心霊スポットは蜜の味

ビジョン

心霊スポットは蜜の味

 暗く鬱蒼と木が生い茂った禄に舗装もされていない山道に、私の運転する軽自動車の駆動音だけが響き渡る。


 時刻は丁度夜中の十二時を回った所。細く曲がりくねった山道には街灯の類も当然なく、車のライトだけが頼りなく一寸先を照らしている。既に最寄りの民家を通り過ぎてから久しい。途中に打ち捨てられ朽ち果てた小さな倉庫のような建物があった以外は人工物を見ていない。


 季節は8月の夏真っ盛りだというのに、どことなく底冷えのする空気が車内に漂っていた。車のフロントガラスも特にジメついていない筈なのに、微かな曇りを帯びていた。


 車内には運転している私1人。他に人はいない。ラジオも付けずに無音の車内で、目的地を示すナビだけが作動していた。徐々に高まってくる動悸。思わずラジオを付けたくなる衝動に駆られるが、すんでの所で堪える。


 こんなものはまだ序の口・・・。これからが本番・・なのだから、こんな段階で尻込みしているようでは先が思いやられる。


 私は自分を鼓舞するようにふうっと一息付くと、後は何も考えずに車を走らせる事に集中する。

 




 そんな山道をどれ位走っただろうか。私は目的の場所に到着していた。


 鬱蒼とした山中にポツンと開けた……いや、かつては人工的に開かれていた場所。その中央に巨大な建造物が鎮座していた。


 昔、気の触れた人間を精神病患者として隔離しておく施設であった場所。ここに収容された患者は、現在の倫理観では考えられないような扱いを受け、中にはここで命を落とした患者もいたという。やがて時代の移り変わりと共に病院は閉鎖されたが、とある人物が借金をしてここを買い取り、ホテルへと改装した。


 しかしオープン当初から従業員の怪我や事故が相次ぎ、シェフが謎の飛び降り自殺を遂げた事で、かつてここで命を落とした精神病患者達の呪いではないか、という噂が立ち始める。


 更に追い打ちを掛けるように、宿泊客のカップルが痴情の縺れから部屋で無理心中をした事で、従業員は全員逃げるように辞めていった。残されたオーナーは絶望の余り、支配人室で首吊り自殺した。


 その後はいわく付きの物件として買い手も付かないまま、土地も建物も朽ち果て、荒れ放題となっていた。





「…………」


 私は車のエンジンを切って外に出る。完全な静寂が辺りを支配する。虫の声も聞こえない。いわゆる草木も眠る、という奴だ。私のやや荒い息遣いだけが周囲の闇に溶け込んでいく。少なくとも女が1人で来るような場所ではない。


 持ってきた懐中電灯を点ける。頼りなく弱々しい光が私の前方のみを照らす。建物を見上げた。無数のひび割れや塗装の剥がれ。壁面にはツタが不気味に這っていた。


 建物の周囲には雑草が伸び放題となっており、建物を侵食し始めている。玄関のドアや窓も殆どが壊れて、通り抜け自体は容易に出来そうである。そう……物理的・・・には。では、心理的・・・にはどうか――



 壊れた隙間から黒々と口を開ける玄関ドア。その奥は懐中電灯の光などでは到底見通せない、漆黒の闇がわだかまっている。今にもその闇の奥から誰かが……或いは何かが・・・顔を覗かせそうな錯覚に陥る。


「……ッ!」


 私は頭を振ってその錯覚を振り払う。これから、あの中に1人で入って・・・・・・・・・いかなくてはならないのだ。私は必死で気持ちを落ち着ける。


 私は車の中からハンディカメラを取り出して録画モードにすると、車の屋根の上にカメラを置いて、自分を映し出す位置に調節する。


 今、カメラには白いタンクトップとジーンズのホットパンツ、丈の短いソックスにスニーカーという姿の若い女が映っているはずだ。容姿は人並み以上と自負している。


「えー……皆さん、こんばんわ。舞美です。私は今、G県の山奥にあるホテルSランドに来ています。そう、カップルの無理心中やオーナーの首吊りがあった事で有名な、あのホテルです」


 私はここで一旦言葉を区切る。


「今日はこのホテルSランドを私、舞美が隅々まで探索していきたいと思います。過去に肝試しに来た人達も様々な怪現象に遭遇していると言われるこのいわく付きの心霊スポット、今晩は何が起きるのでしょうか?」


 私は車の上のカメラを手に取ると、ゆっくりと周囲を映し出す。闇の中に浮かぶ朽ち果てた大きな建物。人っ子一人いない鬱蒼とした森。私はカメラで自分以外に誰もいない事を証明すると、遂に廃墟へと足を踏み出した。





