。私は黒髪以外を見たことが無い。噂では外人さんが此のような髪色らしいと聞いた覚えが在るが、外人さんだとすれば尚更なおさら、此処に居るのは不自然だ。外人さんが来たと成れば、此の辺りは変わった出来事のほとんど無い田舎で在る事だ、噂話の格好の的と成るはずであろう。きっと村から村へと、噂はぐに伝播でんぱしてしまうのでは無いだろうか。だが此の辺りの村々に外人さんが住んでいる、訪れたという話は欠片も無い。では一体この少女は何者だろうか。常人では無いのかもしれぬという予感が、脳裏をよぎる。あの軽やかな舞い。不可思議な御姿に衣服。はっきりとした根拠は無いが、この世の者では無いのでは無いのか。そうであっても可笑しくは無いという思いが、沸々と湧いてくる。

 ぼうっと見て居ると、彼女がふと此方に目を向けた。数秒だったろうか、数分だったろうか。互いの視線が交差する。少女は見られて居たことに対し特に驚くことも無く、此方をただ観察するかのように見ているのみであった。

 柔らかく涼しい風が吹く。少女の瞳が一瞬、きらと輝いたような気がした。唐突に瞼が重くなる。立っていることもままならぬ程の、ずっしりとした眠気。はからずも地面に倒れ込むと、意識は直ぐに途切れてしまった。

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