閑 話 日輪の始点
旅はよいものだ。己の肉体一つ分の大きさが分かるから。
眠れない夜は、
見晴らしのよい丘に生える、あの大きな木の根元にしよう。彼は特等席に
「陽が沈み、月が……」
何度もそばで聴いた琴の音を思い出す。
夜と月明かりは、秘密の巻物である。描いたものは自身にしか見えず、その星の結びは記憶を呼び覚ます
その間聞こえる音と言えば、風の渡る音のみだった。旅を始めてからずっと、寒さは増すばかりだ。
本格的に辛くなってきたところで、思考を切り上げることにした。糸は夜風に吹かれ再び
戸を
月明りで薄ぼんやりとした空間において、女には昼間の
朝告げの鳥の代わりに人が鳴る。
この村は有名な詩詠いの多く生まれた場所であった。彼らにとって詩は神聖かつ身近なものであり、村を音色で満たす文化が
昨夜の月明りとこの音楽のおかげか、彼はすんなりと起床することができた。その
それからしばらく時間が経った。琴弾きは一向に起きる気配がない。外では人の営みが賑やかになっているというのに。流石に心配になった彼は、
「朝だ」
彼はあまり顔を
最近具合が悪いという風でもなかったと記憶している。彼はどうしようかと、顎に手を添えた。いっそ今日は出るのをやめようか、とも思う。絶えず移動を繰り返していたので、女の身には負担が強かったのかもしれない。どこか超然とした振る舞いを崩さないが、琴弾きは琴弾きである以前に一人の女性である。そこに思案が及ばなかったことを彼は恥じた。
やはり琴弾きは寝台を使うべきだ。床よりは
首の下を通して肩を、膝の裏を通して脚をそれぞれ掴み、ゆっくりと持ち上げる。女に遠慮して抱えやすい方法を取れなかったが、幸いにして想像より軽く、彼の筋肉は苦難に
壊れやすい宝石を運ぶように、彼は動きに気を遣った。そしてようやく女を目的の場所に寝かせたとき、長く静かな溜め息が一つ漏れた。その報酬と言い訳をしながら、彼は琴弾きの顔をちらりと覗く。やはりいつもの気品ある表情はどこへやら、夢で楽しいこともあるのだろうか、女は微笑むような表情でそこにいた。
「ん……ぅゆ……」
暫くして、ふいに女が目を覚ました。薄く開かれた金色が彼をゆるく捉える。
「あっ……」
彼はとっさに顔を背けた。
「お……起きたか」
何事もなかったかのように振舞おうとするも、かえって不自然な動きになってしまうとは分かっていながら、そうせずにはいられなかった。顔が熱を帯びているのが分かる。
「ん……ぉき……うぅ……」
まだ意識の定まらない様子で、琴弾きが
「もちょっと……ねむ……」
とまで言いかけ、言葉が途切れた。女の意識がようやく覚醒したようだ。金色が徐々に大きくなる。それに伴って、琴弾きの顔は赤みを増していく。
「あの! いや! これは……!」
勢いよく半身を跳ね起し、琴弾きは焦り一色の声を上げた。
「あ、お、俺は何も……」
彼はこの場から消えてしまいたいという思いでいっぱいだった。しかしそれ以上に女がそうであったようだ。顔を洗ってきますとだけ小声で言うと、早足で部屋から出て行ってしまった。
次に顔を合わせるとき、どうしようかと彼は悩んだ。このことはなかったことにしてしまうべきか、一度だけ触れてお互い忘れてしまうべきか。確認することすら気まずい問題である。頭を抱えていると、少し遠くから聴きなれた琴の音がする。それは日常の始まりであり、落ち着いた音色が彼の複雑な思考を
「もうお昼でございます」
その優しい声で彼は目覚めた。傍らには見慣れた顔が、琴を鳴らして彼を人の世界へ誘う。
「ああ……ああ?」
寝起きであることとは全く関わりなく、彼は混乱した。さっきの光景は何だったのか。果たして夢であったか現であったか、その判別のつかない謎に、
「長旅でお疲れになったのでしょう。今日はここに留まりましょうか? 幸いにして一泊分の余裕はございます」
琴弾きは恭しく問いかける。
「……いや、出よう。お前が準備万端なら」
彼は敢えて
途中で急に忘れ物をしたような仕草をしながら、彼は寝台に近づいてみた。敷き布には
「どうかなさいましたか?」
既に戸に手をかけていた女が振り向き尋ねた。彼は何でもない、とだけ返し、宿を後にした。
旅はよいものだ。
コトなる月にコトはなく Karappo @Karappotei
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