第6話 ナポリタン

 ようやくもらえた休みも眠っているだけで過ぎ去ってしまった。窓の外はオレンジ色から濃紺へと変わり行く最中で、突き刺す茜色の太陽が1日の終わりを告げていた。

 窓にかけている黒エプロンとワイシャツを見て自然とため息が落ちる。今日の内にアイロンをかけてしまいたい。

 寝起きのぼんやりした頭をガリガリとかきむしりながら冷蔵庫を開いた、が、思った通り何もない。昨日の昼に冷蔵庫一掃鍋を行った記憶に嘘はなかった。

 起床してから二度目のため息を吐き出したところでようやく足は洗面台へ向く。ザバザバと顔を洗い、髭を剃り、歯を磨き始めたときにふと名案が浮かんだ。

「たまには飲みに行くか」

 呟いたその言葉は思ったより胸の刺さった。酒はあまり嗜まない質だが嫌いなわけではない。ただ人より弱い自覚がある。弱いお酒でも一杯呑めば顔が熱くなり、胃の辺りがカッカと熱をもつ。それでも酒を飲むことは割りと好きな方なのだ。

 冷蔵庫に張ってあるシフトで明日が遅番であることを確認して口を濯いだ。

 決めた。今日は飲もう。たまには酒を出す側ではなく呑む側になりたい。

 そそくさと服を着替え、家を出る。脳内では最寄り駅周辺にある居酒屋を思い出そうと必死になっていた。



 そもそも外食をする習慣が幼い頃からなかった。実家は街の小さな定食屋をやっており、食事といえば父の作るまかない料理を客に混ざって食べるのが日常だった。母は忙しくその店で働いていたし、九つ上の姉は気がつけばグレて家を出ていっていた。

 街の定食屋というだけあって、父が作る料理は節操無かった。定番のカレーやカツ丼は当然、ハンバーガーやステーキ、八宝菜やエビチリ、もちろん夜のお客様に向けたおつまみ系の冷奴や砂肝等、作れるものはなんでもありな店だった。ありがたいことに多くのお客さんに愛されており、俺としてもそんな両親の店が誇らしかった。

 店に来る客が父の作った料理をうまそうに食い、そして母の笑顔に呼ばれてまた店に来る。その風景がたまらなく好きだった。

 父が倒れてしまい店は残念ながら閉じてしまったが、いつか俺も店を作りたいという夢を持つようになった。それで今のイタリアンレストランに勤めているわけだが。



 ***


 は、と吐き出した息が煙る。想像以上に冷え込んだ空気に一瞬出てきたことを後悔したが、どちらにしても冷蔵庫の中は空だったこと思い出して諦める。

 この前やってきていた姦しい三人組の女性がずいぶん楽しそうにグラスを傾けていたことをぼんやり思い出す。それを見ていて無性に飲みたくなったのだ。

 ポケットの中に手を突っ込んで空を見上げる。準備している内に空はとっぷり夜に沈んでいた。寒空の中にチラチラと星が瞬いている。

 冬の寒さは嫌いだが、ピンと引き締まった冬の空気は昔から好きだ。のんびり歩きながらせっかくなら暖かいものが食べたい気もする。

 最寄りの駅に近付くにつれ、人が増えていく。高架下にはお店がずらりと並び、赤提灯のお店やチェーンの居酒屋等にスーツのサラリーマンや大学生が入っていく。

 こうなるとお店選びに力が入る。定番居酒屋も悪くないが、ずっと眠り続けていた胃は炭水化物を求めている。けれどお酒も少しは呑みたい。

「あ」

 ふと、足が止まった。古びた看板には平仮名で『ぼなぺてぃ』と書いてあり、その佇まいになんとなく父の店を思い出す。店の看板の下には『鉄板ナポリタン』と書かれている。

「ナポリタン、ね」

 父の背中が浮かぶ。なんでも作っていた父の店だったが、まかないで一番多かったのがナポリタンだった。

 久しぶりに食べてみたくなった。ガラス戸を開けると、鼻の奥に酸っぱ甘いケチャップの匂いが飛び込んできた。それと同時に暖かい空気が冷えた体を一瞬で包む。

「いらっしゃい、一人かい?」

 元気な声が飛んできた。小柄なおばちゃんが小走りで近付いてくる。小さく頷けば店の奥の小さなテーブル席に案内された。店の中は割と賑わっており、老若男女がビールやワインを片手に楽しそうに声をあげて笑っている。

