ある化け物の話 おわりのはじまり





 そんな、ある日のことです。


 その日、化け物は、朝からなんだか頭がふわふわしていました。

 体がぽかぽかするような、ぼんやりとするような。


 こんな変な感じになるのは初めてで、良くわからなくて、化け物は戸惑いながらも冷たい床に頬を寄せていると、しゃらしゃらと鎖を引き連れる音が聞こえました。

 足の鎖は腕の鎖と違い、右と左がつながっているので、動くたびに良い音がするのです。

 腕の鎖も、鎖ではないだけで透明な糸でつながってはおります。ですが前にそれを教えたら、ニンゲンはとてもつらそうな顔をしたので、化け物は二度と言わないことにしていました。


 ああ、ニンゲンが来たとうれしくなって、体を起こした化け物ですが、その姿にびっくりします。

 なぜならば白い肌は所々赤黒くなり、頭からは血を流していたのですから。


「こんにちわ、フィア。見苦しい物を見せてごめんね」


 何でもないように笑うニンゲンに、化け物は悲しくなりました。


 ニンゲンは時々、いろんな傷を作ってあらわれます。

 痛い、という感情はとても薄いのですが、化け物はそんなに簡単に傷ついてしまうニンゲンが心配でした。

 化け物は今すぐにでも格子のそばへ駆け寄りたかったのですが、体にうまく力が入らず、こてりと床に転がります。


 ですが、化け物が常になく床に横たわっているのに気付いたニンゲンは、慌てて格子のそばへ走り寄ってきてくれました。


「フィア、大丈夫かい!?」


 その拍子にふうわりと空気が動いて、化け物はすんと鼻をうごめかします。

 なんだか甘くていつまでも嗅いでいたくなるようないい匂いです。


 けれど、銀色の髪を乱れさせて来てくれたニンゲンが、体をふらつかせて床に地面をついておりましたので、化け物はころりと床を転がって言いました。


「それは、わたしの言葉だよ」

「僕のはいつものことだけど、君がそんな風に具合悪そうにしているなんて初めてじゃないか」


 よほど驚いたのでしょう、ニンゲンは格子の間から少し身を乗り出して、化け物に手を伸ばしてくれました。

 化け物の半透明の肌に触れ、長い髪をなでてくれます。

 いつもはあったかい手なのに、今日は冷たくて気持ちがいいです。

 目を細めて浸っていると、ふと、眼前にあるニンゲンの首に重くある首輪が目に入りました。


「フィアも病気になるのかな。いや、でもあいつらは生物じゃないって……」


 ぶつぶつつぶやいているニンゲンの首輪はいつも重そうで、はずせばいいのに、と思っていましたが、いまなら手が届きそうです。


「ねえ、ファイ。こっちにきて」

「なんだい?」


 ニンゲンは不思議そうにしながらもにじりよって来てくれたので、化け物は億劫ながらも腕を上げ、その首輪に手を伸ばしました。

 化け物は見たものに姿を変えられますが、体の一部分だけ変えることもできるのです。

 ですから指だけを鋭くして、さくりと、首輪に切れ込みを入れました。


 からん、と妙に甲高い音をさせて床へ落ちた首輪に、化け物は達成感を覚えつつ、人間を伺いました。

 

 ですが真っ白い首筋をさらしたまま固まるニンゲンは、呆然と落ちた首輪を見つめていました。

 軽くなったら喜んでくれるんじゃないかと思ったのだけど、そうでもありません。


 がっかりした化け物でしたが、その頭の傷から血がにじんでいるのに気がつきました。

 痛みを感じると、あんまりうまく物が考えられないとニンゲンから聞いていました。もしかしたら、ちゃんと気づいていないのかもしれません。


 だから化け物は、もうちょっと伸び上がって、ニンゲンのこめかみの傷に舌をはわせました。

 ようやく動いたニンゲンは、真っ赤になってぱっと後ずさりました。

 そうして、化け物がなめた頭に手をやります。


「な、なにをするんだい!?」

「生き物は、こうやって、傷をなめてなおすんだろう」


 これくらいなら、知っているんだぞ、と胸を張ってみましたが、ニンゲンはどうっと、疲れたように息をついたのでした。


「人間は傷をなめて治さないんだよ」

「そうなの?」


 それは申し訳ないことをしたとしょんぼりしていると、ニンゲンは落ちた首輪をじっと見つめていました。


「君の首が、重そうだったから、とってあげたんだ」


 ほめてくれないかな。なでてくれないかな。それよりもまた近づいてくれないかな。

 そうしたら……と考えたところで、化け物は首を傾げました。


 なにをしたかったのでしょう。


「そうか、とってくれたのか。ああ、そうなのか……」


 だけれど、ニンゲンはうれしいときの明るい感じではなくて、なんだか悲しいような、途方に暮れたような、つらいような、切ないような、そんな感情ばっかりで、不安になります。


 もしかして、だめだったのだろうか?


