七不思議の八つ目 下



 今日も友花は学校に来ていない。それは当たり前のことだろうけど、それでもいないと寂しさを覚えてしまう。先ほど来たメールはいつも通りのテンションのメールだった。でもそれが素なのか繕っているだけなのか分からなくて、悶々とした気持ちが募っていく。

 船木とは気まずさが漂ってしまうから目を合わせないようにして教室を見渡す。そうするとふと違和感を感じた。

 この学校には異様に怪我をしている人が多い。例えば日高さん。彼女は右手が義手だ。そして思えば彼女はバレーボール部だと思っていたが、周りの皆は生まれつき右手が欠損だと言っている。これもまあ私が霊能力者だとすると、私と周りの皆で差があるのも頷ける。とすると、日高さんの右手も間宮に奪われたのだろうか。考えられなくもない。

 そして先ほど廊下を歩いていた時、門脇と呼ばれている女の子が友人の肩を借りながら松葉杖を付いていた。右足が消え失せたかのように無かったからだ。彼女もきっと間宮の被害者なのだろう。

 そう、この学校の生徒は間宮によって体の四肢を奪われているんだ。そして友花もそれに巻き込まれた───。

「───ちっ……」

 思い浮かべるだけで胸糞が悪い。頭を掻きむしっても少しも気持ちが晴れることはない。

 もういいや、学校にいる意味もない。まだ授業も始まってすらいないが友花のほうが気になる。もう一度友花の家に行こう。それくらいしか今私が出来ることはない。逆に言えばそれしか出来ないんだ。

 情けなさを吐き捨てるように乱暴に足を進めていく、廊下ですれ違う一人一人が気に食わない。こいつらが七不思議を妄想したから。八不思議なんて無駄なものを欲しがったから…!友花が────!

 髪が乱れるほどに頭を振る。余計な考えを投げ捨てる。たとえそうだとしても考えたって仕方がない。だってもう友花の右目は失ってしまったんだから。いまさら再考しても改善するわけもない。

 今出来るのはこれからどうするか、それだけだ。廊下を走って友花の家へ。脇目も振らずに足を振り出した。



「友花ー。来たわよー」

 部屋をノックして反応を待つ。とたとたと可愛げのある足音が反響して、ドアの前で止まった。

「智音ちゃん!また来てくれたんだ!」

「まーね。学校が思いの外早く終わっちゃってね」

「そんなわけないでしょー。……ふふっ、ありがと」

 友花の部屋は昨日みたいに心気臭さは漂ってはいない。照明や開け放たれたカーテンからは目映い光が差し込んでいた。それに友花の顔も照らされていて、やつれてはいるが滅入ってはなさそうだ。もちろん右目は閉じたままだが、それを見て内心胸を撫で下ろした。

「ま、とりあえずここ座ってよ」

「そう?ありがとう」

 友花に誘われるがままベッドに腰掛ける。友花もその横に座って二人で壁を眺めていた。友花はぶらりぶらり足を揺らしていて、右目以外は平時と変わらない友花だった。

「そういえば昨日久しぶりに走ったわ」

「昨日って私の家に来た後のこと?」

「そうね。そのあと学校で調べたいことあったから本気で走ったけど、あんなに疲れるとは思っていなかったわ」

 思い出すだけで溜め息がある。体力には少し自信があったんだけどなあ。

「ちゃんと体育の授業を受けていないから体力が着かないんだよ」

「でも友花よりかは身体測定は全然上よ。右手の握力なんて最大評価だし」

「だからこそ智音ちゃんは宝の持ち腐れなんだよ。運動すればきっと伸びるのになー」

「じゃあ新聞部やめて陸上部にでも入ろうかしら?」

「ははっ、無理だよ。智音ちゃんは体育会系なノリ絶対に嫌いだもん」

「……そうね。新聞部でも十二分に面倒なんだからね」

「そんな酷いこと言わないでよー!」

 他愛もない会話を繰り返す。学校で繰り返している会話。

 でもどこか今の会話は上っ面だ。触れたくない所が互いにあるような。そこに触れてしまってはいけないような。でも逃げる訳にはいかない。例え私が友花に嫌われようとも、友花の為を思うなら。

「……ねえ友花。友花はこれからどうしたい?」

 私の声の質が変わったことを感じ取ったのか、友花の顔に陰りが走る。友花は少し俯いて声を曇らせた。

「……これからって、何?」

「だってそうでしょ?このままでいいと思ってるの?」

 友花は顔を上げない。膝上で組んだ手が手遊びをしていて、それをずっと見つめている。会話は直接的なことを避けていても、言いたいことはすべて伝わっている。

「私は取り戻したい。友花に元の生活に戻って欲しい。だってそのせいできっと手に入れるはずだったものが手に入らなくなってしまうかも知れないから。だから私は対処法を考えてみたいの。もし取り戻せるなら、私は何でも───」

 そんな方法があるのかなんて知りやしない。本人は元に戻すことは不可能と言っていた。事実間宮の言っていたことが真実なら困難を極めるかもしれない。それでも諦めるつもりはない。もし命を賭して友花の目を取り戻せるなら、私は────。

「……私はね、智音ちゃん。思うところはたった一つだよ」

 ポツリと微かな声を友花が呟く。私は少し耳を友花に寄せようとしたが、友花が顔を上げたためすぐに動きを止めた。


「私は───智音ちゃんにはこの件に関わって欲しくない。ただそれだけだよ」


 意志のこもった声。揺れる左目が訴えてくる。彼女の切実な思いを。

「……何を、言っているの?」

 友花の言っていることが、信じられない。

「だってそうでしょ!?もし智音ちゃんも八不思議に入れ込んだら私みたいに体の一部を奪われちゃうかもしれないじゃない!私は絶対に嫌!大好きな智音ちゃんがそんな事になるのは!」

