閑 話 日輪の始点

 旅はよいものだ。己の肉体一つ分の大きさが分かるから。



 眠れない夜は、えて身体を寒さに晒す。頭を冷やせば悩みがどこかに行くとでも思っているのだろうか。自分自身でもその理由はよく分からなかった。既に習慣となっていたから、彼は今日もそうすることに決めた。泊まる安宿の戸をそっと開け、宿から少し離れた丘まで歩く。空には暗幕あんまくが降りて久しく、雲もない高い天井には無数の輝きがあった。それらをしたがえるように、鋭く光る三日月が堂々と鎮座しているのを見て、彼の眼差しは幾分か柔らかくなった。夜風が髪を撫でる。耳に冷たい口づけをして去っていく。行きがけに重いものを少しずつ、持ち去って。


 見晴らしのよい丘に生える、あの大きな木の根元にしよう。彼は特等席に陣取じんどると、青いあおい月を見上げた。

「陽が沈み、月が……」

 何度もそばで聴いた琴の音を思い出す。うたう声を真似してみようと思うも、それが如何いかに難しいかはよいの冷えより身にみるものだった。しばらく思案した後、がらにもないことをと、誰もいない空につぶやいた。

 夜と月明かりは、秘密の巻物である。描いたものは自身にしか見えず、その星の結びは記憶を呼び覚ますよすがとなる。それは彼のあふれる感情を纏めるのに大きく役立った。様々な思いを自身に見やすいように並べ、一つ一つ整理する。自分のこと、女のこと、後にした古都こと。それら絡まった糸が少しずつほぐれ、あるべき姿に戻ろうとしている。

 その間聞こえる音と言えば、風の渡る音のみだった。旅を始めてからずっと、寒さは増すばかりだ。ながらく一人でいたから、それには慣れていたはずだった。しかし今日は一段と寒い。最早耐えられなくなったのではないかとさえ思う。しかしその理由が何故なのか、彼はまだ知らない。いや、知る日が来るのかも定かではない。

 本格的に辛くなってきたところで、思考を切り上げることにした。糸は夜風に吹かれ再びちぢこまり、以前ほどではないにしろ、また少しずつ絡み合う。それでもよいと彼は思った。そうしていれば、またこの時間に再会できるのだから。宿に戻る足取りは、月と星々に見守られて軽やかだった。


 戸をくぐると、温かくも停滞した空間があった。それを裂くように、静かに彼は歩いた。次第に外気の冷たさを忘れ、緩やかに微睡まどろみの世界へと近づいていくのが手に取るように分かる。そしてまた戸を一枚、慎重に開ける。自室――と言っても、そこはただ簡素な寝台と机が一組あるだけであったが、しかしそれを使う者はいなかった。女は、冷たい床の上に布を一枚だけ被り寝ている。一つの部屋しか取れぬ故、女にはせめて寝る場所くらいは渡そうと提案したのだが、琴弾きはがんとして首を振らなかった。曰く、あなたさまより高い位置では寝られませんと。結局寝台は使われず、二人は離れて床に横臥おうがするのが常であった。

 月明りで薄ぼんやりとした空間において、女には昼間のりんとした雰囲気はなく、代わりに弛緩しかんした頬が幸福をかたどっているようだった。その光景を黙ってしばらく見つめた後、彼は急にこれ以上見ていられなくなり、自身の寝場所に戻ることにした。布は彼を歓迎する熱を持たなかったが、気にせず眠りについた。


 朝告げの鳥の代わりに人が鳴る。

 この村は有名な詩詠いの多く生まれた場所であった。彼らにとって詩は神聖かつ身近なものであり、村を音色で満たす文化が醸成じょうせいされていた。その喜びを享受きょうじゅするかのように、高らかに人々が詠う。鳥もそれを好いているようで、さえずりの声が人の声に呼応するかのように、重なり合って美しく響いていた。

 昨夜の月明りとこの音楽のおかげか、彼はすんなりと起床することができた。その刻限こくげんはおそらく普段よりも少し早いのだろう。普段は女の方が早起きの筈だったが、今日はまだ起きていないようだった。珍しいこともあるものだと、その状況をしばし楽しむことにした。窓際に寄り、外をながめる。空は雲一つなく、陽は冷え切った大地を温めんと輝いていた。


 それからしばらく時間が経った。琴弾きは一向に起きる気配がない。外では人の営みが賑やかになっているというのに。流石に心配になった彼は、一抹いちまつの罪悪感を胸に溜めながら女のもとへ近づいた。