「ねえファイ、よけいなこと、した?」

「いいや、うん。いいんだよ」


 首を横に振ってくれたニンゲンに、ほっとした化け物は、すんと鼻をならしてみる。


「ねえ、ファイ。なんか、いい匂いがするね」

「におい?」

「うん、甘くて、すごく……」


 けれど、化け物はその匂いを表現する言葉がわからなくて困っていますと、ニンゲンは緑の瞳をおおきく見開きました。

 きれいな目玉が、こぼれ落ちてしまいそうですが、ニンゲンが愕然と化け物を見下ろして、様々な感情が激しく嵐のように渦巻くのを不思議に思います。


 ニンゲンがゆっくりと鉄の首輪を拾うと、じっとまた見つめていました。

 その姿があんまりにも真剣で、化け物はただただ黙り込むしかありません。


 どれくらいたったでしょうか。

 ニンゲンはゆっくりと首輪をはめ直してしまったのです。


 手を離しても落ちないことにほっとした顔をするニンゲンに、化け物はがっかりしましたが、ニンゲンは最後に化け物の方を見て言いました。


「ねえ、笑って。フィア」


 ずいぶん不思議なことを言うものだ、と思いつつ、化け物はにっこり笑って見せます。

 それを、ひとつ、ふたつと見つめたニンゲンは、満足そうに笑いました。

  天窓から入る日差しに、銀色の髪がほんのりと輝いて、やわらかい表情は化け物はとってもとってもきれいでした。


「ありがとう、フィア。じゃあ、またね」

「うん、またね。ファイ」


 なんだか、いつもの声と雰囲気が違いましたが、化け物にはその理由がわからず、化け物はそうして、ニンゲンを見送ったのでした。














 化け物が眠れば治るかもしれない、と思った体の疼きは、夜になっても納まりませんでした。

 身のうちにこごる熱が増していき、ますます頭がぼんやりして、ふわふわしてきます。


 うまく物が考えれないのに、小さな窓から見えるお月様がまん丸くて、とてもきれいなのが目に付きました。


 それが妙にまぶしくて、目を細めてみます。


 同時に、なんだかお腹のあたりが寂しいような、苦しいような心地を覚えて戸惑いました。

 のどのあたりがからからとひっかくようで、とても気になります。


 そして、しきりに思い出すのは、お昼に会ったニンゲンのことでした。

 舌に思い出すのは、なめ取った血の味です。


 なんだか、しょっぱくてとっても良い香りがして、思い出すだけで口の中が潤って。溢れそうになるそれをこくりと飲み込めば、のどのひっかくような感じが少し薄れました。


 でもだめです。ちがうのです。

 ああ、これが、乾くということか、と化け物は気がつきました。

 生き物が川の水を飲みたがっていたのは、この渇きを癒すためだったのでしょう。

 ですが、化け物はお水が欲しいとは思いませんでした。


 今日のニンゲンのようすは、とてもおかしかったのです。

 いつもと違って、ちょっと怖くて、でもとてもきれいで、大丈夫かな、と思います。

 体の傷が治らないと、何日も化け物の下へ来ないこともありましたから。 

 傷からにじんでいる赤いものは、ちょっともったいなかったな。


 また、口の中に水があふれてきて、こくりと飲み込みました。


 あの甘い匂いはなんだったのだろうと、化け物は考えますが、頭がぼんやりしてよくわかりませんでした。


 でも、思い出すだけで、あの匂いが恋しくなりました。

 ニンゲンはきっと、夜が明けたらまた来てくれます。

 でも、明日までがとても長い気がしました。


 それに大好きなニンゲンの役に立ちたくて、喜んだ顔を見たくて、首輪をはずしてみたけれど、元に戻してしまったから、もしかしたら来てくれないかも知れない。

 そう思ったら、なんだか急に悲しくなりました。


 お腹がくうとなりました。


 体がとても熱くて仕方がなくて、なんだかとてもニンゲンにあいたくて、会いたくて、たまりません。

 苦しいような、くらくらするような感じは初めてのことで、化け物はただ横たわっていることしかできませんでした。


「ぁぅ……ふぁい、ファイ……」


 もしかしたら、ニンゲンならわかるかもしれない、と名前を呼んでみましたが、くるわけがありません。

 だって、ニンゲンが来るのは日が昇っている最中だけでしたから。