「じゃあ友花はそれでいいの!?右目がないままで!そんな不自由な人生を強いられて!私は嫌よ!絶対に嫌!」

「そんなことない!そんなことないよ!でもっ!────智音ちゃんが目に合うのは、もっと嫌なの……!」

 唇を噛み締めている。かすれるような声の中に様々な感情が渦巻いている。それが手にも顔にも体にも、友花の一挙手一投足に表れている。強く握りしめられた拳のやるせなさが、私にも伝わってくる。

「私の目が帰ってくる保証はない。むしろ智音ちゃんの体が、目が奪われてしまう可能性のほうが高いもの。だからやってほしくない。智音ちゃんの思いは凄く嬉しいけど、嬉しいんだけど……堪えて?」

 友花の右手が私の頬に触れる。心配かけないように精一杯の表現、そう私には見えた。

 ───何が堪えて、よ。本当に堪えれてないのは友花じゃない。そんな、泣きそうな笑顔をして……。

「私は智音ちゃんの目がなくなっちゃうなんて絶対に嫌、絶対に嫌だよ。だって私とかとは違って智音ちゃんは───」

 友花の潤んだ目が、光を反射する。




「────綺麗なオッドアイ、持ってるもの」




 ………今、なんて言った?

「だから、智音ちゃんは八不思議から手を退いて。後輩も新しい友達もいらないから。智音ちゃんがいてくれればそれでいいから……」

 ───今、なんて言った!?

「ねえ友花!?今なんて言ったの!?」

 友花の肩を掴んで揺さぶるように問い詰める。友花は私の急変に戸惑ったのか、視線がぐるりと泳いだ。

「え、えぇっと!?智音ちゃんがいてくれればそれでいい…………」

「そこじゃなくて!その、前に……」

 心臓の音が頭の中に響き渡る。血が脳に行く度に頭が殴られているように痛む。おかしい。何かがおかしい。

「え、えーと…智音ちゃんのオッドアイが綺麗って…………」

 オッド、アイ。私が?目の色が違う?───そうなの?

 部屋を見渡して鏡を探す。学習机の上に置いてあった鏡を持って自分の目を確認する。

 ───気が付かなかった。知らなかった。自分がオッドアイということに。左目は濃赤色、右目は黒。まごうことなきオッドアイだ。

 でもそれは当たり前だ。私はお母さんは日本人、お父さんはイギリス人なんだから。ハーフだから目の色が…違っても、不思議なことは…………。

 ────私のお母さんとお父さんの顔、どんなだっけ……?

「智音ちゃん?大丈夫……?」

 鏡を持ったまま立ち尽くしていた私に、友花が声をかけてきた。友花を見ると酷く怯えたような顔で私の顔を見ていた。

「ど、どうしたの?具合でも悪いの?」

 分からない。自分のことが。自分の表情も、自分の記憶さえも。友花が私の顔を見てあたふたしているから多分それほどの顔色を浮かべていたんだろうが、正直それを認識する出来るほどの余裕がない。

「───ごめんっ!」

「えっ!?智音ちゃん!?」

 部屋から前に倒れそうになりながら駆け出た。友花の家とか他人の目とか気にする余裕がない。ひたすらただ外へ。ただ遠くへ!家から飛び出て歩道を全速力で駆け抜ける。

 おかしすぎる。おかしいんだ。私の親は国際結婚。その二人から産まれたのは私だ。だから私は日本人とイギリス人のハーフだ。でも私は遺伝上、髪は母親の黒髪、目は両者の特徴を受け持った……はずだ。

 私の実家はここから数駅離れたとこにある。母は専業主婦として家にいて、お父さんはその近くの企業で働いている。私の高校は少し離れているから、今一人暮らしをしている。そのはずなんだ。

 駅の入り口のポールに手をつく。今朝食べたものが逆流してきそうなほど胃が痛い。走りたくないとか言った直後にこんな走るなんて冗談もすぎる。喉の中がガサついて呼吸もままならない。それでも確かめたいことがある。重い足を亀のように運んでいく。

 私の家はここから数駅離れている。そう、数駅だ。駅の路線図を見上げる。自分の住んでいる街から目を動かしていく。わずか数駅しか離れていない。そのはずなんだ。そのはずなのに───。

「……どこ、なの?私の昔住んでいた街は…………」

 どの街の名前にも見覚えがない。聞き覚えもない。懐かしさも感じない。

 それだけじゃない。父親の具体的な職業も知らない。確かサラリーマンだったようなイメージしか無い。しかも、顔も名前も年齢も!……私は知らないんだ。

 気がつくと歩いていた。どこに向かうわけでもなく、ずっと歩いていた。見覚えのある風景。車が時折横を過ぎ去り、狭い歩道に等間隔に街灯が並んでいるこの通学路。きっと私の家に向かっているんだろう。

 ───私の家?思えば私が一人暮らししている時点でおかしい。女子高校生が一人暮らしするなんてかなり珍しいこと。しかも実家から数駅しか離れていないとするならば実家通いすればいい。

 そもそもだ。私の家にはなにもない。私の服も小物も装飾品も、全部友花と一緒に買ったものだ。家具は初めからアパートについていたが、それ以外は何もなかった気がする。

 それに私には趣味と呼べるものも今まで打ち込んだものもない。唯一友花に貸してもらったCDが趣味といえるかもしれないが、心から打ち込んでいるわけでもない。耳寂しさに聞いているだけだ。

 私は今まで何をしてきたんだろう。中学校小学校幼稚園と、今まで歩んできた人生がある。その記憶はある。でも漠然としすぎていて何も思い出せない。誰と遊んだか、何をしていたか、担任の顔もだ。

 階段を一段一段登っていく。ここは私の住んでいるアパートだ。そのはずだ。なのにどうやってこのアパートを探したのか、どこで決めたのか、いつから住み始めたのか覚えがない。

 鍵を開けて自室のドアを開ける。中に広がっているのはただの1K。そして言ってしまえばそれだけ。一般の女子高生とするならば明らかに華やかさがない。もしかしたら私のセンスがずれてるだけかもしれないけど。

