日常

 「海はほんとに広いなぁ……」


当たり前の事だが、今改めて痛感した。

ただ一人で明け方の防波堤に座り、こんな事を呟いている事に理由はない。

いつもの様にここへ来て、ここで海を眺め、思ったことをそのまま声に出す。

すると、不思議と心が穏やかになっているのだ。

誰もいないこの空間で、この瞬間では好きなように生きて良いんだと。

途方にもない規模で空想することが許される唯一の場所なのだ。

 だから今日もこうして、小さな銀の水筒に入れた少しの酒を飲みつつ、昇ってくる朝日を眺めていた。

たまには酒でも飲みながら、と思い持ってきて正解だ。

誰に聞いたかは忘れたが、こういう時に飲むとどんな安酒だって美味しいらしい。

言われたとおりに、ここへ持ってきて飲んでみると驚いた。ただこうして海を見ているだけでも変わるものなのだ。

 誰かと飲んだら美味しい酒になる、賑やかな所で飲むと格段味が良くなる、と聞くがそうでもない。いや、その意見を否定するつもりはない。

 何時だって、自分に合った飲み方や条件があって、それら全てが見事に一致した時に美味しく感じるのだ。

だから、あくまでこの場合は”私という個人”にとってはこの静かな波止場で、ちびりと飲む酒が美味しいと思うだけであって……。


 天気も良く、風が心地よく吹いているのを肌で感じていると、何の根拠もなしに良い事が起こる気がしてくるのだ。

大体特に何も起こらないのだが、今日こそは何かが起こるんじゃないか。

確信も何もない、期待を抱く事もここでは容易だ。騙されたと思って宝くじでも買ってみようか、そう思えてきた。

高望みはしない、買った分の元を少し上くらいが当たればそれでいい。

 何時からか、大きな夢を持たなくなった身だからこそ、このくらいのささやかさが一番嬉しいのだ。

だからこそ、この静けさに包まれた空間で十分な幸福感を得られるのだろう。

海を眺めて思い馳せる、それが私なりの休日の迎え方だ。


 誰かしらが言っていた、もしくは歌っていた『自分らしさ』という言葉をふと思い出す。

数十分ぐらい前から行っているこの日課が、私の『自分らしさ』というものなのだろうと気づいた。

大して自慢できる習慣でもないが、誰かに自慢する事だけが自分らしさを示す方法ではない。

今この瞬間、自分が自分らしくいるならそれで十分だと私は思う。


 腕時計をふと見ると、針は四時五〇分を少し過ぎた頃を示していた。

確か、ここに来たのは三時になった頃だったか……。

かなりここで寛いでいた事になるが、今日は休日であるので時間に追われる必要はない。

いつもよりゆっくりとここで過ごし、キラキラと揺らぐ海を眺めてまた思う。


「海はほんとに広いなぁ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しりとり 柊 撫子 @nadsiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る