魔女に出会った旅人の話



 爽やかな風の吹きぬける穏やかな森の中。

 切り株に座り込む男女が居た。


 男は若き旅人。程よく着古した旅装に身を包み、くたびれたかばんを傍らにおろしている。

 そして旅人の目の前にに座る女は、この世のものとも思えない美しき女だった。


 簡素な衣服をまとっていてもなお、その肢体の曲線は隠しようがなく、透き通るような白い肌には瑕疵などひとつもなく怜悧に整っている。

 赤い唇は、ほころびたての花のような初々しさと色香をもたらしているにもかかわらず、春の深緑を閉じ込めたような緑の瞳は、一目見ただけでその思慮深さを理解させるには十分すぎるものだった。


 話の間を取るように、月の光をより集めて紡いだような銀の髪を耳にかけた。

 その拍子に手首にはまる手かせと鎖が、しゃらりと、ささやかに音を立てる。


 鎖は両手をつないではいないが、華奢な手首を彩るには無骨すぎるそれを、装飾品と言うには無理がある。


 彼女を少しでも知るものの間では必ず語られる謎であるそれだったが、今までの話を聞いた旅人は、悟っていた。

 それが、誓いの証なのだ。


 若き旅人が静謐さと異質さに、ごくりとつばを飲み込めば、女は緑の瞳をおかしそうに和ませた。


「ただのおとぎ話だ。と言っただろう?」

「いえ、ですが……」


 何百年も前から賢者として名が知れ渡り、常に放浪を続ける、この女……フィアの魔女と呼ばれる彼女には、様々な噂が語られている。

 その噂の一つに、彼女は人ではなく、恐ろしい化け物だというものがあった。


 不老不死を求めた魔法使いが、ついに真理にたどり着くというのも珍しくはあるがなくもない世の中だ。

 青年自身もその類だろうと考えていたものの、偶然がかさなり、こうして目の当たりにした美しい魔女は、それを受け入れさせる、人とも思えぬ奇妙な空気をまとっていた。


 言いよどんだ青年は、言葉を探し、結局当初の予定通りの質問を口にした。


「結局、フィア、はどのような生き物なのですか」

「フィア、は古い言葉で”恐怖”を、意味するのは知っているだろう」

「はい。てっきり、魔女様の名前はそちらの意味かと……」


 口を滑らせてから、青年はさんざんおとぎ話だと前置きされていたのを思い出して青くなったが、魔女は仕方がないとばかりに笑むだけでとがめはしなかった。


「フィアは、そもそも生き物ではない。と言うのがわたしの見解だ」

「生き物ではない?」

「ああ、この世界を構成する魔素がふとした拍子に凝ることで生じる、一種の自然現象だ。故に感情を持たず、生命活動に食事を必要としない。幼体の時には、魔素が凝り固まりきらない曖昧な存在で、それが捕獲がそれほど難しくない理由だな。なんていったって、自分が害されていることすらわからないのだから」


 魔女は、ひどく苦々し気に吐き捨てるように言った。


「幼体は動物のように本能がない。ゆえに自分が何であるかを求めて、無意識のうちに周囲から情報を収集し学習をし、模倣する。手段は、主に観察と、生物の感情に感応する事、だな」

「感情ですか」

「ああ、成体になったフィアが凶暴化するのはそれが原因だと思われる。自然界で収集できる感情と言えば、動物の本能くらいなものだからな。もし、人間に出会っていたとしても、あんななんだかわからない靄に襲われたら恐怖しかないだろう」


 くつくつと笑う魔女の華やかさに、こんな時だというのに青年は見とれた。


「そうして情報収集を終えた幼体は、成体になるために今まででもっとも関心を持った生物の情報を取り込む。それが生涯一度きりの食事だ」


 だが続けられた言葉に、さあっと青ざめることを押さえられなかった。

 魔女は淡々と語ることをやめない。


「その生物のすべてを取り込むことで、その生物の持つ知識、記憶を取り込み、取り込んだ生物を基盤として受肉する。まあ、食事している間でもすでに肉体はあるから、傷つければ魔水晶も取れるぞ。ただし、食われている生物が感じている恐怖も取り込んでいるから、わずかにあったかもしれない理性も吹っ飛んでいるがな」


 他人事のようにいう魔女の静かな表情が余りにも美しくて、青年はぞうっとする。

 この銀の髪、透き通るような緑色の瞳。

 過去には大国の妃にと望まれたことがあるという魅惑のかんばせは、いったいなにからできているのか。


 だが、それよりも。


「ですが、あなたは、こうして私と話しています」


 他人事のようにいう魔女に、そういい返せば、魔女は一瞬とても苦しそうに顔をゆがめたが、すぐに平静に戻った。


「うむ、あの悪名高い真理の塔の、魔法使いどもの研究も良いところまで行っていたらしい。情報を制限し、理性ある・・・・人間を食わせれば・・・・・・・・フィアは従順になるのではないか。とな。まあ実際に狂わせているのは感情であったから的外れな部分もあったが、一応は成功した。フィアは理性を……知恵を獲得してしまったからな」