 鼻で笑っても感じるのは虚無感と焦燥感。自分は一体何なんだろう。部屋の中を歩いてみても、教えてくれるものは何もない。

 ふと友花と一緒に買いに行った、机の上に置かれた鏡に目が行った。安物とは違ってフレームに花模様やカラフルに装飾がされていて、見栄えもいい一品だ。鏡ならなんでも良いと言った私を一蹴して、女の子は身の回りにも気を配らないと!って言って選んでくれたんだ。

 懐かしい、少し前の記憶。その時にも鏡を見たはずなのに、自分の目の色に気づかなかった。今日友花に言われて初めて気がついた。だから今は自分の目のアンバランスさがよく分かる。

 鏡に映るオッドアイ。まるで自分の顔ではないかのようだ。自分の瞳を見つめ返す。よく見ると瞳の色だけじゃなくて形も違う。オッドアイというのは不思議なものだ。………?そういえば、オッドアイをどこかで見たような。

 ───そうだ。あれは、すぐ前だった。ちょうど昨日だ。どうして…そんな簡単なことさえ、私は────。

 頭を、殴られた。流れ崩れるように床に転げ落ちた。───何が、あった!?

 ……違う。殴られてなんかいない。振り向いても誰もいない。この部屋には私しかいないんだから。これは───単純に頭が痛いだけなんだ。

 痛い、なんかじゃ済ませれない。割れるように、いや実際割れているとしても信じてしまいそうだ。脳の中を虫が這いずり回るような感覚に襲われている。

 ───でも、それだけじゃない。痛みの中に、何かを感じる。小さくて、泣き虫で。でも温かくて、とても大事な───。

「────はっ、はは…、はっはっは……!」

 そうだ。これか。これなんだ。


 これは────友花との記憶なんだ。友花と初めて会った時の────本当に初めて会った時の、記憶なんだ。

 ああ、なんだ。全部思い出してしまった───。




 私には友人がいなかった。それだけじゃない、親もいなかったんだ。でもそれが悲しいとは感じなかった。それが当たり前だったから。それが私の存在理由だったから、気にも留めなかった。

 クラスメイトとの会話の輪に入ることもなく、余所余所しく扱われて。一人で食事をして一人で登下校をして。それを延々と繰り返す。それが私の生まれた意味だった。

「あーっ!ホントにもー!忘れ物しちゃってた、よ…………」

 この時までは。───友花が教室に駆け込んできた時までは、そうだったんだ。




 私は机に顔を伏せた。この子も忘れ物を取りに来ただけ。それが終わればさっさと教室から出ていく。別にそれで良いんだけど、この子としても教室で話したことない人と出くわすのは気まずいだろうから、気安く距離が取れるようにね。まあ名前すら知らないけど。

 右から左へと足音が動いていく。左前あたりで机の中を探っているのか、小さな音が聞こえてくる。

 軽く耳を澄ませると遠くの音も聞こえてきた。グラウンドで活動しているであろう運動部の掛け声。あ、今野球部がボール打ったな。清涼感のある金属音がしたからきっとそうなんだろう。その更に奥には車のエンジン音も聞こえてくる。学校周りは道は細いがしばしば車は通る。まあ道路があって車が通らないなんて道理に反しているんだけど。

 ……そろそろかな?物音もしなくなったから彼女は帰っただろうか。首を動かして姿勢は伏せたまま顔だけで様子を窺った。

 彼女はまだ、いた。この教室にいた。でも明らかにおかしいんだけど。

 物音がしなくなったのは彼女が教室から出ていったからではない。彼女が動きを止めていたからだ。彼女がペンケースを胸元に携えて静止していたからだ。────私の目の前で、静かに立っていたからだった。

 目が合う。彼女は綺麗な目をしていた。小豆色に輝く瞳は吸い込まれそうなほど優美で、思わず見とれてしまっていた。それでも彼女は文句の一つもこぼさずに見返していた。

 風の流れる音だけが響く教室で、私たちは見つめ合っていた。

「……何、してるの?」

 沈黙を破ったのは彼女だった。先ほどの爆走するような声ではなくて、鈴の音みたいな心地の良い声。むしろこっちの声のほうが素なのではと思った。

「……別に」

 それに返した私の声は愛想の欠片もなかった。というかは愛想を向けることさえ面倒だった。だってその意味がないから。向けたところでメリットがないならどうして向ける?

「……ね?ここ座ってもいいかな?」

 でも彼女は違った。驚いて思わず二度見をしてしまった。……座る?私の前の席に?

 もちろん彼女がそこの席ということではない。それが意味するのは、私との時間を過ごそうとする意思表示に他ならなかった。

 私が僅かに口を開けて絶句していると、彼女は何も言わずに前の席に座った。彼女は私と対面するようにではなく、目線は窓の外の透き通るほど薄い雲に向けられていた。現状の理解ができていない私も彼女の視線に合わせて雲を見ていた。

 放課後の教室で二人穏やかに流れる雲を眺める。これだけを切り取るとドラマのワンシーンみたいにも思えなくもないが、私の内心は相当焦っていた。私の理解の範疇を大きく超えていた事態に対処しきれていなかったからだ。そう───私に誰かが話しかけてくるなんて、ありえないんだ。

「柏城さん、だよね?」

 彼女は同じように外を眺めながら言葉を投げかけてきた。

「え、ええ。そうよ」

「何してたの?」

「何って……何もしてないわよ」

「何それ。ほんとに何もしてなかったんだ」

「笑うことないでしょ……」

 そうしてまた会話が途切れる。彼女の意図が読めない。彼女の行動がわからない。

 私が話しかけられるわけがない。話しかけられてはいけないんだから。例えそんなことがあったとしても、悪意や敵意を抱いた場合だけ。それ以外はありえない。

 なのに彼女にはそんな素振りが微塵も感じられない。それどころか親しみを持って私と接している。ありえない。あってはならないんだ。だってそれが私の存在理由なんだから。

「私さ、知っているかもだけどクラスから嫌われてるんだ」

 また彼女が唇を動かす。でも今度は今までの明るい声じゃなかった。憂いを含んだ、トーンの低い声だった。

「いつからって聞かれてもよく分からないんだけど、去年の半ばくらいからだと思う。私が何かをしたわけじゃないんだけど、どうやら私の振る舞いがクラスのリーダー格の女の子の怒りに触れちゃったみたいで。それから次第に友達は私から距離を置くようになったよ」

