人生最後の日、僕は最愛の人を殺す

神崎涼

第1話

 人生最後の日がきたら、何をするか? 

 考え出すと沼にはまるような、たびたび議論が行われるその論題について、一度は考えたことがある人も多いのではないだろうか。

 どうせなら普段できないことやしたことがないことをしたいと考える人もいれば、家族や好きな人と一緒にいるなどの平穏な日々を過ごしたいと考える人もいるだろう。

 しかしこの仮定は、実際には起こりうることはないという考えの下で行われる。その論題について考える誰もが、そんな日が訪れることはないと信じている。

 その認識は、きっと正しい。自分の生涯の終わりなんて分かるはずがないのだから、最後の日が訪れることを仮定して答えを出すというのは、あくまで想像上の話である。


 しかし、今の僕に限っては違う。今日が、本当に僕の人生最後の日なのだ。その理由は後に話るとして、それでは僕は一体、人生最後の日に何をするか? 

 その答えはもう決まっている。むしろ、その答えを決めたから、今日が僕の人生最後の日になったとも言える。



 人生最後の日、僕は、最愛の人を殺す。



 ♢


 僕、一条圭と、鹿島薫は、いわゆる幼馴染だった。親同士が昔から仲が良く、家が近いことも相まって、生まれた時から僕の隣には薫がいることが普通だった。

 幼稚園、小学校と僕たちはいつも一緒にいた。じゃあ僕たちが似ていたのかというと、そんなことはない。

 むしろ、僕はどちらかと言うと休み時間はグランドではなく図書館で過ごすタイプで、薫は逆に一番にグランドに駆けていってはどろどろになって帰ってくるようなタイプだった。

 だけど、登下校も、学校から帰ってきてからも、思い返せばいつでも一緒にいた気がする。


 同じ制服を着て入学した中学校で、僕は文学部に、薫はハンドボール部に入った。中学生の生活は、その大半を部活が占めているといっても過言ではない。

 特に、薫の入ったハンドボール部は県内でもそれなりの強豪チームで、平日はもちろん休みの日に練習や試合が入ることもざらにあった。

 小学生のころに比べると僕たちが一緒にいる時間は短くなった。それでも疎遠になることはなかった。薫は試験前になると僕に勉強を教わりに来た――勉強は確実に薫より僕の方ができた――し、そうでなくても暇なときはよく僕の家に遊びに来た。


 高校は、家から一番近い公立高校に進学した。僕の成績ならもう少し上の高校も狙えたみたいだが、毎日わざわざ長い時間をかけてレベルの高い学校に通うほどの上昇志向は持ち合わせていなかった。

 高校はさすがに別の学校になると思っていたが、中学三年の夏に薫は絶対に僕と同じ高校に行くと言い張った。そこまで言うのならと、僕は自分の受験勉強を片手間にして薫の勉強を見た。

 その甲斐あって、薫はなんとか僕と同じ高校に合格した。はれて高校の三年間も薫と一緒にいることが決定した。



 僕と薫の関係が幼馴染という名前から変わったのは、高校一年の冬のことだった。

 欲しいものがあるから付き合って、と言われてついていった買い物の帰り道に、その寒さもあってか薫は顔を赤くして話を切り出した。


「圭はさ、好きな人とかいないの?」


 それまで薫と恋バナをしたことなんてなかった。それ系の話題になりそうになるとどちらともなく話を逸らした。

 だけど、それはつまりどちらとも意識はしていたのだと思う。お互い、相手にそういう関係の人がいないことくらいは把握していたはずだ。


「どうしたんだよ、急に」


 薫の表情から、冗談で言っているわけではないと分かった。こういうことに関しては経験値がほぼゼロだった僕には、どういう答えを返せば正解なのか全く分からなかった。


「もう高校生だし、圭にもそういう人がいたりするのかなと思って」


 実際、この時に僕が薫のことを好きなのかどうかは自分でもよく分からなかった。自分の薫に対する感情が好きというものなのか、はたまた違うのか、誰かを好きになったことのない僕には判断できなかった。

