第7話 肉じゃが
ナポリタンの匂いは、もはや身体に染みついている。
最後の客を見送って暖簾を下ろしたところで自然にため息が零れた。見上げた看板に書かれた鉄板ナポリタンを見上げて今日も口元を緩める。正面の戸に鍵をかけたところで、ぐ、と腰を伸ばす。いくら寝ても休んでも身体の痛みや重さが取れなくなったのは年のせいだろうか。
時計を見ればちょうど一時を越えた頃だ。昔はもう少し遅くまで営業もしていたが、今はそんなに遅くまで来るお客もそんなにいない。それに私もお父さんも深夜営業をやるほどの体力は亡くなってしまった。
今日もお父さんに背中を踏んでもらおうかしら、と考えたところでポケットに入れていた携帯電話が鳴った。ほとんど鳴ることのないそれを取り出せば、想像通り美咲と娘の名前がそこにある。
押しなれないボタンを押して電話を取ると「あ、お母さん?」と聞きなれた元気な声が耳に飛び込んでくる。
「どうしたの、こんな夜中に」
「もう仕事終わった? 大丈夫?」
「ちょうど今終わったところ」
そういいながら店の椅子に腰かける。ちらりとキッチン側を見れば、先ほどまで姿を消していたお父さんが戻ってきていた。トントンとリズムよく刻む音におそらく明日の仕込みを始めているのだろう。
「ご飯まだでしょ、ちょっと作りすぎたからご飯持って行っていい?」
ぼんやりお父さんの包丁が作るリズムに耳を傾けていて聞き逃しそうになったが、突然の提案に目を数度瞬かせる。徒歩五分圏内の近所に住んでるとはいえ、その提案を受けたことは一度もなかった。
「いいけど、あんた明日仕事は?」
「休み。だからたまにはいいでしょ、お酒も持ってく。じゃね」
一方的にそう言うと、美咲は一方的で電話を切った。こちらの様子を気にしていたらしいお父さんがカウンター越しにこちらを見る。
「今から美咲が来るって。ご飯持ってきてくれるんだって」
「こんな時間にか。危ないだろう」
「あの子もとっくに大人よ」
渋ったようにいうお父さんに笑いで返す。お父さんが心配する気持ちも十二分にわかるが、彼女ももう三十歳を越えている。徒歩5分圏内のこの店まで来るのに警戒くらいできるだろう。あの子が何を持ってくるのかまで聞いていないことを思い出して楽しみになってきた。
一度手を止めていたお父さんの手が再び動き始める。両肘をテーブルに置いて手の上に顎を乗せた。リズミカルな包丁の音は聞いているだけで大変心地が良い。
何十年も聞いてきたその音はもはや日常のもので、こうして今日も日常が送れていることに感謝の念が自然と沸いてくる。
「お父さんはナポリタンが好き?」
「好き、か」
音が止まった。考えに手が止まったのかと思ったけれど、どうやら仕込みがひと段落ついたようだった。答えがないまま切った食材を冷蔵庫の中に押し込むと、瓶ビールを持って一本持って私の前へと腰を下ろした。
「……好きだから、やってんだろう」
「うん、私もお父さんのナポリタン好き」
お父さんは何も返さずに栓を抜き、二つのグラスにビールを注いだ。仕事が終わったあとの一杯はいつものものだ。
今日来てホッピーを頼んだ子は娘と同じくらいだっただろうか、と考える。珍しい夜の時間の一人客であり、少し気になってしまった。それでも帰るころにはすっきりとしていたから安心したのだけれど。
乾杯、とグラスを掲げようとしたとき、ガラリと扉が開いた。外の寒さに鼻を真っ赤にした美咲に自然と口元が緩んだ。もう三十二歳だというのにどうにも落ち着きなく見えるのは親としての目だろうか。
「ただいま。というか先に飲んでたの? 私来るって言ったのに」
大きな袋を両手に持ってきた美咲は、私とお父さんの目の前にどさりとそれを置く。
「ちょうど飲もうとしていたところ。あんたも飲む?」
「うん、ちょうだい」
よいしょ、と席を立ち美咲のためのグラス、それからとりわけ用の小皿を取り出して戻る。机の上には美咲が作ったのだろう料理がどん、と置かれている。何を作ったか遠目にもすぐわかった。
「肉じゃがかい」
「どうせ作るならたくさん作ろうと思ったらやりすぎちゃった」
大きなどんぶりにはどっさりと肉じゃがが詰まれていた。ジャガイモ、人参、糸こんにゃく、豚肉。定番の具材は我が家で使うものとなんらかわらない。
「とりあえずビール飲も」
お父さんが何も言わずにビールを注ぐと、私の隣に座った美咲に渡す。ありがと、と小さく言って、元気よくそのグラスを掲げた。
「乾杯!」
「はいはい、乾杯」
いつも通り元気のいい美咲の声に、合わせて私もグラスを軽く持ち上げる。お父さんは何も言わずにちびりとビールを飲み込んだ。それとは対照的に。美咲はグラスの中を勢いよく飲み干す。