 目を横に流して顔を見てみる。儚げに薄く笑う彼女を見ているだけで、勝手に胸の中が締め付けられていった。

「だから私はクラスで孤立しちゃってさ、寂しかったんだけど、でもそんな私の居場所になってくれた人がいたんだ。それがね、部活の先輩だったんだよ」

 彼女の機微はとても顔に表れる。きっと自分に正直で真っ直ぐに生きてきたんだろう。だから誰からも好かれて、誰からも愛される。でもそれを妬む人も絶対に出てくる。きっとそれがクラスでの出来事だったに違いない。

「私はクラスで孤立してるだなんて一言も言っていないのに、まるで察してくれたみたいに優しくしてくれて。……ううん、もともと優しかったからきっとそれが先輩たちの気質だったんだろうね。とにかく先輩たちのお陰で私は救われたんだ」

 目をつぶって胸に手を当てている彼女は、世界に溶け込んでしまいそうなほど柔らかな雰囲気を醸し出していた。それほどまでに彼女にとって先輩というのは大きな存在だったんだと分かる。

 でも、と彼女は言葉を続けた。

「その部活……あ、新聞部なんだけどね。新聞部には2年生の先輩がいなくて、当時1年の私と3年生の先輩たちだけだったんだよ。そして1年の部員も私だけ。つまり去年の卒業式で先輩は皆辞めちゃって、私一人になっちゃったんだ」

 私は言葉を挟むことなくずっと彼女の物語を聞いている。どうして彼女がそんな話をしているのか、どうして私はそんな話を聞いているのかは分からない。それでも聞き入ってしまった。見入ってしまっていた。

「だから私はさ、今年たくさんの後輩を入れて新聞部を存続させたいと思ったんだ。そしてね?出来れば私が先輩に沢山のことを貰ったように、私も後輩に沢山のことを上げたかったんだ。そう、私は先輩みたいな人になりたかったんだ……」

 彼女の言葉が次第に尻すぼみになる。まだ何を言うのかは分からない。でもこれから話すことの顛末は、否応ながら伝わってしまった。

「でも、そんな風にはならなかった。確かに今年の新入生はそれなりに新聞部に入ってくれたよ。でも誰一人として積極的に活動しようとなんてしなかった。形だけ入って内申点とか、放課後友達と遊ぶ口実が欲しかっただけみたい。ほら、新聞部って部室あるのに先輩は私一人しかいないから、そういう目的でもかなり使いやすいんだよね」

 彼女は何を感じているんだろうか。沈みゆく夕日を見ながら、何を思っているんだろうか。

「だからちょっと厳しいことを言っちゃった。遊んでもいいから、せめて活動くらいはしようって。そしたら、もう部室にさえ来なくなっちゃった。みんな教室で遊んでいるか駅前のショッピングモールに行ってるみたい。もちろん親には部活してるって言ってね」

 彼女は頭を沈めた。横髪が垂直に落ちてその表情を隠す。

「…上手く、いかないものだね。人生ってさ……」

 感情を噛み殺したような声。苦渋の思いが彼女の体を細かに震えさせている。遠目からだったら泣いていると思うかもしれない。いや、実際に泣いているのかもしれない。

 自分語りが終わったのか、彼女は俯いたままでいる。彼女が黙った教室には一気に活気が無くなった。廃れた雰囲気が漂っている。この教室だけが、取り残されている。

「……どうしてそれを、私に言ったの?」

 言葉を出すことさえ遠慮してしまうそうな空気の中、私は口を動かして聞きたいことを尋ねた。そこが本当に分からない。私に言って何のメリットが?というかそもそもどうして私に、話しかけることが出来る?

「……私って強い人じゃないから」

 彼女が顔を上げて私を見る。どこか潤みを帯びた瞳。少し赤味を持った鼻先。それでも、彼女の目には力強い意志が込められていた。

「これまでに何度も何度も泣いてきたんだ。クラスから除け者にされた時も、先輩が卒業した時も、後輩に利用された時も。自分の部屋の中で、一人で。その度に胸が張り裂けそうになった」

 思えば私は一度も泣いたことがない。泣く、という感覚がわからない。人間だというのに、まるでこれじゃあ欠陥があるみたいじゃない。

「そして自分の部屋には鏡があるからさ、自分の顔が見えるんだよ。自分の泣き顔が。目蓋を腫らして頬を赤くして、歪んだ口から雛鳥みたいな声を出している顔が。みっともなくて情けなくって弱くって折れてしまいそうな……そんな顔」

 そう言って彼女は手を伸ばしてきた。机の上で組んでいた私の手に触れる。───温かい。彼女の感情の動きを体現したような熱情が伝わってきた。

 視線が交差する。戸惑う私に彼女は強い目で、そして柔和に───頬を上げたんだ。


「───そんな顔を、柏城さんもしていたから」


 外では鳥の大群が空を横切っていた。夕方になったから自分たちの巣に帰るのだろう。羽ばたく音とダミ声のような鳴き声が聞こえてくる。

「……え?私が?」

 そんな上の空だった私に意識が戻ったのはほんの数秒後だった。

「うん、そうだよ」

「いやいやいやいや、私泣いてないよ!?」

 涙なんて流してもないし、涙腺が潤んでいるわけでもない。泣いている!?私が!?