 様々な魔法使いたちが集まり、ありとあらゆる冒涜的な研究を繰り返していた真理の塔は、数百年前、その研究成果によって破滅へと至ったという。

 一説によれば、最後の研究は、魔水晶の安定的な採集であったとされている。


 魔水晶は、魔法使いであれば誰しもが焦がれる万能素材だ。

 麦粒ほどの大きさがあれば、重病人を健康にするどころか、若返らせることができ、豆粒ほどの大きさがあれば一国を滅ぼすほどの魔法が編めるという。

 だが、ひどく貴重で、人命すら危ぶまれる魔素のあふれる大地や、神々の住まう神域か、フィアの体液が外気に触れたときに生じるものを採取するしかないのだ。


 曖昧にほほえみながらも、隠しきれない悲しみと痛みが見え隠れする魔女に、青年は何もいうことができなかった。


「わたしは奴隷というものが何なのかを知らなかった。わたしは、5番ファイブというのがただの番号だということすら知らなかった。彼がいくつも傷を付けてくる理由もわからなかった。いや、情報はそろっていたのに、考えもしなかったのだよ」


 魔女は、手首にはまる無骨な枷に愛おしげ指を這わせた。


「無知は罪だ、思考を放棄するのは悪だ。だから、わたしはありとあらゆる知識を求めた。幸い、わたしには時間があったから、学んで、知って、考えて、あのころよりはましになったと思う」


 それは少し過小評価だと、旅人は思った。

 まし、どころか、彼女が振りまいた英知の種でどれほどの人々が救われたか。

 彼女が最も厭った奴隷の存在は、100年前に消えた。

 彼女が一人一人の枷をはずして回り、奴隷を必要とする制度ごと、消滅させてしまったのだ。


 魔法使い達の行きすぎた研究で、犠牲になる人々も生物も減っている。

 何より、彼女の名の由来となった、ただ過ぎるのを待つだけであった大災害「フィア」を、たった一人で討伐した功績は、計り知れなかった。

 だが、魔女の顔から憂いは晴れずぽつり、続けた。


「だから、今はもうわかっている。あのときのファイが、たかだか首輪をはずした程度で、真理の塔を抜け出せるわけがなかったことも。むしろ、見つかればすぐに殺されていた。よけいなことをしてしまったと今ならわかるし、真理の塔の魔法使いたちに意趣返しをするには、わたしに食べられにくるのが一番だったのだともわかる」


 魔女がファイと呼んでいた存在は、人間として扱われなかったからこそ、様々なことを見聞きしていた。

 魔法使いたちが、フィアを使ってどのような実験をしていたかも、全部。


「だからなおさら、彼が、ファイが、どんな想いでわたしをフィアと呼んだのか、なのになんで、恨み言の一つも混じらなかったのかがわからないんだ」


 耳にこびりついて離れないのはあの優しい声。

 フィアは幼体から成体になるときに、一番に味わった感情を元に性質が決まる。


 たいていは恐怖。そして、怒りと理不尽さに、無念。


 なのに、ここにいる己は理性を失わず、思考をし、学び、行動ができている。

 それは、その最中にも彼が恐怖もおびえも怒りも感じていなかったということになる。

 知恵をつけても、知識を深めても。

 何百年たっても答えが出ないその謎に、魔女は今日も惑う。


「わかる。気がします」


 気まぐれに招いた旅人が発した言葉に、魔女は少し、いらだちを覚えた。

 それが、彼を威圧したらしい。

 真っ青な顔になってしまったのをすこし哀れに思ったが、適当なことを言われるくらいであれば、八つ裂きぐらいにはしたい。


 そんな思いを込めてねめつけたのだが、それでも旅人はごくり、と唾を飲み込んで、続けた。


「きっと、本当の意味ではわかりません。でも、彼が自分からその、食べられに来たのは、本当です」

「それは、すでに知っていると……」

「いえ、そうではなく。自分を辱めた人々に意趣返しをするためだけだったら、あなたを広く知られているフィアにしたほうが、ずっと確実だったはずなんです。だって、フィアは、ありとあらゆる恐怖を体現する、大災害なんですから」


 魔女は、本当に、久方ぶりに虚を突かれた。

 この感覚は知っている。今まで考えて行き詰まっていた物事が、きれいに納まりかけている時のものだ。

 確かにそうだ。彼が憎悪のまま、痛みを素直に感じて、恐怖を覚えていたって、真理の塔は破壊されていただろう。

 では、もっと、別にある?


