余談の章
余談肆 届かぬ想い
――――助けてください。
唐突に、何処からともなく聞こえてきた声。声と言っても純粋な空気の振動ではなく、かといって頭の奥から湧き出す幻聴とも異なる、得体の知れないものだ。どのような原理で発せられたものか想像も付かず、故に自らの手では再現すら出来ない。
そんなものを耳にした星縄飛鳥は、しかし動揺や驚きを覚えはしなかった。何故ならその声は聞き覚えがあるものだったから。
情けなくて、必死で、だけど何処か楽しげで。
間違いなく『あの子』の声だと、星縄は確信した。同時にあの子が暮らす土地の方から、途方もなく大きな力が発せられていると気付く。感じられる力の強大さ、更に地中で蠢く『何か』の動きが活性化している事からして、この星の命運を左右する事件が起きているらしい。
そんな大事件の傍に居るのだから、あの子が助けを求めてくるのは必然だ。だというのに何故楽しげなのか? 察するに何かを企んでいて、使命感や絶望もなく好き勝手にやっているのだろう。しかもあれだけ大きな声で叫んだのだから、恐らく色んな『友達』がやってきて、どんちゃん騒ぎになる筈。自分の出る幕などないかも知れない。
だからといって、静観を決め込むつもりなど毛頭なかった。
助けに行きたい。これが星縄の偽らざる気持ちだ。あの子ともそう約束したし、この『事件』が起きる事も予期していた。あの子とのケンカも、この事件に対抗するための計画の一つ。ならばどうして呼ばれたのに駆け付けないなんて真似が出来るのか。
行きたい。何がなんでも、例えこの身が朽ちようとも。
だけど、行けない。
何故なら星縄飛鳥は現在――――人間を丸呑みに出来るぐらい大きなワニの口内に居たのだから。
「ちょ、なんでこのタイミング……あ、駄目駄目駄目これ無理!? ほんと無理ぃ! ヤバいヤバいヤバいぃぃぃぃ!」
インドネシア某所。人の手が入っていない熱帯雨林の川辺にて、星縄は悲鳴染みた声を上げていた。尤も密林の中に響き渡ったその声を聞くのは、月と星だけが輝く真夜中を満喫している夜行性の獣ばかりだが。そして星縄をその口の中に収めているワニも彼女の悲鳴を聞き、喜び勇むようにますます顎の力を増していく。
星縄はワニの上顎を両手で、下顎を両足で押さえるも、背筋は時間が経つほどに少しずつ曲がっていた。腕と足もぷるぷると痙攣するように震え、限界の近さを訴えている。力を込める全身がギチギチと鳴り、文字通り今にも弾けてしまいそうなぐらい筋肉は張っていた。正直そろそろ限界なのだが、ワニをどうこう出来そうな気配すらない有り様。ここで諦めれば一瞬にしてぐっちゃぐちゃの、自然界的には美味しい肉塊に早変わりだ。
本来星縄がその身に宿している力……ミュータントの能力を用いれば、ただのワニに負けるなどあり得ない。このワニは体長十メートル以上という非常識なサイズだが、だとしても種類としてはあくまでイリエワニ。原水爆の直撃を受けようとも傷一つ付かないほど丈夫で、同じくらい頑強な生物に傷を与えるほどの強さがある星縄が負ける道理などありはしない。
そう、相手が普通のワニなら。
ところがどっこい、このワニも同類だったようで。
「(そりゃまぁいてもおかしくないけどねワニのミュータント! というか鱗を擦り合わせて放電するのが能力なのに、なんでこんなに力も強いんだよ!?)」
抱いた疑問を解くべく己が『能力』、ミュータントの能力を模倣する力を発動。このワニが生成した電気を体内に流し、筋肉の動きを補佐しているのだと星縄は理解した。ならばこれを真似れば少しはこの力に迫れるのではないかと、星縄はイリエワニの怪力の原理を再現しようする……が、鱗なんて持たない人間の身ではろくに発電出来ず、流せる電流も僅か。殆どパワーは生まれず、まるで役に立たない。むしろどうでも良い事にエネルギーを使ってしまい、一層追い込まれてしまう。
ミュータントの能力というのは、超能力ではなくあくまで『身体機能』の一つだ。故に肉体の作り次第で能力の強弱、更には性質までもが変化する。星縄の模倣能力は殆どの能力を真似出来る反面、専門化されていない身体であるがために模倣元ほどの力は出せない。そのため能力の手数で勝負するか、或いは人間という『大型動物』の体重差で押し切るのが基本戦略。この巨大イリエワニのような、体重で圧倒的に負けている相手との相性は最悪なのだ。
このままでは一矢報いる事すら出来ずに食べられてしまう。例えこの身が朽ちてもあの子の下に駆け付けようと考えていたが、本当に朽ちては駆け付けられないし、手負いで辿り着いても迷惑を掛けるだけ。どうにか安全に逃げ出さねばならない。
そもそも、何故星縄はこんな目に遭っているのか?