お父さんは何も言わずに、空っぽになった美咲のグラスにビールを注ぐ。美咲はニコニコしながら、続けて半分ほど飲み干す。
「相変わらず身体に悪そうな飲み方して」
「これが一番美味しいの。それより二人とも食べて。美味しくできたから」
その言葉にお父さんは箸をさそく伸ばした。綺麗に醤油が沁みたジャガイモは傍から見ているだけでも柔らかそうで喉が鳴る。夕方に簡単な賄いは食べているものの、すっかりお腹はペコペコだ。
お父さんに合わせて私も箸を伸ばした。箸で掴んだだけで割れそうになるジャガイモを丁寧に小皿を移す。ほくほくとしたその感触を楽しんでからそっと口に運ぶ。すっかり冷めてしまってはいたが、その分味がしっかり芋の中央まで染み込んでいた。
醤油の辛さより甘さが舌に残る。その一方でしっかりぽってりとした芋の甘さはしっかり残っており、他の食材との味のバランスも良い。
「あら、美味しい」
素直に感嘆の声が出た。子供子供とばかり思っていたが、料理の腕も随分上がっていたようだ。ジャガイモと同じくらい柔らかい人参を口に入れながら嬉しくなった。
小さいころは肉じゃがに入っている人参も嫌がっていたあの子が、こんなに美味しくにんじんを料理できるようになっていたなんて。
「……懐かしいな」
ぼそり、と目の前のお父さんが呟くと、ちびちびと飲んでいたはずのビールをぐい、と飲み干した。嬉しそうに笑う美咲が空になったグラスにビールを注ぐ。
「でしょう。私の肉じゃが、お母さんの味だから」
そういわれてはっとした。お父さんがちらりと私を見て、普段ほとんど上がらない口角が少しだけあがったように見えた。
「そういえば、これ私の味付けに似てるわね」
「お母さんに習っているんだから当然でしょ」
美咲が自慢気に笑うと、自身も肉じゃがに箸を伸ばし、幸せそうに目を細めた。その様子を見ながら、自然にビールを手に取る。チビリと飲めば、なんとなしに昔を思い出した。
幼い頃、美咲には苦労をさせた。
もともとお父さんは飲食店の料理人であり、幼いころから自分の店を継ぐことが夢だった。私はそんな彼が勤めていたお店に通うただのお客さんだったのだけれど、縁あってこうして結婚になった。
無口のお父さんからのアプローチは可愛いものだった。当時の思い出は私だけの秘密。この話は今まで誰にもしたことがない。照れると極端に赤くなる彼を見て、あまり言いふらすのも可哀そうだと思ってしまった。
プロポーズの日、サイズなんて知る由もない彼が買った指輪はゆるゆるで、お父さんの顔がすっかり青ざめてしまったのも懐かしい記憶だ。サイズを直したそれは、今も私の小さなアクセサリーボックスの特等席に座っている。
お父さんの給料は当時から決して高くなかった。結婚と同時に私も務めていたお店を辞めてしまったため、生活は常に厳しかったけれど、一緒にいれることが嬉しかった。そんな折り、美咲が私に宿ったときの幸せは言葉にならない。
生まれてきた美咲は、この世の宝かと思うほど可愛らしく、妊娠中の悪阻や出産の痛みなんてしんどさを全て忘れさせた。私とお父さんの子と思うと、さらに愛は深くなった。
だからこそ、美咲が生まれたばかりにも関わらず「独立したい」とお父さんが言ってくれたときにも文句はなかった。「独立したい」という夢は、彼だけではなく、私の夢にもなっていたからだ。
独立後、経営を安定させるまでは長い時間がかかった。資金繰りもままならず、お店に安定してお客さんがやってくるようになるまでの何年もの間、生活は常にギリギリだった。
そんな生活にも関わらず、美咲は大きな反抗期もなくすくすくと育ってくれた。小さいころはみんなが持っているおもちゃも買ってあげられず、少し大きなってからも携帯やウォークマンも持たせられなかった。
それでも美咲は、私の料理を「美味しい」とニコニコ頬張ってくれた。
お父さんはお父さんで少しでも経営のため、元のイタリアンレストランからナポリタン専用の定食屋へと転換した。そしてそれが功を奏した。
美咲が高校に上がるころ、ようやく店も軌道に乗った。常連のお客様が来て、一時期は雑誌に掲載されたこともある。そのころは本当に忙しかったがいい思い出だ。美咲も店のお手伝いを積極的に行ってくれていた。
それから数年が経ち、なんとか大学を卒業させられたときには本当にほっとした。
そんな我が家で、幼い美咲によく食べさせていたのがこの肉じゃがだった。ご飯のおかずとして適当かと言われれば悩むところだが、美咲はこの肉じゃがが好きだった。