 分かっていたことといえば、薫は僕の中で特別だということくらいだった。


「……薫はどうなんだよ」


 僕は質問に対して答えはせず、薫に聞き返した。薫も僕と似たような気持ちを持っているものだと思っていた。

 しかし、薫の返事は僕の想像とは異なる物だった。


「私は……いるよ」


 やや思考が止まった。まさか、明確な返事が返ってくるとは思わなかった。


「へえ……」


 それ以上の言葉が出てこなかった。そんな僕に対して、薫は追い打ちをかけるように言った、


「誰か、聞かないの?」


 数秒間の沈黙が訪れる。聞きたいような、聞いてはいけないような、そんな気がした。


「確かに気になるけど、それは僕が聞いていいものじゃないというか、聞いても仕方がないというか……」


 僕がそう言うと薫ははぁとため息をついた。慌てて僕は弁解に走る。


「だって僕が聞いても何もできないだろうし、僕自身、自分の気持ちもよく分からないし、それに――」

「私が好きなのは、圭だよ」


 僕の弁解を遮るように、薫は言った。


「え?」


 目を見開いて薫を見つめる。


「圭も私のこと好きでいてくれてると思ってたんだけどなあ」


 薫は少し残念そうに意地悪っぽく笑いながら言う。僕は突然の告白に頭がうまく回ってなかったが、なんとか自分の気持ちを言葉にしようとした。


「いや、僕も薫のこと好きだよ。好きって気持ちはよく分からないけど、薫の隣は居心地がいいし、ずっと薫と一緒にいたいと思ってる……よ」


 おどおどとしながら必死に言葉を紡ぐ僕を見て、薫は小さく吹き出した。


「……なんだよ」


「ううん。圭は私と一緒にいたいんだ?」


 にんまりと笑いながら、薫は僕に聞いてくる。


「……そうだよ」


 そう答える僕の顔は、きっとぶすっとしていただろう。薫は笑いながら、そっか

そっかと何度も頷く。


「じゃあ、付き合おっか?」


 ずっと一緒にいたいと思っていたのは事実だが、薫とそういう関係になることはあまり考えていなかった。が、断る理由も特になかった。

 十五年ほどの付き合いだった幼馴染は、この日から彼女になった。



 恋人という関係になったからといって、僕と薫の関係は大きくは変わらなかった。お互いの部活や学校生活の時間以外ではそれまでもよく会っていたので、会う時間が特別多くなったわけでもない。

 変わったことといえば、会話の端々に甘さが出るようになったことくらいか。僕は恥ずかしくてなかなか好きという気持ちを言葉にしなかったが、薫はたまに、ぽろっと好きの気持ちを言葉でこぼすようになった。そんな時、僕はむず痒くなりつつも愛しさを覚えたものだった。

 

 薫がこぼした言葉の中で、特に記憶に残ったものがある。付き合って一年ほど経った高校二年の冬のことだった。

 町は電飾がキラキラと光り、そこかしこで赤と緑が目に付くようになり、人々はどこかそわそわしていた。そんな中を二人で白い息を吐きながら、手を繋いで歩く。夜ご飯を済ませ、今からどこに行こうか考えていた時だった。


「ねえ、圭。これからもずっと一緒にいようね」

「どうしたの、急に」

「私、圭がいなくなったら死んじゃうかも」


 そんな突拍子もないことを言うものだから、僕はいつもの冗談だと思って軽く受け流した。


「大袈裟だなあ。たとえ僕がいなくなっても、薫が死ぬわけないだろ?」


 薫もそれに合わせて軽く返してくる、と思っていた僕の予想とは違って、薫はいつもより真剣な声で言った。


「ううん。結構本気だよ。圭がいなかったら今の私はいないだろうし、圭のいない人生なんて考えられないもん」

「……急にどうしたんだよ」


 僕と薫は小さい時からこれまでずっと一緒にいたから、薫のいない人生は僕もあまり考えられなかった。だけど、薫が改めてこんなことを言うなんて珍しかった。

 薫の方を見ると、少し何かに怯えたような顔をしていた。だけど、僕と目が合うと薫はすぐに首を横に振った。


「圭のことが好きすぎて、少しおかしくなっちゃったみたい。ごめん、気にしないで」


 そう言って弱弱しく笑うと、薫は僕の手を引いて少し速度を上げて歩き出した。

 それからは、いつもの薫に戻った。僕は薫に言われた通り気にしないように過ごしたが、胸の奥で何かが引っ掛かっているような感覚だった。



 事が起こったのは、それから三日後のことだった。

 その日も僕と薫は二人で出かける約束をしていた。待ち合わせの場所に向かう途中、横断歩道の向こうに薫がいることに気付いた僕は、道路の向こう側の薫を呼び止めて横断歩道を渡り始めた。――なぜあの時、僕は薫を呼び止めてしまったんだろう。