 示された席に座ると全くタイムロス無く手ぬぐいとお冷を渡される。温かい手ぬぐいが冷えた指先を温める。無意識にほっと息が零れ落ちる。

「何にする?」

「じゃあ、鉄板ナポリタンと……、あとホッピーの白」

「はあい」

 小柄なおばさんがニコニコと注文を送ると大声で奥のキッチンに対し「鉄ナポ!」と声がかかる。それに「おうよ」とキッチンから声が返ってきた。賑やかな店の中に響くその声はあまりにもマッチしていた。

 店の内観も、メニューラインナップも全て違うというのに、両親の店を無性に思い出させた。出されたお冷を口に含みながら、ぼんやりと店の中を見る。来ている客が皆楽しそうに笑い合い、高らかに乾杯を口遊む。雰囲気は違うものの、ここは俺の目指している店に近い。

「お待たせしました、白ホッピーとお通しだよ」

 トン、トン、と目の前に焼酎の入ったグラスとホッピーの瓶が出てきた。目の前に置かれた瓶の装丁に自然と口元が緩む。その横に置かれたのは白い漬物。にこりと笑う小柄なおばさんに、自然と頭が下がる。

 ビールも好きだが、個人的にはビールより香り高いホッピーのが好みだ。アルコール度数もある程度操作できるのも、あまり酒に強くない俺にとっては都合が良い。

 ナポリタンが来る前だが、ナカと呼ばれる焼酎にトポトポと瓶の中のホッピーを注いでいく。注ぎ終えマドラーでかき混ぜれば見た目はどこからどう見てもビールそのものだ。

「いただきます」

 黄金色のその液体に生唾を飲み込みつつ、ちびりと口元を付けた。強いホップの香りと独特の苦味が口の中に広がる。最後にふ、と抜けるアルコールの香りが俺は酒を飲んでいると感じさせる。思ったよりも濃いそのアルコール味に、慌ててホッピーを少し注ぎ足す。

 口の中の苦味を軽減させるためにお通しとして置かれた漬物を口に運んだ。ポリ、と心地の良い歯ごたえに口元が緩む。心地よい苦味が流され、優しい酸味に消えていく。

 自然にふぅ、と細く息を吐きだしていた。朝起きてばかり落としたため息とは全く別種の息だ。ざわざわと騒がしい店の中で、ただのんびりとホッピーのグラスを傾け、はじかみのように細かく漬物をかみしめる。それだけで不思議と解放された気持ちになった。

 不意に今自分が働いている店を思い起こす。二駅隣の繁華街の角地、その駅周辺では一等地と呼ばれる場所にある洒落たレストランであり、近くに3店舗ほど兄弟店も出しているこの辺りでは評判のお店だ。

 店のことは好きだ。店の風貌にこだわりも感じるし、出す料理や酒にはここまでかかわってきた自分としても自信を持てる水準だと信じている。だが、何か足りないと感じているのも間違いない。

「お待たせしたね」

 ドン、と重たい音と共に目の前へ鉄板が置かれた。目の前でジュウと焦げた音に胃の奥から胃液が溢れた。空気の中を漂っていた酸っぱ甘いケチャップの香りが鼻へ直接攻撃を仕掛ける。