 切欠は些細な事だった。田舎の親戚の通夜に出席する為、車のナビに任せきりで進んでいた所どんどん人気のない山道に誘導され、やがて地元では有名ないわゆる「化けトン」を通る羽目になった。のだが、何とそのタイミングで車のタイヤがパンク。折悪く携帯も充電切れで連絡が出来ず、不気味なトンネルを徒歩で通過するしかなくなった。


 夜、人っ子一人いない山奥の不気味なトンネルを女1人で歩く……。余りの心細さと、今にも闇の中から幽霊や化け物でも出てくるのではないかという恐怖は、私の心に鮮烈な衝撃をもたらした。


 中身のない虚飾に満ちた友人関係。顔や身体目当てに言い寄ってくる馬鹿な男達。大学に入っても、高校までと全く変わり映えしない環境に私は飽き飽きしていた。何か刺激が欲しかった。そう思っていた矢先の出来事だった。その日から私は心霊スポット巡りに嵌り込んだ。





 私は廃墟に向かって歩く自分の姿を自撮りする。こんな真夜中の山奥の廃墟には不似合いな、無防備な薄着姿の若い女。そしてカメラ以外には、予備の懐中電灯と水の入ったペットボトル、ポケットティッシュのみ。護身用品の一つも携帯していない丸腰だ。更にスマホと鍵も車の中に置きっぱなしで、緊急時の連絡手段すらない。 


 それらの事実を再認識すると、私の中にえも云われぬ怪しい快感が湧き上がった。身体の芯から熱くなってくるようなこの感じ……これは激しい自慰行為でたかぶりを覚えている時と同様の感覚だ。私は変な嬌声を上げそうになるのを堪えた。


 まだだ。

 まだこれからがもっと激しい・・・のだから、今は我慢の時だ。




 最初・・は慣れていない事もあり、やはり恐怖心が先立つので、入念に準備を重ねた。心霊以外・・・・のトラブルに備えて、護身用のナイフや催涙スプレー等も携帯していた。後々その時の恐怖を思い出す為にビデオカメラで録画を始めた。


 確かに怖かった。恥ずかしながら失禁してしまいそうになった事もある。しかし慣れとは恐ろしいもので、私は次第にもっと強い刺激を求めるようになっていった。それは或いは自慰行為に、より強い刺激を求める感覚と似ていたかも知れない。


 もっと恐怖を味わうにはどうすれば良いか。私の出した答えは、もっと無防備に、だ。


 自分を護る鎧だった重装備の厚着は、どんどん無防備な薄着になっていった。ナイフやスプレーもいつしか携帯しなくなっていた。


 時を同じくして、軽い気持ちから始めたMytubeでの動画の投稿が、美女(少しこそばゆいが)の単独心霊スポット巡りとして話題を呼び、かなりの再生数を稼ぐまでになっていた。

 

 性的快感に、承認欲求までもが加わった。こうなるともう歯止めが利かなかった。


 もっと。もっと。もっと。もっと――――


 自分の内なる欲求に突き動かされるように、そしてユーザーの要求に応えるように、私の心霊スポット巡りはより過激に、より大胆になっていった。

 




 夜の静寂に、私の息遣いとスニーカーが枯れ草を踏む音だけが響く。ホテルの玄関に到着した。外装は剥げ、半開きになった自動ドアにボロボロの木材のような物が立て掛けられている。


「……玄関に到着しました。自動ドアは……半開きのままで、ここから中に入れそうです」


 実況しながら、開いたままの自動ドアの入り口から中にカメラのライトを向ける。完全なる闇だ。カメラのライトでは精々一寸先程度しか見通せない。だが……だからこそ・・・・・良いのだ。私は胸の動悸と共に、股間まで疼いてくるのを感じた。ゴクリと喉が鳴る。


「では、いよいよ入っていきたいと思います……」


 ライトの僅かな明かりを頼りに慎重に中へと入っていく。瓦礫やゴミなどが散乱している為、足元にも最新の注意を払う。玄関を抜けるとすぐにロビーと思われる広いスペースに出た。ライトでロビーを照らしていく。


「ここはロビーのようですね。壁の内装は無残に剥げ落ちて、建材がむき出しになっています……。あれは、落書きでしょうか? 至る所にありますね……」


 ライトを移動させていく。ボロボロになった窓枠が映る。当然ガラスなどは割れて、外との隔たりは無くなっている。外で伸び放題の雑草が窓枠越しに映し出されていく。と、その時、ライトの端に何か、雑草とは違う物が映った。


「ッ!?」


 私は慌ててライトを向けた。しかしそこにはただ雑草が映っているだけで、特に変わった物も無かった。気のせいだったのだろうか……。


「い、今、窓の所に何かいたような気がしたんですが……わ、私の気のせいだったみたいです……。帰ったら映像を確認しないといけませんね……」


 帰ったら……。その言葉を口にした瞬間私は猛烈な恐怖に襲われ、このまま何もかも放り出して一目散に車まで駆け戻りたい衝動に駆られた。


 怖い!