 信号は青だった。十字路を急いで右折しようと僕の後ろから来たトラックの運転手が、僕を見落としていたらしい。そんなトラックを、向こう側で待っていた薫だけが気付いた。


「危ないっ!!」


 あと数メートルで渡りきるというところで、薫が勢いよく走ってきて叫びながら僕を突き飛ばした。僕は何が起こったのか分からなかった。

 突き飛ばされてすぐに、前方から急にブレーキをかけたのであろうタイヤと地面が擦れる音とバンッという何かがぶつかる大きな音が聞こえ、すごい風圧を感じた。

 立ち上がるとトラックが歩道に乗り上げた状態で止まり、……その数メートル先に、薫が横たわっていた。



 そこからの記憶は酷く曖昧で、おぼろげにしか覚えていない。

 僕は急いで救急車を呼んだ。できることはそれだけだった。外傷は目立っては見えなかったが、無暗に動かしていいかも分からなかった。近くにいた大人が、心臓マッサージとかをしていた気もするが、いまいち覚えていない。ただただ、その光景を眺めながら、救急車が早く来ることだけを願っていた。


 そのまま一緒に救急車に乗り、病院へと向かった。薫はどこか奥の方の部屋へと運ばれていき、僕は待合室で座っていた。頭の中は真っ白だった。

 数時間後、僕は薫の両親と一緒に、医者から薫は生きていることを聞いた。絶望から少し救われたと思った矢先、僕はまた絶望に落とされた。

 医者は薫が生きていると伝えた後、詳しいことはまだ分からないが心臓に支障があること、それにより現時点で目覚める可能性が低いという説明を続けた。

 もう少し調べてみないと詳しくは分からないからと言われて、その日は帰ることになった。薫の両親に軽く挨拶をしたが、僕もおばさんたちも、頭はほとんど動いてなかったと思う。

 

 薫がそれから目を覚ますことはなかった。



 僕はあの日のことを、深く深く後悔した。なぜあの時、薫を呼び止めたのだろう。なぜトラックに気付けなかったのだろう。トラックに轢かれたのが、なぜ僕じゃなくて薫だったのだろう。

 考えても仕方がなかった。いくら後悔しても、薫が目を覚ますことはなかった。それでも僕は後悔を止めることはできなかった。可能ならば薫と変わりたかった。薫を助けることができるのなら、僕は命を差し出すことさえ厭わなかった。


「なんで起きないんだよ、薫。ずっと一緒にいようって言ったじゃないか……! 僕も君がいないと生きていけなくなってたみたいなんだ、目を覚ましてくれよ……」


 眠っている薫に何度問いかけたか分からない。それでも、答えが返ってくることはなかった。

 それからの僕は、生きているのか死んでいるのか分からなかった。何を食べても味はしないし、難しいことは何も考えられなかった。

 ただ、寝てるのか起きてるのかもわからないような生活を過ごしていた。



 だからその光景も、初めは夢の中でのことだと思った。

 朝起きると、部屋に黒いロングマントを着た人が立っていた。フードを深く被っているためその目は見えなかった。その人は、こう言った。


「お前の命を差し出せば、鹿島薫は助けてやる」


 その人は、自分のことを死神と名乗った。死神といっても、その名の通り死を司る神であるため、人の命を奪うだけでなく救うこともできるらしい。

 死神が言うには、薫はこのまま一生目を覚まさない。しかし、薫とずっと一緒にいた僕の命を犠牲にすれば、薫の命は救ってやる、とのことらしい。


 何を馬鹿な、と思った。そう思った瞬間、死神は言った。


「何を馬鹿な、と思ったな? じゃあ、俺が本当に死神であることを示してやる」


 死神は僕の胸に手を伸ばした。その手は僕の胸に触れた、と思いきやそのまま僕の体の中へと入っていった。ちょうど心臓の位置まで来ると、僕は息が止まり、体の中を、心臓を掴まれたような、そんな感覚を覚えた。