 でも彼女は無言で首を横に振る。私の手の甲を撫でるように彼女は両手で包み込んだ。

「泣いてない。でも、泣きそうな顔をしてた。私の顔とよく似てる。部屋の鏡に映った───私の顔に」

 一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女の頬に光に輝く線が引かれている。泣いているんだ、彼女は。

「だか、らっ…余計なお世話かもしれ、なかったけど…ほっとけ、なくてっ!」

 嗚咽に彼女の言葉が奪われている。目の端に涙を溜めながらぽろぽろと溢していく。

「……何を言っているの!?私が泣きそうだって!?そんなわけないじゃない!」

 そんなはずがない。だって私は友人も家族もいないこと、それが存在理由なのだから。

「私は生まれた時から知っている!友達も、家族も出来ないことを!だからそれを悲しいとか思ったことはない!寂しいとか思ったことはない!」

 毎日、朝一人で起きて、一人で朝食を食べて。一人で登校して、一人で授業を受けて。一人で昼食を食べて下校して、そして一日を終える。それが私の日常。それが私に課せられた日常。

「だから一緒にしないでよ!一人になりたくなくてなってしまったあなたと!一人になるしかなくて一人になった私を!」

 だから、だから────!

「────勝手なこと、言わないでよ……!」

 胸が熱い。頬が熱い。頬を這う一滴の涙までもが、目尻を焼くように熱い。。

 だから初めて知ったんだ。───人がこんなにも温かかっただなんて。

 気づけば私は泣いていた。人目とか恥とか自尊心とか。思う所は山ほどあったけど、なり振り構っていられなかった。とめどなく溢れる涙にどうすることさえ出来なかった。

 そうだ。寂しくないわけがない。苦しくないわけがない……!

 周りは会話で賑わっている、遊んで盛り上がっているのに、私はいつも一人。話しかけられても事務業務だけ。それが終われば私はそこにいないかのように扱われる。

 それが生まれてからずっと。ずっと、ずっと!誰かに愛されたこともない。好かれたこともない!

 向けられるのは無関心か、もしくは心が冷えるほどの憎悪の念。私が彼ら彼女たちから奪ってきたのは、変えがたいほどの財産。だからそれも仕方ないと胸の押さえ込んでいる。

 でも、私は人間なんだ。人間になったんだ!それで……耐えられるわけがないじゃない!

「……でもね?」

 彼女は落ち着きを取り戻したように話しかけてきた。涙の後を拭うように彼女は私の頬に手をかけて、そっと柔らかく触れてきた。彼女の熱が伝わる度に、また目頭が震えだす。

「大丈夫だよ。心配なんていらない。だってまだこれからがあるんだから。この先諦めなければ、絶対にいいことがあるよ」

 その言葉は力強くて、彼女の芯が目に見えた。

「だからね?私はまだ諦めてないんだ。クラスでは上手く馴染めていなけど、もしかしたら歯車が合って溶け込めるかもしれない。新聞部も来年たくさんの新入部員が入ってきて、今の後輩も来年の後輩も、みんな仲良くなれるかもしれない」

 希望的観測だ。そんなこと分かるわけもない。実際に叶う可能性のほうが低い。それでも彼女はその希望を捨てない。でもそれは縋っているわけじゃない。彼女の、前向きさなんだ。

「だから私は新しい記事を作ってるんだ。今の後輩たちが興味を持ってくれて、来年の新入生が入りたいって思うような記事を!それはね───学校の七不思議なんだよ!」

 涙が止まった。彼女の言葉に、私の体は静止してしまった。涙で曲がった世界から彼女を見つめ返す。

 彼女はまだ私を見ている。優しく笑っている。ずっと笑ってくれている。私が泣いている間も、ずっと笑っていたんだ。

「ほら、みんな七不思議って好きでしょ?冒険心というか好奇心がくすぐられるっていうか!だから私は全部調べたんだ。学校に夜忍び込んで一つ一つ確認していったんだ」

 私は言葉を失っていた。彼女が、七不思議を?悪寒が背筋を駆け下りる。

 目、耳、口、手足と上から彼女の体を見渡していく。それでも体のどこにも欠損は見られない。そもそも彼女の顔を知らない。一応、七不思議で体を奪われた人は全員知っているのに───。

「……ねえ、あなた。全部七不思議を確認したの?」

「うん、そうだよ。じゃないと質の高い記事は書けないもの」

 どういうことだ?つまり七不思議の役割を終えた後に、彼女はすべての七不思議を体験したということか?