 こんな所に、こんな時間に、こんな格好で、1人で――!?


 そこまで思った時、再び私の中にあの妖しい快感の昂りが湧き起こる。身も凍るような恐怖と隣り合わせの、身を焦がす快感。



 これだ。これが私の求めている「もの」なんだ――!



 思わずイってしまいそうになる衝動を堪えながら、私は気を取り直して探索を続行する。ロビーから2階に続く階段を見つけた私は、躊躇いながらも階段を昇っていく。階段を昇れば2階……つまり「緊急時」に窓枠を乗り越えて外に脱出したりも出来ない……袋小路に入っていく感覚だ。私の胸の高鳴りは強まっていく。


「階段がありました。2階へと続いているようです……。2階はどのようになっているのでしょうか……? 行ってみたいと思います」


 階段は丈夫な造りになっているので、老朽化していても特に問題はなさそうだ。ただし真っ暗でライトの明かりのみが頼りの状況なので、足を踏み外さないように慎重に昇っていく。


 2階は客室になっているようだ。長い廊下の左右にドアが並んでいる。しかし半分くらいのドアは壊れて、立て付けが外れている状態のようだ。廊下の奥は暗くて見通せない。私はまるで闇の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。


「2階に到着しました。長い廊下に部屋がいくつも並んでいますね……。殆どの部屋はドアが壊れて中に入れそうです。そこの手前の部屋に入ってみます……」


 壊れたドアを慎重に避けて客室に入る。中はやはり荒れ放題だ。ベッドには古ぼけたマットレスが置きっぱなしになっている。私は何気なく部屋の窓にライトを向け――


「――っぁ!?」


 変な声が出た。一瞬何か影のようなものが映ったのだ。咄嗟にもう一度窓にライトを向けると、そこにはただ闇とその中に浮かび上がる森の木だけが映っていた。


「は……! は……! ふっ……!」


 呼吸が乱れる。心臓が胸の奥で狂ったように暴れていた。今のは気のせい……なのだろうか? ロビーの時よりもずっと大きな影に見えた。丁度、人間大の何かがそこに立っていた位の大きさで……。


「……ッ!」

 私は馬鹿な考えを振り払う。だってそうだろう? ここは2階・・だ。階段の高さも結構なものだったし、今照らしてみた所、足を掛けられるような場所も無い。つまり、そこに人が立てるはずがない・・・・・・・・・・のだ。


(だ……だったら、何だって言うのよ? まさか、ホントに……? そ、そんなはずないわ! い、今のは森の木がライトに当たった影を見間違えたのよ、うん!)


 私は頭に浮かび上がりそうになる単語を必死に否定する。そして気を取り直すように実況を再開する。


「い、今、また何かカメラに映り込んだ気がしましたが……森の木の影を見間違えただけみたいです、あはは……」


 実況の声もどこか引きつり気味になっていたが、それを気にしている余裕は無かった。恐怖の余り駆け出しそうになる足を必死で抑えて、私は探索を続ける。


 廊下に出ると、奥へと進んでいく。2階の奥には……オーナーが首吊りをしたという、いわく付きの支配人室があるのだ。カップルが無理心中をしたという部屋は何号室か解らないので、とりあえず支配人室が目的地だ。


 廊下の突き当りに他の客室よりも重厚なドアの部屋があった。ここだ。ここが件の支配人室だ。ゴクリと再び喉が鳴る。ドアの取っ手に手を掛け、引いてみる。


 ガチッと何かに当たる感じがしてそれ以上引けない。試しに今度は押してみる。やはり動かない。どうやら施錠されているようだ。


(まあ、そうよね……)


「……ここが例の支配人室ですが、どうやら施錠されているようです。残念ですが仕方ないですね。他の所を――」




 ――カタンッ



 

「ひぅっ!?」


 私は録画中にも関わらず押し殺した悲鳴を上げてしまう。今……何か倒れるような音がした。確実に空耳ではない。間違いなく音がした。微かな音……恐らく1階からだ。


「はぅ……あ……! かはっ……!」


 私は恐怖の余り過呼吸気味になってしまう。心臓は暴れすぎて口から飛び出そうな勢いだ。帰る為には1階に降りなくてはならない。


 嫌だ、降りたくない……! 