「つまり、お母さんよりあなた達の方が強いのね?」
【ツヨイツヨイ】
【シャベリ、ウマイ】
【カシコイ】
それは星縄のすぐ近くの川岸にて、喋るイリエワニの幼体とお喋りをしている女性――――大桐玲奈の救助に来たのが遠因である。
「玲奈さん! もう無理です! ほんと助けてください! 石投げ付けるでもなんでも良いからコイツの気を惹いて!」
「えー……これからこの子達の噛む力がどんなもんか、測定とかしたかったんだけど」
「計れるような強さじゃないって、この母親の強さを見れば分かるでしょ!? というかなんでコイツ、ボクを襲うんですか!? ボク達に敵意がないって分かるでしょミュータントなら!」
「そういやそうね。ねぇ、なんでお母さんはあの人間を食べようとしてるのかしら。私達、あなた達を襲うつもりなんてないのだけれど」
【エサ】
【エサダ】
【マルカジリ】
「あら大変。私達餌らしいわよー」
「やっぱりそうですよね最初から分かっていましたよこん畜生ォォォォォッ!」
『殺害宣告』をされたのに、どうしてこの人はここまで暢気なのか。というよりちょっとした余波であの世行きのこの状況で、どうして会話が出来るほど傍でニコニコと子供のように笑っていられるのか。
玲奈に対し、ツッコミを入れたいところは山ほどあった。あったが、しても無駄だと星縄は知っている。この元上司は一児の母になったところで、ろくに自重などしやしない。
何しろ根っからの怪物好きなのだから……
「いやぁ、間一髪だったわねぇ。非常食のコンビーフ缶詰で見逃してもらえなかったら、あの世行きだったわ」
「玲奈さんは、ですけどね。あのチビ共から逃げるだけならなんとか出来ます……逃げなかった所為で危うく喰われるところでしたけど。それに花中ちゃんからのメッセージ、既読スルー状態だし」
「だってまさかそんな事になってるとは知らなかったんだもん。でもまぁ、地球が今も無事って事は、花中がなんとかしてくれたって事なのよね?」
「……恐らくは」
「さっすが私の娘ね! 私も人類の危機なら何回か救ったけど、地球を救うなんてスケールが違うわ!」
深夜の森の中。パチパチと火花を飛び散らせる焚き火を囲い、心底嬉しそうに笑う玲奈を見て、星縄は呆れたように肩を落とす。
五体満足でイリエワニから逃げられたが、あれは本当に危なかった。玲奈が語ったように、非常食として持ち運んでいたコンビーフの缶詰で見逃してもらえなかったら、二人揃ってインドネシア生態系の糧にされていただろう。
なんとも酷い目に遭った訳だが、ある程度は覚悟していた。
そもそも星縄が此処インドネシア諸島を訪れた理由は、大桐家夫妻を救助するため。ムスペルにより文明が崩壊した今、ただの人間に大海原を渡る術はない。故に『超人』となった星縄が生身で海を越え、二人を日本まで連れ帰る。そして
ミュータントと化した星縄にとって、日本とインドネシアの間に横たわる海を生身で横断する事は容易い。最早秘匿される事もなく暴れ回る怪物達も、我が身一つで蹴散らす事が出来る。だがミュータント相手はそうもいかない。小さな生き物であれば体重差で押し通せるし、互角の相手も逃げに徹すればなんとかなるが、人間よりも大きな生物となると全く勝ち目がなかった。
両手の指では数えきれないほどの危機を切り抜け、インドネシア中を駆け抜け、星縄は玲奈達を探した。しかしながら正直、あまり期待はしていなかった。怪物だのミュータントだの言っても本質的には野生動物。ただの人間に恨みなんてないだろうが、優しくしてくれる理由もない。怪物同士の闘争に巻き込まれるか、ミュータントに餌として狙われるか……いずれにせよ生きている可能性は皆無であり、腕の一本でも見付けられれば御の字と、殆ど諦めていたのである。
――――そのような気持ちでいたが、十日以上の時間を費やし星縄はついに玲奈を見付けた。五体満足の状態で、川岸に群れていた赤子のワニ十数匹と共に。
考えられる中で最高の再会。ところが日本に帰ろうと星縄が伝えると、玲奈から「イリエワニのミュータントの卵が孵化したから、孵化した子供の何割がミュータントか知りたい。手伝って」という答えが返ってきた。いや、そんなのやってたらマジで死ぬから……という言葉をオブラートに包んで伝えようとした刹那、母親イリエワニが襲い掛かってきて……