「朝だ」

 彼はあまり顔をのぞき込まずに声を掛けた。返事はない。しかし、わずかに聞こえる寝息が最悪な事態ではないことを示していた。

 最近具合が悪いという風でもなかったと記憶している。彼はどうしようかと、顎に手を添えた。いっそ今日は出るのをやめようか、とも思う。絶えず移動を繰り返していたので、女の身には負担が強かったのかもしれない。どこか超然とした振る舞いを崩さないが、琴弾きは琴弾きである以前に一人の女性である。そこに思案が及ばなかったことを彼は恥じた。

 やはり琴弾きは寝台を使うべきだ。床よりは幾分いくぶんかよかろう。少し気が引けたが、彼は女を抱え移動させることにした。その為に近づくと、麝香じゃこうのような匂いが微かにする。その甘い香りは彼を落ち着かせる一方で、何となく罪悪感をも立ち上らせた。それを振り払うようにかぶりを振り、琴弾きに向き直った。

 首の下を通して肩を、膝の裏を通して脚をそれぞれ掴み、ゆっくりと持ち上げる。女に遠慮して抱えやすい方法を取れなかったが、幸いにして想像より軽く、彼の筋肉は苦難にきしむことはなかった。このような不格好な運び方でも、構わないと彼は思った。

 壊れやすい宝石を運ぶように、彼は動きに気を遣った。そしてようやく女を目的の場所に寝かせたとき、長く静かな溜め息が一つ漏れた。その報酬と言い訳をしながら、彼は琴弾きの顔をちらりと覗く。やはりいつもの気品ある表情はどこへやら、夢で楽しいこともあるのだろうか、女は微笑むような表情でそこにいた。

「ん……ぅゆ……」

 暫くして、ふいに女が目を覚ました。薄く開かれた金色が彼をゆるく捉える。

「あっ……」

 彼はとっさに顔を背けた。

「お……起きたか」

 何事もなかったかのように振舞おうとするも、かえって不自然な動きになってしまうとは分かっていながら、そうせずにはいられなかった。顔が熱を帯びているのが分かる。

「ん……ぉき……うぅ……」

 まだ意識の定まらない様子で、琴弾きがおぼろな視線を返す。普段とは何もかもが違う光景に、彼の思考の糸はいくつもの塊となって解けなくなった。

「もちょっと……ねむ……」

 とまで言いかけ、言葉が途切れた。女の意識がようやく覚醒したようだ。金色が徐々に大きくなる。それに伴って、琴弾きの顔は赤みを増していく。

「あの! いや! これは……!」

 勢いよく半身を跳ね起し、琴弾きは焦り一色の声を上げた。

「あ、お、俺は何も……」

 彼はこの場から消えてしまいたいという思いでいっぱいだった。しかしそれ以上に女がそうであったようだ。顔を洗ってきますとだけ小声で言うと、早足で部屋から出て行ってしまった。

 次に顔を合わせるとき、どうしようかと彼は悩んだ。このことはなかったことにしてしまうべきか、一度だけ触れてお互い忘れてしまうべきか。確認することすら気まずい問題である。頭を抱えていると、少し遠くから聴きなれた琴の音がする。それは日常の始まりであり、落ち着いた音色が彼の複雑な思考を調律ちょうりつしてくれるのである――。



「もうお昼でございます」

 その優しい声で彼は目覚めた。傍らには見慣れた顔が、琴を鳴らして彼を人の世界へ誘う。

「ああ……ああ?」

 寝起きであることとは全く関わりなく、彼は混乱した。さっきの光景は何だったのか。果たして夢であったか現であったか、その判別のつかない謎に、まばたきを繰り返すことしか出来なかった。

「長旅でお疲れになったのでしょう。今日はここに留まりましょうか? 幸いにして一泊分の余裕はございます」

 琴弾きは恭しく問いかける。

「……いや、出よう。お前が準備万端なら」

 彼は敢えて緩慢かんまんな動作で起き上がり、事も無げに言った。女が肯定の意を示すと、彼は不自然なほどにゆっくりと、部屋の戸を目指す。琴弾きがそれに続いた。

 途中で急に忘れ物をしたような仕草をしながら、彼は寝台に近づいてみた。敷き布にはしわが寄り、微かに香の匂いがする。分かったことはそれだけである。

「どうかなさいましたか?」

 既に戸に手をかけていた女が振り向き尋ねた。彼は何でもない、とだけ返し、宿を後にした。


 旅はよいものだ。

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コトなる月にコトはなく Karappo @Karappotei

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