 このままどこかの部屋に籠って、夜が明けるまでうずくまっていたい衝動が私を襲う。腕時計をライトで照らす。まだ夜中の1時を過ぎたばかりだ。夜が明けるには相当の時間が掛かる。


(お、落ち着け、落ち着くのよ、私……。今のは風で軽い物が倒れた音よ。それか私が歩いてきた時に何かにぶつかっていて、それが今になって倒れたんだ。そうに決まってる……)


 外も建物の中も全く風など吹いていなかったし、足を取られないように慎重に歩いてきたのだが、それらの事実を意図的に意識の外へ追いやる。三度唾を飲み込む。


「さ、先程1階から……な、何か倒れるような音がしましたけど……皆さんには聞こえましたか……?」


 未来のユーザー達に向かって実況する。実況した以上、私は1階に戻らなくてはならない。そうやって自分の退路を断つ。自分に言い訳をしながら私は……かつてない程の内なる昂りと疼きを覚えていた。


「……ッ」

 股間が濡れる感触。今頃下着には、くっきりとしたシミが出来ている事だろう。下に戻らねばならないと自分を追い込んだ事で、軽く絶頂してしまったようだ。


 録画中という事もあって、妖しく乱れそうになる呼吸を懸命に整え、絶頂の余韻で力の抜ける足を必死で踏ん張る。


「……今の音を確かめる為に、1階に戻りたいと思います。ただの空耳だといいんですけど……」


 空耳ではなかったら、だと言うのだ。私は馬鹿な考えを振り払って、階段へと戻っていく。


 階段から見下ろすロビーは闇に包まれ、ライトの明かりだけでは全く見通す事ができない。闇に向かって降りていくという行為は、それだけで恐怖と不安を煽る。私はつい先程軽く絶頂したにも関わらず、再びの昂りを感じていた。


「……1階に着きました。このまま1階をもう少し詳しく探索してみたいと思います」


 フロント。大浴場。従業員用の休憩室。談話室。食堂。そして厨房。暗闇に光るライトの中に、今にも何か・・が出現するのではないか、という恐怖と懸命に戦いながら、順繰りに慎重に見回っていく。どこもロビーと同じように荒れ果てていた。これだけ荒れていると、結局音の正体は何だったのかを掴むのは難しいだろう。


 諦めてロビーに戻ろうとした時、私はふとスタッフ用の休憩室の奥に小さな扉があるのを見つけた。引き戸になっているようだ。


「おや、何でしょう? 部屋の奥に引き戸があります。開くか試してみましょう」


 もし支配人室と同じように施錠されていれば素直に諦める。そう思って戸に手を掛けたが、引き戸はすんなりと横に開いた。

 中にライトを向けると、小さなスペースしかない部屋だと解った。しかしその部屋には……


「こ、これは……螺旋階段、でしょうか? 下に向かって続いているようですが……」


 そう言えばこのホテルにまつわる話として、まだ精神病院だった頃に隔離患者を使っての、様々な非道な実験や手術が行われていた、というものがある。非道な実験によって、その秘密の手術室で多くの人間が命を落としたと言われている。


 この螺旋階段は地下へと続いているようだ。こんな奥まった場所に地下室を作る理由……


(……てっきり眉唾だと思ってたけど。まさか実在していたなんて……)


 下の空間には闇が蟠っていて、ライトで照らしても全く見通せない。螺旋階段の下の部分は闇に溶け込んでいる。ここを降りて行ったら二度と地上に戻ってこれないのではないか……まるで地獄への階段が口を開けているかのような錯覚を覚えた。


(でも……ここまで来たんだもの。降りるしかないわよね……)


 ゴクッと喉が鳴る。これで四度目だ。胸の高鳴りは最高潮に達していた。それは恐怖によるものだったか、或いは性的興奮によるものだったか……。自分でも判然としないまま、私は螺旋階段を降りる決心をした。


「これはもしかして噂の手術室へと繋がる階段、なのでしょうか……? 今から降りて確かめに行きたいと思います……」


 慎重にライトで足元を照らしながら、一段一段ゆっくりと階段を降っていく。螺旋階段の幅は狭く傾斜も割と急なので、足を踏み外さないように注意する。


 一段降りる毎に闇が濃くなり、ひんやりとした空気が増してくる感じがした。私は本当に死者の国への階段を降りているのではないか、と半ば本気で考えていた。



 しかしそんな黄泉の階段にも、やがて終わりが訪れた。床を踏む感触。地下室へと到着したのだ。私はライトで辺りを見渡す。部屋の広さは……10畳ほどだろうか。それほど広くない。というより窓の一つも無い地下室の事、むしろ狭苦しく圧迫感を覚えた。