 美味そう。

 一度飲み込んだはずの生唾が再び溢れてきた。無意識に唇を舐めて今から飛び込んでくるだろうそのナポリタンを迎え入れる準備をする。

 大きめにカットされたソーセージに、色鮮やかな細く千切りされたピーマン。上には目に鮮やかな黄色のコーンがちりばめられている。べったりと赤く染まった麺は通常のパスタより二回りほど太く見えた。

 銀のフォークを取り出してくるくるとフォークへ巻きつける。食欲が赴くまま口の中に勢いよく放り込む。口の周囲が真っ赤になることも厭わず勢いよく押し込めば、口の中にケチャップ特有のべったりとした甘さが広がった。だがその直後、追いかけるトマトの酸味と胡椒の香りが襲いかかる。太目のパスタがケチャップをしっかりと絡みとり、鉄板で焦がされたケチャップはより強い味と香りへ変えていく。

「……ん、ま」

 もぐもぐ、ごくん。

 口の中に残ったその味を嗜みながら、目の前のグラスを手に取りゆっくりと傾ける。ナポリタン特有のべっとりとした甘酸っぱさが、苦味にも似たホッピー特有の味が混ざりあう。麦の爽やかさが下に残る甘さをゆるりと洗い流した。

 ケチャップの甘さとホッピーの苦さは相性がいい。ぐいっと飲み干すそののど越しに自然と目を細くする。

 もう一口ナポリタンを食べる。かみしめて、さらにもう一口。そこにホッピーを流し込む。

 それでようやく一息をつく。脳の中に酸素と酒、そして心地よい何かがじんわりと広がっていく。神経がほどけるような心地よい感覚に全ての筋肉が弛緩する。

「最高……」

 自然に言葉が落ちる。悪いとわかっていながら肩肘を机に乗っける。夕食中にこんなことをしたら母から強い叱責が飛んできたのを思い出す。自然に視線がころころと店の中を動き回る小柄なおばさんに向いた。顔も雰囲気もちっとも似てないのに、どうしてか母の面影が浮かんできた。

 行儀悪くナポリタンを口の中に放り込みながら、浮かんでくる母を思い出す。父が亡くなってからめっきり実家にも帰らなくなってしまった。

「……たまには、帰るか」

 ちびり、とホッピーを飲んでいると妙に感傷的な気持ちになった。

 仕事を辞めてから一回り小さくなってしまった母の背中を思い出す。それを見たくなくて逃げるように飛び出したが、それが正解だったのか今ではわからなくなってしまっていた。

 いつか両親のような店を作りたい。

 毎日時間を忘れるほど働き、ただ飲み込むだけの食事をこなし、働く意味すら見いだせない日々。いつの間にこうなってしまっていたのだろう。

 胸の奥がキュウと痛くなる。軽く俯いた瞬間、薄い涙が瞳の裾に寄る。酒はよくない。感情もなにもかもぐしゃぐしゃにする。

「……お替りはどうだい」

 ふ、と声をかけられた。顔をあげれば笑顔の小柄なおばさんがこちらを見ていた。おそらく不可思議な俺の様子も気付いているだろうに、そして半分以上残っているコップのグラスを残っているだろうに、そうやって声をかけた。

 ナポリタンは、半分以上なくなっていた。

「……おつまみ、追加していいですか」

「当たり前だろう。何にするんだい?」

 嬉しそうに笑うその顔に、自然と頬が緩んだ。良い店だ、間違いなくそう思った。

「じゃあおばさんのおすすめで」

「そうだね、ホッピーならクリームコロッケがいいね。うちのコロッケは隠れ名物だよ」

 小さく頷けば、同じようにそのおばさんはそれを返してくれる。くすぐったいような心地にポッピーを強引に煽った。

 コロッケをのんびり待ちながら、もう一口ナポリタンを口に運ぶ。

 一度帰ろう。そして、もう一度夢を見よう。

 口の中に広がる甘酸っぱさに心が決まる。それと同時に、今日はもう少し飲んでみようかと思った。だから頑張ろう。今でも出来るこおとはたくさんある。

 明日の自分のために、乾杯。

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