かくして冒頭の『ハプニング』に至る。
「それにしても、さっきはほんと助かったわ。星縄ちゃんのお陰でミュータントの子供のデータを持ち帰れたし」
「普通、そこは命が助かった事を感謝しますよ……ところで何を調べていたのですか? まさか単にミュータントとお喋りしたかった訳じゃないでしょう?」
「勿論。世代交代時のミュータント化比率を調べていたの。あの親から産まれた子供の総数は不明だけど、イリエワニの産卵数は確か六十~八十。ミュータント化していた子供が十五頭だから、あの親の子供に限ればざっと十八~二十五パーセントの確率でミュータント化しているわね。勿論サンプル数が全然足りないし、家系的なものもあるかも知れないわ。出来れば雌雄共にミュータント化していないつがい、片方だけがミュータント化したつがい、両方がミュータント化しているつがいの三パターンを十ケース以上用意したいところ。理想を言えば片方だけミュータント化のパターンは、雌雄どちらのケースも見たいわね。とはいえミュータント化していない個体じゃ聞き取り調査も出来ないしどうしたものか……」
最初こそ説明するような話し方だったが、何時の間にか考察を述べ始める玲奈。その視線はもう星縄を向いておらず、自分の世界にどっぷり浸っている。
先程まで命の危機に晒されていたというのに、なんとも能天気な人だ。
……自分はなんらかの理由で今死んでも構わないと星縄は思う。人類を守るためという名目で、色々な事をしてきた。悪事ばかりではないし、結果的に人類を守る手助けが出来たのだから善行の筈だが、それでも法や倫理に反する行いだ。運命だの神だの信じてはいないが、『天罰』があっても理不尽とは思わない。
しかし玲奈は違う。彼女は人の世のために働き、実際何度も世界を救ってきた。現代の英雄を一人選べと言われたなら、星縄は間違いなく玲奈を指名する。本来なら万人に崇められ、褒め称えられるべき立場の人だ。頭からバリバリ噛み砕かれるような、不憫な死に方をして良い人ではない。
何より彼女には、大切で、大好きな一人娘がいるではないか。
いくら怪物好きとはいえ、死の危険を体験しておきながら、どうしてこうもニコニコしていられるだろうか?
「……何故、そんなに楽しそうなのですか?」
無意識に、星縄はそう尋ねていた。
すると玲奈は目をパチクリ。それから自分の両頬や口許をぺたぺたと触り始めた。どうやら、今の今まで自覚すらなかったらしい。
「あれ? 私、そんなに楽しそうな顔だった?」
「……そうですね。かなり」
「あらあら。ごめんね、不愉快にさせちゃったかしら」
「いえ、そうではないのですが。ただ、不思議に思っただけです。玲奈さんは確かに怪物好きですけど、今はもう娘さんもいる訳ですし、少しは自分の安否について気にしないのかなって……」
疑問に思った理由を伝えると、玲奈は納得したように頷く。されどすぐに答えは返ってこない。口を閉じた玲奈は、しばし空を見上げた。星縄もその視線を追うように同じく空を仰ぐ。
満天の、眩しいぐらい星がひしめく夜空。
美しい光景だ……それが、文明の滅びを示すものでなければ。小さくとも都市の明かりがあれば弱い輝きは掻き消され、星々は疎らにしか見えなくなる。大都市ならば完全に消え失せるだろう。即ち満天の星空が見えるとは、この島から人の営みが消えた事を意味していた。
「……肩の荷が下りたってとこかなぁ」
そんな空を見上げながら呟かれた玲奈の言葉。
それだけあれば、星縄が玲奈の心境を理解するには十分だった。
「……玲奈さん、なんやかんや結構上の方の立場にいますからね」
「そうそう。最初は平の研究員に過ぎなかったのに、どんどん地位とか名誉とか付けられちゃったのよ。私は、ただ好きなように研究してただけなのに」
「その研究により生まれた人類文明への利益は莫大なものです。相応の地位が与えられるのは当然ですよ」
愚痴をこぼす玲奈に、星縄はその功績を讃える。おべっかではない。玲奈がこれまで積み重ねてきた功績を知るからこそ、本心から星縄は元上司の事を尊敬していた。