 特に手術台や器具などが置かれていたりはしないようだ。まあそれはそうだろう。噂が事実だったとしても、何十年も前の話だし、ホテルに改装される際に人の手が入っているはずだ。


 しかしこの場所で多くの人が怨嗟と共に命を落としたのかも知れないと考えると、何とも言えない不気味さに怖気が走るのを感じた。


「噂の手術室と思しき部屋に到達しましたが……どうやら何もないがらんどうの部屋ですね……。本当にここで多くの人々が命を落としたのでしょうか……?」


 ライトで照らしながら少し部屋を見て回る。何か残っているかも知れないと思ったのだ。そうして何気なくライトで壁の一角を照らした時だった。


「ひっ!!」


 壁から突き出すように何か・・が私を見ていた! 一瞬なので良く解らなかったが、長い髪が生えた青白い顔のような……


 慌ててライトを向け直すが、やはりそこにはただ壁があるだけだった。


「は……! はっ……! ぐ……! あ……」


 今のも……今のも気のせいだと言うのだろうか!? 私の恐怖心が生み出した幻覚だと……! 


(いや、違う! 今のは……あれは確かにそこにあった! そこに居た!)


「い、今……今、壁に人の顔のようなものが――」




 ――バタンッ!




「ぎゃあっ!」


 私は恥も外聞も無く、無様な悲鳴を上げて腰を抜かす。音が……先程のような微かな音ではない、大きな音が響いたのだ。今のが空耳などという事はあり得ない。今のは扉が……それも引き戸が閉まったような音だった。私の脳裏に、この螺旋階段のある小部屋へと繋がる引き戸が浮かんだ。今私がいる部屋のすぐ真上だ。


(何か……それとも誰かがいる!?)


 私は自分の考えにゾッとした。そして自分の無防備な格好と、護身用品も携帯していない丸腰である事実が、急に重く圧し掛かってくる。私は激しく後悔した。せめてナイフの一つでも持っていれば、心理的な安心感は全然違ったはずだ。恐怖で身体を掻き抱くが、限りなく肌を露出した無防備な格好では、却って心細さが増すだけだ。


 この無防備さを快感に変えて楽しむ為に、自分でそうしたのだから救えない。


(馬鹿だ……! 私は大馬鹿だ……!)


 自分からスリルを求めてきた癖に、本当に危険な事など起きるはずがないと、心のどこかで高を括っていた。その結果が今現在の自分の体たらくという訳だ。


(もういや……。帰りたい……。家に帰りたいよぉ……)


 1人暮らしをしている、アパートの自分の部屋を思い出す。あそこに無事に帰れるなら何でもする。もう二度とこんな馬鹿な真似はしない。私は神だか仏だか解らない何かに、全力で願った。



 ………………



 私はその場にへたり込んだまま、しばらく動かなかった。私の荒れた息遣いだけが、闇の中に溶け込んでいく。何も……起きない。誰かが螺旋階段を降りてくる様子もない。


「……ふぅー……」


(落ち着け……落ち着け……冷静になるのよ。大丈夫。きっと大丈夫。こんな所に他に誰かいるはずがない。ましてや幽霊なんて存在するはずないわ。今までだって何も起こらなかったんだし……)


 では先程の大きな物音は何だったのか。私は意図的にその事を除外した。都合の悪い事実から目を背けて、必死に自分に言い聞かせた。


 少し気持ちが落ち着いてきたらしく、へたり込んでいた足腰に力が入るようになってきた。そうなると現金なもので、私の中に再び妖しい昂りが湧き起こる。いや、実際には先程恐怖に震えている間にも、凄まじいまでの快感が私の身体を突き抜けていたのだ。


 私は自分でも知らない内に絶頂していた。もう下着はグショグショだ。これを……この快感を忘れる事なんて出来ない……。


 私は先程願った舌の根も乾かぬ内に、この「趣味」の継続を決意していた。


「み、皆さん、お恥ずかしい所をお見せしてしまいました。もう大丈夫です。この部屋には何もない・・・・ようなので、上に戻りたいと思います……」


 ライトで階段を照らすと、慎重に近付いて階段に足を掛ける。板の薄い軋む階段をゆっくりと昇っていく。


 心霊スポットではよくある事だが、同じ距離のはずなのに、行きよりも帰りの方が異常に長く、恐ろしく感じる事がある。もう少しでこの恐ろしい場所から出られるという心理や、奥から何かが追い掛けてくるのではないかという恐怖が、気持ちを急かせ、恐怖を増幅させるのだ。