「……ははっ」

 なるほどだからか。だから彼女は私に話しかけれたんだ。だから彼女は私に関心を持ってくれたんだ。だから私は今こうして、彼女と話すことができているんだ。

「ど、どうしたの柏城さん!?」

「いいえ、なんでも無いわ。そう、だからあなたは私に話しかけてきたのね……」

「えー……え?どういうこと?」

 唐突な私の変わり様に目を泳がせて慌てふためく。本当に見ていて飽きない子だ。私達の形勢が逆転したようで面白くなってしまう。

「ううん、なんでもないわ。……ねぇあなた、1つ聞きたいことがあるんだけど」

「う、うん。何かな?」

 私の頬に触れたままだった手に私の手を添える。そのまま私の前に持ってくる。私と彼女、2人の両手で手を支え合った。

「私の───友達、になってくれるかしら?」

 彼女の柔らかい唇が穏やかに曲がる。その表情は絵画ような見るものの心を和ますものだった。

「───うん!喜んで!」

 ………ああ、こうなるのか。私が存在理由を破ってしまったら、こうなってしまうのか。

 教室の端からガラス片のような淡い光を帯びた物体が浮かび上がってくる。やがてそれは数を増して、視界の一面が煌めきで覆われた。

「えっ!?何これ!?何これ柏城ちゃん!?」

 辺りの変わり様に髪を平行に揺らせながら首を振っている。私はそんな彼女の手をより一層強く握った。

「大丈夫。心配しないで。私を───信じて?」

 今さっき話し始めた人のことを、今友達になったばかりの人のことを信じられる訳がない。それでも私は一心に語りかけた。私を救ってくれた、彼女に対して。

 彼女は焦りながら周囲を見渡していた。でも私の姿を見て、彼女も強く握り返してくれた。無言で、でもしっかりと。彼女の手は大きくて、温かかった。

「……分かった、信じるよ。だって柏城ちゃんは私の───友達だもんね?」

 彼女は信じてくれた。こんな私のことを。私なんかを。

 私のやったことは酷い裏切り行為だ。私のせいでまた新たな犠牲者が出るかもしれない。私のせいで世界が変わってしまうかもしれない。

 それでも構わない。私は彼女さえ守ることが出来たら、彼女さえ幸せにすることが出来たら。他の何も望まない。例え自分を含めて誰かが傷つくことになったとしても。

 煌々とした光の破片はさらに私達を囲んでいった。私たちの机の周辺以外は破片で包まれて何も見えない。この閉ざされた世界の中、私たちはただ手を取り合っていた。

「……ねえ、自己紹介しない?」

 その中で私は聞きそびれていたことを思い出した。

「自己、紹介?」

「ええ。だって私、あなたの名前知らないもの」

「……えぇええぇーー!!?だからさっきから私の名前呼んでくれなかったんだ!」

「仕方ないじゃない。というか正直に言うとクラスメイトの殆どが分からないんだから」

「もう……。ならちゃんと覚えてよね?」

 わざとらしく彼女が咳き込む。そうして私と、笑顔で向き合った。

「私は、福地友花。これからよろしくね?」

 机の端までもが光に満ち溢れていた。彼女───友花の笑顔も宝石のように輝いて見えてしまう。

 次第に視界が光で溢れていく。彼女の顔さえも光で隠れていく。


「私は、柏城智音。───八不思議の、柏城智音よ」


 そして全てが光で包まれた。それでも繋がれた私と友花の手。それが友花の存在を証明してくれている。

 それだけで私は───生きていく理由になる。





 ……私は八不思議として生まれたんだ。

 暗い部屋の中で沈んでいた頭を上げた。頭痛と耳鳴りの余韻は残っているが、不純物が抜けたように妙に軽い。髪を手で掻き分けて視界を確保する。

 友人も家族もいない八不思議。その役割を存在理由として生まれてきた。

 でもそれに自分は耐えられなかった。八不思議として生を持った日から、常に孤独に晒されてきた。それは想像以上に胸を抉られることだったんだ。

 その地獄から救ってくれたのが、友花。

 私の存在意義を壊してれたのが、友花だったんだ。



 部屋から出て走り始める。エレベーターを待つ時間さえ煩わしくて、螺旋階段を駆け下りていった。

 携帯を確認していなかったことを思い出して、急いで開き見る。メールと不在着信が溜まっていて、どれもこれもが友花からだった。それが心配されていると思うと、

胸に込み上げてくるものがあった。


 八不思議の存在は普通の人には認識できない。顕現をした後は出来るようになるが、それは八不思議というフィルターを通してのもの。だから普通の人は私のことを、友人も家族もいない人として認識する。それどころかそうでなくてはならないと意志の力が働いてしまう。だから私は誰かに好意を向けられることも、友人を作ることも出来なかった。


 階段を降りきったところで着信先に電話をかける。1コールも鳴り終わる前に聞き慣れた声に変わっていた。

『もしもし!?智音ちゃん!?』

 ───ああ、やっぱりこの声が私は好きだ。自然と口角が上がっていた。


 しかし一つだけ例外がある。それは七不思議を体験して私に体を奪われた人だ。私に肉体が移ることで私とその人の間に繋がりができて、私を八不思議という偏見をなしに認識できる。でもそういった人は当たり前だが、私に体の一部を奪われている人。私のことを受け入れてくれるわけもない。

 だが友花は私に体を奪われていない。だから友花が私のことを偏見無しで見れる訳がない。でも友花は七不思議を調べていた。そして七不思議のすべてを確認した。だから本来であったら友花の体のほとんどは奪い取られてしまって、その部位で私の体が形成されていたはずなんだ。


「もしもし?友花?」

『あ、智音ちゃん!?大丈夫なの!?』

「耳元でうるさいわよ。今こうして電話してるんだから大丈夫に決まってるじゃない」

『で、でも!今さっき青ざめた顔で部屋から走り出ていったから!』

 友花の声は裏返るように震えていて、どれだけ不安を抱いていたかが伝わってくる。ああ、私は友花にこんなにも愛されているんだなあ。それだけで走る足にも力がこもる。


 でも友花が七不思議を見た時にはもう既に八不思議の私が顕現していた。だから友花の体が奪われることはなかった。しかし本来は奪われるはずだった。だから所有権のようなものは私に渡り、肉体は友花に留まる形になった。つまり友花と私は複数の薄い縁で繋がっている。七つの薄い繋がり、それを合算すると一つの部位を奪われた場合の繋がりと同義になっているんだろう。

 だから友花は私を八不思議の柏城智音としてではなく、クラスメイトの柏城智音として見ることが出来たんだ。だから私を見てくれたんだ。

 それが友花の秘密。私と友花の、関係だ。


「心配しなくていいわ。もう少ししたら友花の所へ戻るから」

 信号は赤を示していたが、左右に車がいなかったので気にせず走り抜ける。今すぐ向かわなければならない。

『……智音ちゃん。今どこにいるの?どこに、向かっているの?』

 声のトーンが下がった。私の早いテンポの呼気や地面を蹴る音は電話越しにも聞こえているはず。隠すことも出来ないだろう。


 そして私だけに間宮が見えたのは、私が八不思議から生まれた存在だからだ。私は根からの異形の存在。だからこそ同質の間宮を見ることが出来た。でも友花に間宮が見えなかったのは、友花と間宮の間に繋がりはないからだ。今となっては皮肉なことに繋がっているのだが。

 もう目的の場所は見えている。そこで私は決着を付けなければならない。自分のために、他の人のために。そして───友花のために。


「……心配しなくていいわ。私は私の、やるべきことをやるだけだから」

『智音ちゃん!?何を────』

 そこから続きは電子音が邪魔して聞こえなかった。というか私が電話を切ったのだから当たり前か。

 これからやることに友花は巻き込めない。私の独断で、私だけでやらなきゃならない。私が友花を巻き込んだことも勿論だけど、───同じ八不思議としてもやらなきゃならないんだ。