食べ物のの好き嫌いは少なかった美咲の嫌いな人参も、この肉じゃがだけは嫌そうにしながら最後まで食べてくれたことを今でも憶えている。
牛肉はどうしても買う勇気が出ず、なんとか買えた少な目の豚コマ肉を入れた甘い肉じゃがは、確かに私が作っていた肉じゃがそのままだ。ニコニコと笑顔を浮かべながらご飯と一緒に放り込む姿が、なんとなしに浮かぶ。
そんな美咲も、今は立派な食料品メーカーに勤めている。勤務してから立派に働いているようで、今は花形部署と言われている企画部で新しい商品開発をしているようだ。わが娘ながら自慢の娘だ。
もう一口、と肉じゃがを放り込みながら、やはり使われているのが安い豚コマ肉だということに気が付いて呆れた笑いが落ちた。
「あんたの給料なら牛肉も買えるでしょ」
「まあ。でも豚のが美味しく感じるんだよね」
その言葉に、つい嬉しくなって口元が緩む。嬉しいことを言われたような、貧乏舌に育ってしまったことを悔やめばいいのか。お父さんと自然に目が合って、呆れたように首を振った姿に笑ってしまった。
「貧乏舌に育てちゃったわねえ」
はは、と笑いながらビールを飲む。いつもは口数少ないお父さんと二人、静かな晩酌だけれどたまにはこういうのも悪くない。娘が作った料理が自分の料理の味に似ていると言われるのは嬉しいものだ。
「そうだ、今日はこれ持ってきたの」
そう言ってでん、と机に置かれたのは焼酎だった。お酒が好きなお父さんの目がそのラベルに寄る。普段はそこまで飲まないお父さんだが、若いころはよく飲んでいたのを知ってる。
ラベルには『村尾』と書かれていた。私にはさっぱりだが、お父さんがいつもより目を輝かせているのを見るといいものだのだろうか。
「どうしたの、これ」
「もらいもの。焼酎はあまり飲まないから」
私が聞けば、美咲はちょっと困ったように眉を下げた。最近は焼酎を飲む若い子も少ないのだろう。
「肉じゃがに合うんじゃないかって言われて」
「水と氷、取ってくる」
「はいはい」
いそいそとお父さんが席を立つのを見て美咲と目を合わせる。そしてその間に、ぼそりと美咲に囁く。
「あんた、彼氏できた?」
まだお父さんには言えない話だ。驚いたように美咲が目を見開き、それから焦ったような声音で「なんで」と小さく口づさむ。
こういうところは子供の頃と変わらない。隠しているのだろうがすぐにボロが出る。
「わかるわよ。その焼酎くれたのもその人なんでしょ」
「……お父さんも気付いたかな」
「あの人は無理ね。そういう細かいところ気付かないから」
そういうと安心したようにへなへなと美咲は机に突っ伏す。長く付き合っていた人と結婚できず落ち込んでいたことを知っているため私とお父さんからはうまく言えなかったが、次の恋が始まっているのなら親としても安心だ。
結婚だけが幸せでないことは重々承知しているが、やはり一つの幸せの形として結婚というものがあることも間違いない。苦労もしているが、私はお父さんと美咲がいて、いまこれだけ幸せなのだから。
押し付けてはいけないと思いながらも、この幸せを味わってほしいとも思う。親心とは難しい。
「いつか紹介しなさいね」
「もう少ししたら。……前向き検討中だからまだ秘密でね」
「わかったわよ」
笑い合う母子の元へ焼酎水割りの一式を持ってきたお父さんがやってきた。囁き合う私たちが不審だったのか、ぐい、と首を捻りながらこちらを見る。その視線にも私と美咲はただ笑うだけで返す。
「私も一杯もらおうかしら」
「珍しいな。焼酎は普段飲まないだろう」
「たまにはいいじゃない。肉じゃがと合わせて飲んでみたいの」
「あ、私も飲む。持ってきたのは私だからね」
やはりお父さんは不思議がっていたが、何も言わずに三人分の水割りを作ってくれた。時折飲むだけあり、その手つきは慣れたものだ。
たまにはいつも違う晩酌もいい。からん、と小さなグラスの中で音を立てる氷を見ながら思った。
「乾杯!」
「乾杯」
もごもごと、お父さんもそう呟いたように見えた。
もし叶うなら、孫がお父さんのナポリタンを食べて「美味しい!」って言ってくれる日までお店を続けていたい。そんな夢は古いかしら。
すっきりした焼酎を飲みながらそんな姿を思い浮かべる。飲み干してから、まあ目の前で今笑っているこの娘が、ただ笑って毎日を過ごしていられるだけで十分だと思い直した。
さて、明日も頑張りましょうか。美味しいものも、食べられたんだし。
娘の笑顔と夫の仏頂面が、私の生きがいなのだから。
今日の我らに乾杯! 妹蟲(いもむし) @imomushi
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