 その例に漏れず、この螺旋階段の昇りは永遠に続くのではないかと錯覚した程だった。今にも下から、先程ライトの中に浮かび上がった謎の顔が迫ってくるような恐怖に、私の足は何度も崩れそうになった。


 ようやくの思いで階段を昇り切った時、私は疲労困憊していた。しかしヘタってばかりもいられない。少なくとも今回の「探索」はもう充分に「堪能」した。後は一刻も早くここから出たかった。


 引き戸にライトを当てると……閉まっていた。


「――ッ!!」


 私はもう何度目かになる、心臓が飛び出そうになる恐怖に身を震わせた。私はこの引き戸は確かに開けっ放しにしていたはずだ。閉めた記憶はない。


「と、扉が……扉が閉まっています……。私は、閉めていませんよね……? さ、先程の音は、この引き戸が閉まる音だったのでしょうか?」


 何故・・閉まったのかには敢えて言及しない。それを口にしてしまったら、それが現実になりそうな恐怖があった。

 私は慎重に引き戸に手を掛け……思い切って開く!



 ………………



 何も……誰もいない。ただ黒々とした闇が広がっているだけだ。私は再びふぅー……と息を吐く。


「……何もありませんね。どうやら私の勘違いだったようです。これも帰ったら映像を確認して見ないといけませんね。きっと無意識に閉めていたのでしょう」


 自分でも信じていない繰り言を実況する。とにかく後は出口を目指すだけだ。経験上、先程の螺旋階段の昇りと同じく、出口に……いや、車に辿り着くまでが、心理的に最も長く感じる事は解っていたが、それでも行くしかなかった。引き戸の謎は解けていない。もう一秒もこの場所に居たくなかった。


 気が急くままに走り出して、何かに躓いて怪我でもしたら目も当てられない。私はすぐにでも駆け出したくなる自分の足を懸命に抑えて、慎重に足元を照らしながら出口に向かって歩き続けた。


 まるで永遠とも思える時間を歩き続けているような錯覚に陥っていた。途中何度も後ろを振り返った。闇の中から今にも何かが追い縋ってくるのではないかという恐怖は、出口に近付く程に強まった。心臓は胸を突き破りそうな程に暴れ狂っていた。


 そして悠久にも感じられる時が過ぎ……私はようやく出口にまで到達していた。半開きになった自動ドアから外に出る。






「すぅー……はぁー……」


 実際の時間は1時間にも満たない程度だろう。だが体感的には、何日も外の空気を吸っていなかったかのような感じだ。私は思わず深呼吸して、外の空気を思い切り肺に取り込んだ。


 だが安心してもいられない。一息付くのは車に戻ってからだ。ライトで照らすと、車は来た時と同じようにその場所に待機していた。ここからは多少駆け足でも構わない。私は逸る気持ちに任せて車まで駆け戻った。運転席のドアを開けて中に乗り込む。助手席には置いてきた時と同じように、鍵束とスマホがあった。車の鍵をロックした。


「ふぅー…………」


 ここで私はようやく一息付いた。


「……皆さん、ホテルSランドの探索はこれにて終了となります。原因不明の怪現象、確かに起きましたね。今もまだ心臓がドキドキ言ってます。これまでにも増して恐ろしい場所でした。今回はこれで終わりですが、まだまだ探索したい場所は沢山あります。皆さん、今後とも私、舞美と一緒に恐怖を分かち合っていきましょう。それではまた!」


 そして私はカメラの録画モードを終了した。これで本当に一段落だ。


(……それにしてもあの影や音は何だったんだろう。全部私の錯覚だったのかな? でもそんな事あり得るの? それにあの地下室の……)


 あの時の恐怖を思い出した私は身震いすると同時に、身体の芯から突き上げるような昂りを感じた。


「……ッ」

 カメラを切った今、もう遠慮する必要はない。私はホットパンツの中に右手を突っ込んだ。グショグショに濡れた下着の上から、女の部分を指で弄る。左手をタンクトップの中に差し入れ、ブラジャーの上から乳房を揉みしだく。手で揉み上げ、指でこねくり回しながら快感を高めていく。


「く……はぁ……! あ……! あぁ……! ……! っ!! ……ぁ」


 声にならない嬌声を上げながら、私は完全に絶頂していたのだった…………




****




「はぁ……はぁ……ふぅ……」


 突き上げる昂りと疼きを発散させた私は、かつてない程に充足していた。今のは過去最高・・・・だった。これがあるからやめられないのだ。この刺激に勝るものなどない。


 やがて少しずつ気分が落ち着いてきた私は、車を発進させようとして何気なくバックミラーに視線を向けた。


「――――ひっ!?」


 私以外の人間・・・・・・の顔がそこに映っていたのだ。目が何かで隠れている。身体中から一気に血の気が引いた。私は咄嗟に振り向こうとしたが、後部座席に隠れていたらしいそいつも同時に動いた。


「むぐぅ……!?」


 座席ごと身体を抱え込まれ、口に何か布を押し当てられる。何か薬品が染み込んでいるらしく、刺激臭が鼻についた。私は本能的な恐怖から死に物狂いで暴れるが、押さえつける腕はビクともしなかった。この力は男だ。必死に抵抗する私の目が、バックミラーに映る男の顔を捉えた。


(暗視ゴーグル……!?)


