『ポタ…ポタ…』




こんな夢を見た。


 目を覚ますと私は見知らぬ部屋にいた。


 かけられたシーツは白く清潔に糊付けされていてサラサラとしたさわり心地が気持ちがよい。


 部屋の壁はややくすんだ白色で赤い絨毯が床に敷き詰められている。


 しかしながら全体の雰囲気はやや古く、置かれている家具もひとむかしの代物に見えた。


 濃茶に塗られた扉を開くとギギギという軋む音がするが重くはない。


廊下に出ると左側は壁で右側には部屋と同じような赤い絨毯が数十メートル先まで敷き詰められていて向こう側には階段がチラリと見えたる。


 この洋館はどこなんだろうか? 


 そう思いながらも不安を誤魔化す為に廊下を階段へと進む。


 階段までたどり着くとどうやらここは2階のようで階下へと続く階段、3階へと昇る階段がある。


 なぜ2階だと思ったのかと問われれば、階下へと進む踊り場の窓から見える景色の高さから判断した。


 窓の外にはいくつもの木々が見え、どうやらここは森の中にある館なのだなと一人納得をした。


 さてどうやってここから出ようと思案していると上階から誰かが降りてくる。


 ここの住民だろうか? 


 声をかけようかどうしようか悩んでいると件の人物の足が階段の隙間から見えるがふと何か言い知れない違和感を感じて身構えた。


 なんだろうか? なんといえばいいんだろうか? 


ヨタヨタと危なっかしく進む足取りだろうか? 


つま先や絨毯の上に落ちるポタポタとした水音だろうか?


 わからない。


 ただただ不自然に早くなる心臓がそれが気のせいでは無いことを知らせくれる。


 やがて男が最後の一段を降りて踊り場へとやってくる。


 窓から見える日差しからの逆光がひたすら眩しい。 しかし不思議なことに眩い光線の中で影になっているはずの男の姿が見える。


 見覚えのある体型。 見覚えのある服装。 そして忘れるはず無い相貌。


 立っていたのは自分自身だった。


 笑っているのか泣いているのかわからないくらいに顔を歪め、理性を垂れ流すように唇の端から涎が垂れる。


 それが両腕をダラリと垂れ下げてユラユラ揺らしながら降りてくる。


 瞬間、弾かれたように走り出した。


 あれは俺だ。 俺の終わりを告げる何かだ。 


 死とは違う。 俺を…俺自身を終わらせる別の概念だ。


 何故かと問われれば答えられない。 


 だがそう確信した。 理解してしまった。 あれに捕まれば俺は終わる。 


 俺が…俺自身が…自分が自分であるということを理解できる術を全て失ってしまう。


 あれはそういう存在なのだ。


 柔らかい絨毯の上を必死で走りながらそんなことを考えていた。


 振り返るとそれはすでに階段を降りきって、自分と同じ床へと歩んでいく。


 走れ! 走れ! 逃げろ! 逃げろ! 


 アレに触れてはいけない。 触れられてはいけない。 掴まれてはいけない。


 血のように赤い床の上を走り続ける。 


 息が上がり、吐き出す呼気の中にゼエゼエという音が混じっても逃走しつづける。


 しかし逃げ場がない。 


 広い館の廊下はどこまでも長く続くが、下へと降りる階段は見つからない。


 それでも足を止めてはいけない。 


 じっとりとした汗に身体が包まれても徐々に足が重く縺れてきても止まることは許されないのだから。


 だがとうとう終点が来た。 


 長大な廊下の先、その終焉にたどりついてしまった。 


 身を隠す場所も上下へと進む階段も無い。 


 ただただ無機質な壁が残酷なまでに歩みを止める。 


 アレは数十メートル先に有り、不思議に足音は聞こえないが靴の上に落ちる唾液の音だけが木霊する。


 逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。


 心中で何度も叫び、苦し紛れに壁の左側にあった扉を開ける。


 転がるように入った後、力いっぱい扉を閉める。 そしてカギを閉めようとするがそんなものはなかった。


 無いどころか本来内側にあるはずのドアノブさえない。 まるで綺麗に切り取られたかのようにかつてはあったであろう痕跡を残しながらすっぱりと取り外されていた。


 絶望しながらも扉に耳をつける。


 足音は相変わらず聞こえないが、例のボタボタとした音が近づいてくるのが聞こえる。


 すぐ近くまで来てる!  どうすればいい? どうすれば脱出できる?


 混乱する脳内を無理やり押さえ込んで部屋の中を見渡す。


 部屋の中味は目覚めた場所となんら変わらなかった。


 白く清潔なベッドシーツ。 薄暗くくすんだ壁に血のように赤い絨毯。 そして窓の外で揺れる木々たち。


 窓? そうか! 窓からなら…。


 駈けよって確認してみると、鍵は掛かっていない。 


 長い間、開けてなかったのかギシギシと軋みながらも窓はあけることが出来た。


 しかし身体をねじ込むが、窓枠自体が小さいためどうしてもひっかかってしまう。


 脱出しようと思うなら窓自体を取り外さなければいけないのだろうが、工具も時間も無いこの状況ではそれは不可能だろう。


 ならば…。 


 じっと両の拳を見る。 震えている。


 思いついたことを実行するための僅かな逡巡。 それを示す震えを力いっぱい握りつぶし、全力で窓ガラスへと叩きつけた。


 窓はあっさりと割れ、地上へと欠片が降り注ぐ。 


 鋭く激しい痛みと共に暖かい液体が流れ落ちる。 それでも尚ももういちど振りかぶって残ったガラス部を殴りつけた。


 ガラスが割れるたびに血が飛び散っていく。


 でもまだ足りない。 まだ通り抜けるには足りないのに。 もう時間がなくなってしまった。


 すぐ後ろで扉が開く音がする。 同時にポタポタと液体が流れる音が二重に。


 降りかえることは出来ない。 その時間すらも惜しい。


 俺が俺である為に後ろを向く余裕は無いのだ。 


 のしかかる痛みと恐怖を想像し、なおも踏み出して窓に身体を投げ出す。


 未だ窓枠に残るガラスに全てが傷つけられていく。 


 それでもそれに耐えなければ……生き残ることが出来ない。


 肩を、胸を、太もも、膝、脛。 痛くない箇所などほとんど有りはしない。


 それでも最後に残った最大級の痛みを予想して涙は出さない。


 無慈悲な『それ』に切り刻まれながらも外に飛び出ることが出来た。


 そして当然の帰結で飛び出した俺は重力に引かれて地上へと落ちていく。


 地面は不思議にゆっくりと近づいてくるように見える。 


 そうだいつだって活路を見出した直後にこそ最大の痛みが襲ってくるのだから……俺はそれを受け入れるように目を強くつむる。


 ドンッ! という衝撃が身体を貫いた瞬間に意識が途切れた。




 目覚めるとそこは部屋の中だった。 前と同じ室内。 そして思い出す。


 その前も、その前の前も、俺は何度もこうやってくり返してきたのだ。


 傷は生々しく痕になって残っているが、痛みはほとんどない。


 ただそれでも何度もくり返してきた覚悟と痛みをこれからまた体験しなければならないのかと思うと、いっそ『あれ』に捕まってみようかとさえ考えてしまう。


 『諦め』という名の自分自身に。


 それでも挑もうとベッドから降りたところで目は醒めた。


 今日も今日とてこんな夢を見た。 


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悪夢十夜 中田祐三 @syousetugaki123456

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