秋桜
時雨薫
秋桜
宇宙を買った。
りんごくらいの大きさで、ずしりと重い。暗い水に隙間なく満たされた中に、赤や、青や、飛び散った絵具のかすみたいな光がぽつぽつと浮いていて、そっと、その瑠璃の肌をなでると、指先から、万年筆のインクみたいに、熱がきゅうっと抜けていくのだ。
私はそれを上着のポケットに奥深くつっこんで、夜の中を、街灯や信号機をいくつも潜り抜けながら、逃げるように帰った。風が金木犀の香りを運んできた。
古びたアパートの二階、私の部屋に着いた頃には、涼しい夜だったというのに背中が嘘みたいにびっしょり濡れていた。玄関の戸を両手で無理やり閉めてから、手探りで電気のスイッチを入れると、笠つきの電灯の、橙色の光が部屋に満ちた。深いため息。
宇宙を取り出して電灯にかざした。深い青が、電灯の光を濾して、雲の隙間から漏れるような透明さで降って来た。肩が重くなって、自分が疲れていることに気づいた。宇宙を机の上に放り投げて、ゴンと鈍い音がして、やっちゃったと少し後悔してから、万年床にうつぶせに倒れこんだ。顎がちょうどよく枕にヒットした。ほこりが舞った。
本当に、汚い部屋だと思う。お菓子の袋、割りばし、空のジュース。日ごとにふえていくそいつらは、さながら異界の怪物たちのように私の部屋を蝕んでいく。私は彼らを前に為すすべもない、力なき一介の小市民だ。奴らがこの部屋を制圧する日も近い。そしたら私はどこへ住もう。あるいは、その前に彼らが私を呑み込んでしまうのかしら?だとしたら、それは恐ろしい問題だ。なるたけ早く対処せねばなるまい。初めにすべきことは、この部屋にやつらを持ち込む元凶、コンビニと部屋とをせっせと行き来するあの女、つまり私の性根をたたきなおすことだ。そして、それは何より難しい問題でもある。
ヒロキがいたらな、そう思わずにはいられない。男を部屋に上げることになったとして、それでもかたくなに片づけない女がいるだろうか。いや、いない。意志の弱い私には、きっとそれくらいの強制力が必要なのだ。でもな、危惧することもないではない。彼なら、片づけられない君が好きだよ、くらいのことを言ってしまうかもしれない。そしたらもう、私は奈落の底まで急転直下だ。人間には戻れまい。
ヒロキが優しすぎたのだ。まるで天使のようだったのだ。私は、彼のそんなところが嫌いだったのだ。多分。私にも非があったことは、二か月も経った今認めないわけではない。けれど、彼のことを思い出す時には、どうしてそう何度も思い出してしまうんだろう、やっぱり彼一人が悪かったような気がしてしまう。そのたびに、いつまでもそんなことを考えている自分が馬鹿らしくて、醜くて、腫れ上がった顔が水死体みたいになるまで自分をぼこぼこにぶん殴ってやりたくなる。わっと泣いてみたくなる。
シャワーを浴びて、寝間着に着替えて、布団に入って灯りを消した。紐の先の、緑に光るつまみが、ゆらゆら揺れた。子供の頃はこの光るつまみが妙に怖かった。今も少し怖い。見ない様に目を閉じた。
草木も眠る丑三つ時に目が覚めた。寒かった。窓を閉め忘れたのだと悟った。いくら盗る物のない部屋だと言っても、これはちと不用心が過ぎる。よたよたと立ち上がって、散乱するごみを踏まない様に、暗闇の中をすり足で歩いた。最高の防犯かもしれない。ポテチの袋に足を滑らせた泥棒が、すってんころりと漫画みたいにずっこけたりしたら最高だ。窓に手をかけて、顔を外に出して深く息を吸った。肺に夜が満ちた。視界の隅の青白い光に気づいた。机の上に置かれた宇宙が、淡い光を発していた。
宇宙を手に取る。光を放っている宇宙は、前よりずっと冷たい。青い光はどこまでも澄んでいて、宇宙の向こうの、汚い壁が透けて見える。見つめるほどに吸い込まれていく感じがする。どうしてこんな妙なものを買ってきてしまったのだろう。部屋が片付くのでもない、お腹がいっぱいになるのでもない、私を私でない私にしてくれるのでもないものを。心の余裕からでないことだけは確かだ。子猫を拾ってきたようなもの?宇宙に尋ねても、答えはない。
いいことを思いついた。コートを羽織って外に飛び出した。急な階段を危なっかしく駆け下りた。折しも満月だった。月は天頂近く昇っていた。
月の光に宇宙を透かした。金木犀が香っていた。銀の帯が幾筋にもなって私を包んだ。
秋桜 時雨薫 @akaiyume2
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