 そして目的地の前へと辿り着いた。この数日の間に何度ここに来たんだろう。ここで彼女と出会って、彼女のことを知って、そしてまたここに訪れた。やっぱりここで終わるんだろうな。扉を開ける。

 外から冷えた風が入り込んできて、スカートの裾を揺らしていった。太ももに冷気を感じながら屋上へと足を踏み入れる。

 その屋上の柵に手をかけて立つ人影が一人、いた。



 そう、ここで彼女と出会った。

 いつも通りに遠くを眺めている。その意味が今なら分かる。憧れているんだ。外の世界を。

 私も羨望を持っていた。八不思議はそのすべてを顕現するまでは学校から出ることさえ叶わない。だから外に憧れる。まだ見たこともない世界に行ってみたくなる。

 ここで彼女にナイフを突き立てた。

 八不思議は世界に干渉できないし干渉されない。顕現前に出来るのは八不思議と繋がりがあるものだけだ。

 そして、ここで全てが終わるはずなんだ。

「……また、会ったわね」

 間宮が振り返ることもなく私に声をかけてきた。来ると分かっていたのか、それとも私以外に話しかける人がいないからなのか。

「そうね。昨日ぶり、ね」

「ええ。そんなに急いでどうかしたの?」

 ゆっくりと彼女が振り向く。ゆらりゆらり風に揺られる彼女の髪先が、束を作っては細かく別れて。それはまるで生きているかのようだった。彼女はまだ生きていないのに。

「まだ、私を殺そうとでもするつもり?」

 間宮はやれやれといった様子で溜め息を吐いた。半開きになった目蓋から見下げる目線を投げかける。

「だから無駄だって言ったでしょ?私は現世の事象では干渉できないんだから」

「……そうね。それについては本当に驚いたわ」

 会話に関係なく彼女との距離を詰めていく。間宮は自分に干渉できないと自身を持っているのか、私が近づいても顔色一つ変えることなく立ち尽くしている。

「ところで間宮、私分かったの。どうしてあなたのことが見えるのか」

 すると彼女は眉を寄せて私を振り向いた。ああ、やっと私に興味を向けてくれたのかな。

「……どうして?」

「それを今から、分からせてあげる」

 私と間宮の視線がぶつかる。睨みつけた視線は敵意となって互いを刺している。

 手を伸ばせば届く距離。僅か1メートルほどの距離で、私たちは向き合っている。それでも彼女は少しの恐れもない。飄々とした顔つきで私の前に立ち阻んでいる。

 私はその顔を睨みつけて、手の平を握りしめて────。



 ────横っ面に、拳を振り抜いてやった。



 間宮が目の前から消えた。すぐ横に倒れているからだ。目を見開いて、あらぬ方向に目線が飛んでいて。未だに間宮は何をされたのか理解できていない。そう顔が言っていた。

 今さら拳の先の骨が痛みだした。振り切った腕が勢いを止めきれずに、体までもが少し持っていかれた。左足を踏み出して姿勢を立て直す。

「────いっ、痛ぁあああぁあぃいい!!」

 喉の張り裂けるような絶叫が耳をつんざく。

「痛い!痛い!痛いよう!!」

 左の頬を押さえながら怯えた目で私を見てくる。荒れ狂うような呼吸をしながら目に涙を浮かべている。その痛みというのは想像を絶するものだろう。なぜなら顕現もしていない間宮は痛みなんてものは感じたことがないだろうから。

「どうして!?どうしてなの!?私は八不思議で、しかもまだ顕現していないのよ!?私を殴ることなんて出来るはずがないじゃない!」

 下に倒れている間宮に近づいていく。怯えた子犬のように足をバタつかせながら後退をしていく。

「私はね、八不思議なの。八不思議から生み出された存在なの」

「は、八不思議!?───そう、だから…だから私のことも見えるし、触れれるということね……」

 私が間宮を見下ろすように影を落とす。間宮は幾分落ち着きを取り戻してはいるが、頬の痛みが尾を引いているのか目蓋は弱腰に震えている。

「そうよ。だから殴ればあなたに痛みを感じさせることもできるし───殺すことだって出来るの」

 目に見えて間宮の血の気が退いていく。私が間宮を殴れるという事実と、躊躇いもなく人を殺す事が出来る人だと知っているから。

「ま、待ってよ!私を殺したところで何も意味はないのよ!?福地さんの目が戻ってくることはないのよ!?」

 足をじわりじわりと動かして私から遠ざかっていく。それを逃さないよう距離を離さずに足を進ませる。

「……そうね。私ももともと八不思議だった身。だからきっと八不思議の存在を殺したところで取り戻せないことは分かっているわ」

「ならっ───!」

「でもね?それだけじゃないのよ。私が殺そうとする理由はね」

 足を止めて間宮を下に見る。間宮も何度も瞬きを繰り返す。

 きっと彼女には想像も付かないだろう。それは私だから分かる。八不思議の私だから、理由が見えるんだ。

「それはね───耐えられないのよ、八不思議として生まれたことが」

 また風が吹き始めた。私達の間を拭い去るように風が舞う。段々と風は弱まってまた髪は垂直に落ちていった。

「分からないでしょ?八不思議は生まれながらにして宿命を持っている。私は友人と家族がいない。そしてあなたは病弱という体質。それがどれだけ苦しめてくるか、想像はついてる?」

「し、知らないわよ!私は!私は病弱だろうがなんだろうが、生まれて世界に足を付けたいの!学校以外の外の世界にも出てみたいの!もっと色んな人と話してみたいの!あなただって分かってるでしょう!?今がどれだけ孤独かってことに!」

 間宮が目を尖らせて私に突っかかってくる。心からの叫びのようで、間宮がどれだけ顕現することに憧れているか、人間になりたいかが伝わってくる。

 間宮は左手がないから立ち上がる時にフラついていたが、すぐに私に右手で掴みかかってきた。

「それはあなたが友人や家族がいないという八不思議だったからでしょう!?だから孤独な生活を強いられて、それが苦痛だったんでしょう!?でも私は違うわ!私は病弱なだけ!あなたと違って顕現すれば家族もいるし、友人だって作れる環境に生まれるのよ!」

