ある化け物の話 はじまりのおわり
お日様のまぶしさで化け物が目を覚ますと、なんだかとても体が軽く感じました。
それが不思議で、体を起こしてみれば、手のひらの色が違いました。
不透明な靄のようだったのが、白くても人間のような肌色になっていたのです。
見れば、常に揺らいでいたほかの部分も、足も、体も、全部、人間の肌のようになめらかになっていました。
ニンゲンとは違って腰のあたりが細かったり、逆に胸とお尻が張り出していたりしましたが、人間の体です。
頭を触ってみれば、長い長い銀色の髪がふわりとからだを覆いました。
そう、ちょうどニンゲンと同じ色の髪と肌になっていたのです。
そこで、化け物は、自分が成体になったのだ、ということを知って、飛び上がるような喜びに包まれました。
これで、とうとうニンゲンとの約束を果たせるのです!
早速ニンゲンに教えてやらなければ、と振り返った化け物は、石の床が赤く染まっていることに気がつきました。
あたりには甘い匂いが漂っています。
これは血の匂いです。
ちょっとしょっぱくて、でもとても甘くて、思い出すだけで、涎が出てきます。
なるべくこぼさないようにしたつもりでも、もったいないことをしてしまっていたのだな、と化け物はしょんぼりとします。
はて、なぜ化け物ははその味を知っているのでしょう。
不思議に思いながらも立ち上がろうとしたとき、しゃらん、と体から何かが落ちました。
それは、鎖でした。
いつもニンゲンの足をつないでいた鎖です。
みれば、傍らに腕にはまっていた鉄の輪もあります。
でも、手も足も、ありません。
どこへ行ってしまったのだろう? と首をかしげた時。
化け物は、思い出しました。
首筋に突き立てた時に牙から伝わってきた、肌を破る感触も。
肉をはんだときのしっとりとしたやわらかい味も。
血をすすったときに口に広がったおいしい匂いと、しょっぱくて、でも極上の甘みも。
ニンゲンが、痛みにうめくその声も。
ぜんぶ、ぜんぶ。
昨夜起こったことをすべて。いえ、自分したことをすべて。
自分がニンゲンを食べてしまったことを、思い出したのでした。
「っぁ……ファイ? ファイ……!」
呼んでも返事はありません。
当然です。だって、優しく呼んでくれた口も、声を震わせるのども、化け物が食べてしまったのですから。
「あ」
なでてくれた手のひらもありません。
こりっとしてて、たいそう美味でした。
「あ、」
優しく見つめてくれた、緑の瞳もありません。
舌の上で転がしたら、ふにふにとしていて一番のお気に入りでした。
「あぁ……」
血は甘くて、髪の毛は触感が楽しくて、骨はかみ砕くのがおもしろくて、内蔵はみずみずしくて柔らかくて。
脳味噌は夢中ですくってなめとって、爪も、歯も、耳も、鼻も足も腕も、全部全部。
おいしかったのです。本当に、本当に。
なにからなにまで、たまらなくおいしかったのです。
「……ぁ、あああぁあああああぁぁぁぁっっ……!!!!!!」
化け物は、声の限り、泣きました。
のどが枯れてつぶれるほど、叫び続けました。
両の瞳からは以前は流れなかった涙があふれます。
ですがそこからこぼれるのはニンゲンと同じ水ではなく、透明な石だということすら気づかず。
たまらなく満たされた心地と、四肢にみなぎる力の正体がなんなのかを知って、化け物は銀の髪を振り乱して、身をよじって。
泣いて、泣いて、叫びました。
この挽き潰されるような胸の痛みが忘れられるのなら、どうか潰れて欲しいと願いました。
一瞬でも喜びに満たされた心を消してしまいたいと念じました。
化け物はこの腹から吐き出してしまいたいと考えましたが、それこそ無意味な行動ですし、なにより、はいてしまうにはもったいない。と考えてしまうことが厭わしく、また、絶叫します。
ニンゲンは居ません。ファイはいません。
あるのは、重い鎖だけ。
どれくらい、たったのでしょう。