 それなのに、その夜は違いました。







 あの甘い匂いが漂ってきて、化け物ははっと身を起こしました。

 きいと、扉を開けて現れたのは、銀色の髪に、緑色の瞳の、白い肌を月の明かりに照らされた、ニンゲンだったのでした。

 足首についた鎖をしゃらりとならして歩いてきましたが、その真っ白い首には、あの重そうな首輪がありません。


「こんばんわ、フィア」

「ぁっ……ファイっ」


 はずしてくれたのだ、とうれしくなった化け物は体のだるさも忘れて笑えば、ニンゲンも同じように笑い返してくれました。

 そうして、いつもと同じように、歩いてくるニンゲンを化け物は見つめます。


 正確には、その首筋が、なぜか、とても気になるのです。

 白い顔とは違って、ほんのりと赤黒くなっておりました。生々しくて胸が騒ぐような。

 それでも夜に来たことがないのが不思議で、化け物は聞いてみます。


「どぅ、したの?」


 なんだかうまくろれつが回りませんが、ニンゲンはますます笑みを深めました。

 ニンゲンからあふれる感情はなんだか静かでしっかりとしているのに、ふわふわしていて、化け物までうれしくなります。


 そうして、ニンゲンは格子の前にたどり着くと、その隙間から、檻の内側へ入ってきました。


 体ごと、全部です。


 びっくりしましたが、同時に、あの、とても良い匂いが強くなって、化け物はくらくらとしました。


 人間のオスであるニンゲンの首は白くて、はりがあって、とってもきれいでした。

 ずうっと固いものでおおわれていたせいか、すれて赤黒くなっているところもありましたが、それもまた素敵に思えます。

 なめてみたらどんな味がするのだろう、かじってみたら、どんなふうなのだろう。

 そう考えるだけで、胸のあたりがどきどきと高鳴ります。


 そして、あのお腹の不思議な感覚がいっそう強くなりました。

 いったいこれはなんなのだろう?

 いつの間にか、目の前にニンゲンがしゃがみ込んでいて、化け物を見下ろしていました。


「ねえ、フィア。僕は、おいしそう?」


 おいしそう、とはなんだろう?

 でも、緑の瞳に問いかけられたとたん、化け物は夢中でうなずきました。

 うなずいて、ようやく気づきました。


 これが、お腹が空く、という感覚なのだと。

 いま、化け物はとてもお腹が空いているのだと。


 すると、緑の瞳が柔らかく和みました。

 やさしくて、甘い感情に包まれて、化け物はうっとりとして、また、乾きが強くなります。

 なにかで、うるおしたい、でも、なにで?


「フィア。僕の安らぎ、僕の願い、僕の希望、僕の夢」


 大好きな、ニンゲンのこえが聞こえます。

 おなかすいた。

 だいすきなニンゲンがいる。とても、あまいにおいをして、とてもおいしそうな、はだをした。


「僕の全部をあげるから、どうか生きて」


 すうい、と化け物よりも大きな手で頬を包まれて、ひたいとひたいをこつりと合わせました。

 ニンゲンの鼻が化け物の鼻に擦りつけられて、くすぐったいです。


 そうして、唇に何かが当たりました。


 それはやわらかくて、あたたかくて、とっても、おいしい。


 ニンゲンのとびっきり素敵な笑顔が目の前にあります。


「大好きだよ、フィア」


 うん。わたしも、だいすきだよ。ファイ。


 ああそうだ、ここにある。


 化け物はうっとりとほほえんで、その真っ白い首筋に牙を突き立てました。

 その瞬間欲しかったのは、これだったのだ、と腑に落ちました。


 口いっぱいに広がるそれに、ひと噛みごとに満たされる心地に、化け物はたちまち夢中になりました。



 くちゃくちゃ。もぐもぐ。



 あたたかく髪をなでてくれるのが幸せで、良いよといってくれているようで、化け物はますますうれしくなりました。



 こりこり。むしゃむしゃ。



 こんなに長く一緒にいられるのは初めてで、緑の瞳がずっと笑んでくれています。



 かつかつ。こつこつ。



 大好きなニンゲンが化け物の名を呼ぶ声が、聞こえなくなった頃。


 化け物はお腹の寂しさの代わりに満足感を覚えて、今までで一番幸せな心地で、眠りについたのでした。










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