「でも、あなたはそうはならなかった。彼はとても賢い人のように思えます。あなたと一緒に塔を出られないとすぐにわかったでしょう。魔法使いたちの話を聞いていれば、ほかの動物を食べたとしてもあなたが理性を保てる可能性は、万に一つもない。彼は、それが、我慢ならなかったのかもしれません。それならば、あなたの一部になることで、一緒に出ることを選んだのかな。と」



 ”僕の全部を上げるから、どうか、生きて”

 ”大好きだよ、フィア”



 最後に、彼はそう言った。

 ただ、なだめるだけではなく、本心で言っていたとしたら。



「……ああ、そうか。そうだったのか。ファイ」


 すとりと、腑に落ちたその言葉に、魔女は深く息をついた。


 もちろん、この旅人はファイを知らない。

 憶測だけで言ったことはわかっている。


 だがこの四肢を満たす何かが、そうだ、とささやくのだ。


 ずっとわからなかった。なぜ、全部をくれたのか。

 呼び続けてくれた声音の色が、本当なのかおびえた。

 いいや、それが本当だとはわかっていた。


 でも、その声に含まれた想いを受け入れてしまったら、また自分の犯した罪の重さに耐えられなくなってしまうから。

 それでも、彼が、ファイが、自分と一緒に外へ出る約束を、守ろうとしてくれたことが。

 それが良いと、幸せだと、思っていてくれたと、実感できたことが、嬉しくて。


 旅人は、魔女のその瞳からはらりとこぼれ落ちたものが、美しい魔水晶だと気づいたが、拾うことはしなかった。

 何よりも、傷つき、何よりも、愛情深く、人の世界をさまようこの魔女を労わることが、祖父母を奴隷から解放してくれた恩に報いることだと思ったからだった。









「君と出会えて良かったよ」


 出会ったときよりも、澄み切った美しい表情を浮かべるフィアの魔女が、別れの言葉を口にする。


 魔女は、一所にとどまらない。

 一所にとどまるには重すぎる存在になってしまったし、彼女の秘密を暴こうとねらう輩もそれなりにいると聞く。


 だが、それよりも、この魔女には、広い空が似合う気がした。


「俺も、お話を聞けて良かったです」


 旅装を整えた旅人が片手を差し出せば、魔女はちょっと驚いたように眉を上げたが、握り替えしてくれた。


「あの、最後にひとつだけ、いいですか」

「なんだね?」

「あなたは、また人を食べたいと思いますか」


 魔女は美しい瞳をまん丸にして、心底驚いた顔になる。

 だが、不意に妖しく緑をきらめかせて、赤い唇を弓なりにした。


「それで、食べたい、と言ったとして、君はどうするんだい?」


 その深い谷の縁をのぞき込んだような底知れなさに、すっと背筋が冷たくなり、旅人は身をすくませた。

 何気なく握った華奢な手のひらが、恐ろしいものに思えてくる。


 だが、そんな気配もすぐに霧散して、魔女はおかしそうに笑い転げた。


「冗談だよ。フィアの食事は生涯一度だけ。ものを食べられないことはないけれど、おいしいとは思わないし、空気中の魔素だけで事足りるのだよ」


 あっさりと手を離されて、旅人はほうっと息をついた。

 一歩二歩と離れた魔女は、唇に指を添えて、うっとりと目を細める。


「それに、覚えているのはあの味だけで十分だ。それ以外はいらない」


 薔薇に染まる頬、木漏れ日のようにきらめく緑の瞳。

 その匂い立つような美しさと、あふれるような愛おしさに……そこに含まれる熱情に、旅人は背筋をふるえさせながらも見惚れてしまった。


 それが、魔女の唯一なのだ。


 自失していた旅人は、ばさりと、大きな羽音が聞こえたことで我に返る。


「では、君の旅路に幸多きことを」


 そう告げた魔女の背には、純白の美しい鳥の羽が一対背負われており、今にも空へ旅立たんとしていた。

 その自然の摂理に反し、だからこそ幻想的な光景に、また声を失いかけた旅人だったが、気力を集めて振り絞る。


「あなたの道行きに幸多きことを!」


 純白の翼を背負った魔女は、旅人に一つ朗らかに微笑みかけると、優雅に空に舞い上がり、青い空へと消えていったのだった。









 フィア。

 それは、忌まわしくもおぞましい恐怖の災害。





 フィアの魔女。

 それは一人の奴隷と、無垢な化け物が起こした、たぐいまれなる奇跡の名。






 〈終〉

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フィアの魔女 道草家守 @mitikusa

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