化け物は、いつの間にか、部屋に別の生き物が居ることに気がつきました。
人間です。
自分の知るニンゲンより、仰々しい服を着た人間が何十人も檻の向こうにおりました。
なぜだか化け物の方を見て、歓喜の声を上げています。
「やったぞ! とうとうフィアが成体になった!」
「みてみろ、あの両目の体液からこぼれる魔水晶を! あれ一粒でどれほどの魔法が使えるかっ」
「あの奴隷の申告が間違っていたようだな。所詮奴隷か。他の奴隷よりも賢かったから候補に入れてやっていたが、見込み違いだったな。我らの英知のかけらも理解しない」
「後で仕置きをしなければならないな」
「だが、フィアが成体になるには、生きたものを食べなければならないのだろう。まだエサも用意してないのに、こいつはなにを食べたんだ?」
人間たちの言っていることは、化け物にはほとんどわかりませんでした。
わからないはずでした。
なのに、流れ込んでくるのです。
ここがどのようなところなのか。
フィアというのがなんなのか。
彼らがなんのために現れたのか。
「奴隷」というのが誰なのか。
そして、化け物自身が知っている、なにを、食べたか。
「まあよい。すぐさま封印陣の強化を! このフィアはおとなしいとはいえ、暴れられたら魔水晶が取れないぞ」
とたん、化け物の全身に重い負荷がかかりました。
ぱたりと床に倒れ伏します。
どうやら封印陣というもので、戒められたようです。
そうして、格子の内側に人間が入ってきました。
ニンゲンと化け物以外、誰も入ったことのない場所へ無遠慮に入ってきたのは、人間の男でした。
きれいでもなんでもない、ニンゲンよりも幾分か年かさのその男は、醜悪な感情をまき散らしておりました。
吹き上がる衝動に、ぎりり、と化け物は奥歯をかみしめました。
いやだ、くるな。ここは、ニンゲン以外が来て良い場所じゃない。
いいや、ここはニンゲンにとてもつらい場所だった、苦しい場所だった。
じゃあどうしたらよいのだろう。
男は化け物をのぞき込むと、息をのみました。
化け物は、その瞳に映った自分の姿で、自分が緑の瞳をしていることを知りました。
「へえ、化け物でも、こんなきれいなら、一発くらいヤッてみたいもんだ」
化け物は男を見上げます。
流れ込んでくる情景では、その男はニンゲンを楽しそうに痛めつけておりました。
ああ、あのときの傷も、あの時のつらい感情も、この男のせいだったか。
「そんな馬鹿なこと言ってないで、とっとと魔水晶を取ってこい」
「へえへえ」
そうして、透明な石を拾い集めた男は、化け物の傍らにある二つの鎖に気がつきました。
「うん? なんだこれ。奴隷の、くさ、り?」
男がニンゲンのものに無造作にふれて。
化け物は目の前がかっと赤くなったような気がしました。
体の内側からぞぶりと、どす黒い物があふれ出します。
ぽとり、と、鎖を拾い上げようとしていた男の手首が落ちて。
勢いよく、赤いものが噴き出しました。
つん、とした血の匂いが広がりましたが、全くいい匂いではありません。
「触れるな」
「あ、ぎゃあああああぁぁ!!!」
不思議そうに、自分の腕を見ていた男は、一拍おいて絶叫しました。
男が叫び声を上げながら腕を振り回すので、血が顔にかかります。
化け物はそれをなめてみましたが、あまりにもまずくてすぐに吐き出しました。
ニンゲンのは違いましいた。
香りだけでかぐわしくて、含めば甘くて、いつまでもなめていたくなりました。
そう考える自分が、嫌で嫌でたまらなくて、また苦しくなります。
「フィアが言語を話したぞ!?」
「なぜだ!? 情報は徹底的に制限していただろう!!」
人間たちがわめきちらしながら、また封印陣を強化して、体が重くなりましたが、まったく化け物には堪えませんでした。
自分を押さえ込もうとする何かを、無理矢理引きちぎります。
ぱりんっと、はかない音とともに封印陣も、床に描かれていた紋様も砕け散りました。