「私みたいな身勝手人間にとってはね、立場なんて重石でしかないわよ」
玲奈にとっては、嬉しい言葉ではなかったようだが。
「『ミネルヴァのフクロウ』は人類文明の存続が最大の目的。上に立つ者は、例えどんな時でもそう振る舞わないといけない」
「……………」
「最初はね、ただの演技だった。怪物と出会う度に、心の中ではワクワクしていたもの。だけど人間って単純なのよね。演技を続けていたら、それが本当になっちゃうんだから」
「玲奈さん……」
「花中が大きくなった頃には、本心からこの世界を守らなきゃって思ったものよ。柄じゃないのに……気付けば家族も世界も背負っていて、好きな事なんて全然出来ない有り様」
つらつらと語られる想い。
どの言葉も、決して褒められるようなものではない。しかし悪態でも強がりでもなく、沈んだ声で吐き出されるそれらに嘘は一切ないと星縄には分かり、責める事など出来なかった。
それにここ最近顔を合わせていなかったとはいえ、昔は共に仕事をしていた間柄なのだ。玲奈の人となりはそれなりに理解している。彼女が色んな事を我慢させられたところも、幾度となく見てきた。やりたい事、したい事、守りたい事を何度も捻じ曲げられてきたのも知っている。
「不謹慎なのを承知で言わせてもらうと、何もかと滅びて、色々スッキリしちゃったのよ」
ならばこの言葉が本心ではないと、どうして思えるのか。
正直な想いをぶつけられて、星縄はゆっくりと頷いた。
「……そう、ですか」
「あ。勿論花中の事を重荷に感じた事はないわよ? 今でも世界で一番愛してる。でもあの子の周りには、頼もしい友達がたくさんいたからね。絶対生きてるって信じていたから、偶には羽を伸ばしたって、ねぇ?」
「その『ねぇ』にいっちゃうところが、普通じゃないと思いますけどね」
「否定はしないけどねー」
けらけらと楽しそうに笑う玲奈。その顔から罪悪感や後悔は微塵も感じ取れない。
無論帰国する術があったなら、玲奈はすぐ日本へと戻ってきただろう。彼女の娘好きは筋金入りで、世界が滅びたからといって消えるほど小さな想いではない。
しかし帰れないのなら、とやかく悩んでも仕方ない。そしてここぞとばかりに好き勝手するなら、このタイミング以外にはないだろう。
「(……相変わらず『合理的』な人だなぁ)」
懐かしくなってきた星縄は、思わず笑みが零れた。
「ちょっとー。なんで笑うのよ」
「そりゃ笑いますよ。懐かしくなったのですから」
「むすー」
小馬鹿にされたと思ったのか、玲奈はぷくりと頬を膨らませる。子供らしい反応。それは正に昔の彼女らしくて、ついに星縄は大笑い。笑っていると玲奈も噴き出し、一緒に笑い始める。
まるで幼い子供のよう。
否、まるでではない。大桐玲奈は親になろうとも、子供の頃の童心を失っていないのだ。今まではちょっと忘れていただけ。それがなんとも愛らしい。
だから星縄はこの人を嫌いになれない。実の娘なら尚の事だろう。
彼女達が顔を合わせたら、さて、どうなる事か。
罪滅ぼしのつもりがこれじゃあ『報償』だなと、星縄は日本への帰国を楽しみにするのだった。
「……ところで訊きたかったのですけど、旦那さんは今何処に? ボクが聞き付けた噂では一緒に居るという事でしたが」
「あー、そういえば何時の間にか姿が見えなくなっていたのよねー……植物のミュータントでも見付けて、ふらーっとはぐれちゃったんじゃない?」
アンタが虫のミュータントを見付けてふらーっとはぐれたんじゃないのか。
脳裏を過ぎる言葉を、星縄は飲み込み、がっくりと項垂れた。正直断言は出来ない――――この似たもの夫婦ならどちらがそれをやらかしたとしても、或いは二人同時というのもあり得るのだから。そしてあの旦那も、娘である花中が大好きな反面、玲奈に負けず劣らず『合理的』である。
ならばきっと、向こうも同じような展開が起きている筈であり。
「……日本に帰れるの、何時になるのかなぁ」
最早確信に近い嫌な予感に、星縄は乾いた笑みを浮かべるのだった。
彼女は生き物に好かれやすい 彼岸花 @Star_SIX_778
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