 男の目を覆っていたものの正体が判明すると同時に、私の意識は闇に沈んでいった……。






「ん……んん……ッ!?」


 首への圧迫を感じて私は意識を取り戻した。そして現状を認識して青ざめた。


 建物の中……恐らく先程までいた廃墟の中だろう。天井からぶら下げられたロープが私の首に食い込んでいる。私は何か台のようなものの上に立たされているようだ。


 慌てて首のロープを外そうとして、手が動かないのに気付いた。手首に金属の感触と鎖の鳴る音。後ろ手に手錠を掛けられていた。


「んん! んんーー!」


 口にはガムテープを貼られていて、くぐもった呻きしか漏れない。


(何が……何が起きたの!? これは……私、何で!?)


 意味の解らない状況にパニックに陥りかける。と、その時いきなり前方から強いライトの照明が浴びせられる。私の持っていたライトなど比べ物にならない強烈な光で、私は眩しさから思わず目を背けた。


「ふ、ひひ……め、目は覚めたかい、舞美ちゃん?」

「ッ!?」


 照明に目が慣れてきた私にそんな声が掛けられる。姿を現したのは……細い目をした陰気そうな若い男だった。そこで私はようやく全ての記憶を取り戻す。


(こいつ……そうだ! あの暗視ゴーグルの……!)


「き、君は僕の事なんか知らないだろうね。でも僕は君を知っている。同じ大学で君をずっと見て来たんだ……」


 男が半ば独白のような調子で語り掛けてくる。


「あ、あんなチャラいだけの下らない男達に言い寄られてヘラヘラしやがって……! 僕が一番舞美ちゃんの事を理解してるんだ! ……ひひ、だ、だから君のMytubeの投稿にもすぐに気付いたんだ。ぜ、前回の投稿時、次はここに来たいって言ってたよね……? 駄目だよぉ、お馬鹿な舞美ちゃん? そういう事を軽々しく喋っちゃうのは」


「……ッ!」


「ひ、ひ……で、でも暗闇で怖がる君の姿を間近で堪能できたのは役得だったなぁ。窓の外から覗いてやったら、凄く怖がっちゃって可愛かったなぁ! でも君の姿を追うのに夢中で、廃材を倒しちゃった時は君にバレるかと焦ったよ」


「……んん!?」


(こいつ……こいつがあの影や音の正体だったんだ!)


 その事実に拍子抜けした私だが、今はそんな事を気にしている余裕はない。より現実的な危険が私に迫っている。男が私に向かってハンディカメラを構える。私の物とは別のカメラだ。


「こ、これから君の首吊り動画を撮る。それをMytubeにUPするんだ。その後僕も自殺して君の後を追う。どうせ君は僕の物にならないんだ。だ、だからこれが一番いい方法なんだ……」


(く、狂ってる……!)


 私は必死に身体をもがかせるが、自力で手錠が外せる訳もない。鎖が虚しく鳴るだけだった。それどころか足元の台がグラグラと揺れる。


「んん!?」


「ああ、駄目だよ、舞美ちゃん。下手に暴れると台が倒れて、即首吊りだよ? それが嫌なら大人しくしててね?」


「……!!」

 私は硬直する。大人しくなった私の姿を、男がまじまじと見つめてくる。ホットパンツからむき出しの生足や、タンクトップを突き上げている双球に男の視線が這うのを感じた。後ろ手に手錠を掛けられている私は、その視線から逃れる術もなく耐えるしかなかった。


「……ほ、本当に綺麗だ、舞美ちゃん……。だからこそ君は綺麗なまま逝かなくちゃいけないんだ。これ以上、他の男の手垢が付く前に……!」


 狂った理論を振りかざしながら男が近付いてくる。私の足元を支えている台を蹴り倒すつもりだ。


 それを悟った私は再び死に物狂いで暴れようとして…………止まった。台が倒れるのを恐れたのではない。どうせ男が倒すのも、自分が倒すのも同じことだ。そんな事ではなく……私の視線は男の後ろのある一点・・・・に注がれていた。


 設置された照明器具の後ろの闇からボウッと浮かび上がる……長い髪の顔・・・・・のような輪郭。


 それを認めた時、私の脳裏にはある疑問が湧き上がっていた。目の前の男は果たして、足場も無い2階の窓・・・・・・・・・にへばり付く事が出来たのだろうか? そしてあの地下室の壁に浮かび上がり、今また闇の中に姿を現した顔は…………



 ――バキッ!