化け物は成体になったのです。
成体になれば何でもできると思ったのは間違いではありませんでした。
阻む物はなにもありません。
化け物はゆっくりと立ち上がると、居並ぶ人間たちを、この真理の塔の魔法使いたちを、順繰りに見渡しました。
今はもう、知っています。
この魔法使いたちが、化け物になにをしようとしていたのかを。
大好きなニンゲンになにをしてきたのかを。
「許さない」
化け物は、人間たちに向けて呪詛をはきだします。
恍惚としていた魔法使いたちが、さあと表情をなくします。
「許さない、許さない、許さないっ」
でも、一番許せないのは、化け物自身です。
この四肢は、すべてを砕きます。
この体を巡る力は、あらゆる現象を引き起こします。
何でもできます。
そう、彼を生き返らせる以外は。
「ああぁぁぁぁああああぁああ!!!!!!」
人間たちが魔法を使うのも意に介さず、あふれる怒りと憎しみと悲しみのまま、化け物は持てる力のすべてを解放します。
慟哭を捧げて、ありとあらゆるものを力で飲み込んだのでした。
化け物が気がつけば、頭上に青い空が広がっておりました。
久しぶりの、視界いっぱいの青空です。
でも、全くうれしくありませんでした。
だって、一緒に見たかった人はもう居ません。
周囲は床だったものと、壁だったものと、建物だったものと、人間だったものが転がっています。
生きているものは、なにもありません。
無事なのは、化け物が両腕に抱えていた、ニンゲンの鎖だけです。
でも、鎖は話しかけてくれません。
そうでないばかりか、すでに化け物はこの鎖の意味をすでに知っておりました。
こみ上げてくる痛みのまま、化け物は鎖を抱きしめました。
「ごめんなさい」
あの檻にいる自分はなんて馬鹿だったのだろう。
なんてもの知らずだったのだろう。
なんて、おろかだったのだろう。
あふれるような後悔と、悔恨に胸がかきむしられます。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
自分が、死んでしまえば、許してもらえるでしょうか。
この四肢は、すべてを砕きます。
この体を巡る力は、あらゆる現象を引き起こします。
何でもできます。
そう、彼を生き返らせる以外なら、自分の命を刈り取ることも。
化け物は指の爪を鋭くして、胸の中心をねらいます。
そこが、一番確実だと、知っていたからです。
ニンゲンに与えてしまった苦しみに比べれば、とても少ないけれど、一瞬でなければ自分は死ねないのです。
一突き、爪の先端が胸を貫こうとした寸前、ぴたりと止まってしまいました。
聞こえないはずの、ニンゲンの優しい声が響いたのです。
”どうか生きて”
そうしたら、自分の腕なのに、うんとも寸とも動かなくなってしまいました。
化け物は、気づいてしまったのです。
この体の指先一つ、髪の毛一筋に至るまで、ニンゲンでできていることに。
自分が死んでしまえば、今度こそニンゲンも死んでしまうのです。
それは、化け物にとって自分が消えることよりもつらい、つらいことでした。
ここで死んでしまえたほうがどんなに楽でしょう。
でも、それはしてはいけないことだと、たった一つのニンゲンの名残を、消してしまうことになるのです。
化け物は長く長く悩みます。
そして唇をかみ切るほど力を込めてかみしめたあと、ゆっくりとその手をおろしました。
唇の端からこぼれた血が、石となってこつりと音を立てて、地面へ転がります。
「生き、るよ。ファイ」
ニンゲンは、自由になりたいと言いました。
あなたがこの身体にいるのなら。それがあなたの望みなら。
それを叶えるのが、化け物の義務だと思いました。
けれど無知は罪です。考えないことは悪です。
だから、化け物は、世界で一番物知りになることにしたのでした。
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