「どうだ? 信じたか?」


 それでも僕は全く信じられなかった。というか、これが現実であることすら信じられなかった。


「まだ、信じ切っていないか。まあいい。それで、鹿島薫を救うためにお前の命を差し出すか? それとも、鹿島薫の命は貰っていっていいか?」


 死神は呆れた口調で言う。

 僕の答えは一つだった。その答えは、この死神に会う前から決まっていたようなものだ。


「薫が助かるなら、僕の命は差し出す」


 それは、一種の思考停止であった。これ以上薫がいない苦しみを味わいたくなかった。

 そんな僕の気持ちを読んだように――実際読んだのだろう――死神は問いかけた。


「本当にいいのだな?」


 続けて、死神は僕の頭に手を向けた。その刹那、僕の頭に大量の映像が流れてきた。

 それらは全て、薫だった。薫の笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔。ついこの前まで、僕の一番近くで見せていたすべての表情が、その膨大な量が、僕の頭を流れた。

 僕の目から、自然と涙が流れだした。そして、分かった。

 本当は違ったのだ。薫が助かるなら僕は死んでもいいと思っていたが、本当は嫌なのだ。

 だって僕は、もう一度薫に会いたかったから。生きた薫と、生きて会いたかったから。


 それ以上何も喋れなくなった僕に向かって、死神は言った。


「明日、もう一度聞きに来る。それまでに答えを出しておけ」


 そのまま、死神は消えた。音もなく一瞬で消えたことに、僕はもう驚かなかった。それが死神であったことを僕はもう疑わなかった。



 次の日、朝起きると死神が立っていた。


「どうだ? 答えを出したか?」

「……うん」


 本当は答えなんか出せなかった。薫を救いたい。でも、薫ともう一度逢いたい。死にたくない。そのどちらかを切り捨てるなんて僕にはできなかった。


 それでも。それでもどちらかを選べというのなら。


「僕の命は、差し出すよ。薫を助けてくれ」


 僕の出した答えは、最愛の人を救うことだった。それが、自分の命を引き換えにしたとしても。

 そして、最愛の人を、殺すことになったとしても。


「……分かった。それでは、横になれ」


 僕は言われた通り、ベッドに横になった。死神が僕を覗き込み、手を伸ばしてくる。僕は目を閉じる。

 これで本当に終わりなのだ。最後に人生を振り返ってみても、薫のことしか思い出せない。薫ともう一度だけでも会いたかった。

 

 目を覚ました時に、隣にいてやれないことを許してくれ。そして、今までの薫が死んでも、新しい人生を歩んでくれ。愛してたよ、薫――

 

 僕の意識は、そこで途絶えた。


  ♢


 目を覚ました。目の前で少女が泣いている。

 ああ、そんなに、泣かないで。折角助かったのだ。笑って生きて欲しい。


「圭……良かった……」


 泣きながら少女はそうこぼす。

 え? 良かった? そう言えば、僕はなぜ目を覚ましたんだ……?


「あれ……なんで」


 そう言うと、薫は泣きながら怒った声でこう言った。


「私、ずっと暗闇の中にいたの。そしたら、圭の声が聞こえてきた。自分の命を差し出すから、私を助けろって。そのあと、自分が死んでも新しい人生を歩めとか、そんな無責任なことを言うから。圭がいない世界で、生きていけるわけないでしょ!」

「あれ、僕の命と引き換えに、薫は助かったんじゃないの……?」

「知らないわよ! 圭が無責任なこと言うから、一言文句言おうと思って。私を助けたいなら、圭が生きてないと意味ないでしょ!」


 そう言って、薫はまた泣き出す。


 死神が僕の命を奪う前に、薫が目を覚ましたということだろうか。

 何が起こったのかはよく分からなかったが、薫がまたこうして僕の前にいる。それだけ分かればあとはもう良かった。

 僕は最愛の人を、殺さずに済んだらしい。


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