「……え?」


 男は呆然とした声で……自分の胸に・・・・・突き刺さった梁の先端・・・・・・・・・・を眺めた。それは、私の首に巻かれたロープを吊るしていた梁だった。それが急に折れて下に落ち……丁度私に向かって歩いていた男の胴体に突き刺さったのだ。 


 ゴフッ! と男の口から大量の血液が漏れる。そして信じられない物を見るように私と梁を見比べて……仰向けに倒れた。そして二度と動く事はなかった。


「ん! んんーー!?」


 私の目の前で人が死んだ……。現実の光景とは思えなかった。一瞬闇の中に浮かび上がったあの輪郭のようなものは、既に影も形も無かった。あれは……やはり私の錯覚だったのだろうか?


 梁が折れた事でロープが外れ首吊りから解放された私は、一目散に出口に向かって駆け出した。首に縄は付いたままだし、口のガムテープや後ろ手の手錠もそのままだが、とにかくこの場から離れたくて一心不乱に走り続けた。





「んん! ん……!」


 自分の車まで辿り着いた私は、後ろ手で車のドアを開けて運転席に滑り込む。そして四苦八苦しながら何とか後ろ手の手錠を、身体の前に持ってくる事に成功した。もたつきながらガムテープと首のロープも外す。


「ぷはっ! はぁ……! はぁ……! はぁっ……!!」


 私はハンドルにもたれかかって、荒い息を吐く。精神的、肉体的に疲労困憊していたが、私はすぐさま車のエンジンを掛ける。とにかく一刻も早くここから離れなければならない。後の事は後で考えればいい。


 手錠が掛かったままの両手でサイドブレーキを解除して、車を発進させる。多少不便だがハンドルも動かせる。私は一気にアクセルを踏み込んで、この悪夢の敷地を脱出したのであった……




****




 暗い山道を走りながら、私は状況を整理していた。


 あの男……私と同じ大学だと言っていたが、勿論私は知らなかった。だが私が知らないだけで、恐らく事実なのだろう。あの男が死んだ事と私を結び付ける者がいるだろうか? あの男の持っていたカメラが、既に録画モードになっていたとしたら?


 私は自分のハンディカメラを見る。今日撮った動画はお蔵入りにする他ないのだろうか? 


「いや……駄目よ、そんなの。何であんな男のせいで、私がこそこそ隠れなきゃいけないのよ」


 少なくともあの男の死に関して、私には何の責任も無い。堂々と警察に連絡してやればいいのだ。この手錠だって、私が被害者だという証明になる。


(もしこれで事件になって、あの廃墟が更にいわく付きになったら? 今日の動画は、より希少価値が高まるに違いないわ……!)


 そうなれば再生数はきっとうなぎ登りだ。もしかしたらMytuberとして、広告収入だけで食べていけるようになるかも知れない。


 都合のいい妄想に浸っていた私が丁度、山道のカーブに差し掛かった時だった。ふと背中に悪寒を感じた私は、何気なくバックミラーに視線を向けた。


「――――」


 あの顔がそこにあった。髪の長い、目や口などのはっきりしない曖昧な輪郭。それがバックミラーに映っていたのだ。


「――っぁ!?」


 一瞬の恐怖に心臓を鷲掴みされた私は、思わず身体ごと大きく振り返っていた。何も……いない? そこには誰もいない後部座席があるだけだった。私はふぅっと息を付くと共に……自分が山道のカーブを運転中である事を思い出した。


 慌てて前に向き直った私の視界一杯に、対向から現れたトラックの前面部分が広がった。


「あ…………」


 その間抜けな声が、私が生涯で発した最後の声となった。あの顔に驚いて後ろを振り返った事で、私はカーブの反対から迫る対向車のライトを見過ごしたのだ。いや、或いは…………見過ごさされた・・・・・・・、のか。


 最早知る由もない。全身の骨が砕けるかと思う程の衝撃と同時に、私の身体は車ごとカーブから山の斜面に向かって投げ出され……落下する感覚と共に、私の意識は闇へと沈んでいった。永遠に醒める事のない深い闇の中へと…………

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心霊スポットは蜜の味 ビジョン @picopicoin

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