 必死だ。今の縛られた世界を脱したくて、その先に待っているであろう世界に希望を馳せて、それに目指して今を生きている。だからこそ今も満足して過ごすことができるし、だからこそそれを否定されることが許せない。否定されることは過去から今までの自分の否定と同じ意味だからだ。でも……。

「本当にそう思う?病弱、その意味を浅く捉えすぎよ。病弱だと学校にも通えないだろうし、入院しっぱなしで家にも帰れないかもしれない。そんな中じゃあ友達なんて出来やしないだろうし、親とも良好な関係を築けるか怪しい。無論、外を自由に歩き回るだなんて夢のまた夢でしょうね」

 私だから分かる。友人と親がいない。その事実がどれほど的確に再現されたか。どれほど逆らえないものである宿命だと、私は経験してきた。

「だからきっとあなたは後悔する。生まれてきたことに後悔する。外にも出れる機会があるのに友人を作る機会もあるのに、それが出来ない。そのことがどれだけ苦しいことか、きっと分かるわ。私がそうだったから」

「勝手なことを言わないで!信じない!聞いてやらない!私はそんな風にならない!」

 それは駄々をこねる子供のよう。現実から目を逸らして、自分の殻に閉じこもる。きっと彼女も薄々気付いているんじゃないだろうか。でもそれを認めることは自分が許せない。そこから抜け出せなくいるんだ。

 全身で呼吸をしながら間宮はひたすら否定を重ねる。でもそれはもはや私に言っているようには見えなかった。自分に言い聞かせているように感じた。

「私はもうこんな不憫な存在を生み出したくないの」

 右足を前に出す。ヒッ、と喉の枯れたような声を間宮が上げる。

「そして友花みたいな悲しい人を増やしたくないの」

 左足を前に出す。間宮が柵に腰をぶつける。後ろに下がるスペースは、もうない。

「でも私が一番感じているのは────」

 彼女の襟を左手で掴む。間宮が音を立てて歯を噛む。溺れているかのような聞き取れないような声が漏れている。



「───友花を悲しませたこと。それが何よりも許せないの」



 右拳に血筋が浮かぶ。

 ああ、私の右手は男子から奪ったんだっけ。そんなことを思い出していた。





 錆びた鉄の匂い。鼻を突くような鈍麻な刺激臭。

 鼻の下の異物を腕で拭き取る。でも綺麗に取れることはなく、腕にその赤い跡が伸びただけだった。

 辺りが赤く染め上がられている。それは夕日みたいな淡い色じゃなくて、もっと鮮やかで黒色に澄んだ真紅の赤。それが屋上のタイルと私の四肢に染み渡っている。

 もう自分の右拳の感覚がない。痛いのか痺れているのか、それとも本当に右手があるのかさえ疑わしい。一応目を向けて見れば勿論付いているんだけど。

 右手から滴る血が自分の拳の傷からなのか、それともこの目の前の塊から付着したものなのか判断がつかない。そう、この────血と肉の塊。

 もとは間宮だったもの、のはずだ。もう傍から見ると誰か分からない。だからこれが間宮なのか尋ねられても確証はない。まあ間違ってはいないだろうけど。

 さて、これからどうするか。想像通りではあったがやっぱり友花の目は戻らなかった。左手に輝いているのは、いつも間近で見てきたもの。まさか今こうして手にするとは思ってもいなかったが。

「……友花っ………!」

 夕日の輝きを浴びて───友花の眼球が映えて光る。

 一抹の期待を抱いていた。もしかしたら目が戻るんじゃないかって。もしかしたら友花がまた元の生活を送れるようになるんじゃないかって。

 でもそんなに現実は甘くない。そんなことは私が一番知っているのに。それでもそれに縋らずにはいられなかった。

「……結局、私も間宮と変わらないのね…………」

 眼球の乗せている左手に目を向ける。これを持っていたところで役にも立たない。でもこれを捨てる勇気もない。こんな結果になってしまった今、何をすれば良いのか分からない。

 友花を巻き込んでしまって合わせる顔もなく、なけなしの希望も打ち砕かれて、そして結局はまた新しい七不思議の犠牲者を生み出す地盤を作っただけだ。私のやったことは全て悪い方向にしか向かっていない。

 もう陽もかなり沈んだ。間宮と対面してからさほど時間は経っていないだろうが、体感としては何時間にも感じられる。沈みかけの太陽は一層沈むのが早くなるからだろうか。

 何をするでもなく、ただそこに立っている。無気力に襲われて動けないでいた。

「───智音ちゃん!」

 そんな私の背中に、あの声がぶつかってきた。私を見つけてくれて受容してくれて友達になってくれて。私の人生の中で一番大切な存在───。

「……友花」

 振り向いたそこでは、友花が息を切らしていた。

 開け放たれた屋上の扉。そしてそのすぐ前にいる友花。きっと今ここに来たのだろう。それもかなり急いで。どうしてか理由はわからないけど、ここに来たんだ。

 でも今この屋上には────。

「────……っ!」

 友花が息を呑んで顔をしかめた。

 世界が真っ暗になってしまった。視覚も聴覚も何もかもが塞がれて世界から誰も消えたような、そんな閉塞感が胸を押しつぶしてきた。今私の置かれている状況を把握してしまって、それがどれだけ異様なことか、どれだけ────友花が恐れを抱くかが分かったからだ。

 目眩が襲ってくる。まともに姿勢を保つことが出来ない。千鳥足のような足取りで何とか踏みとどまる。

 何て言えばいい!?どう言えばこの場を逃れられる!?もし変なことを言えば友花は私のことなんて見限ってしまうだろう。でも嘘をつくのも私にとっては───!


「智音ちゃん!」


 友花は駆け寄ってきた。私の思考を打ち切るように。私の胸の中へと駆け込んで、飛び込んだんだ。

 私の腕にも服にも血はこびり付いている。私のすぐ後ろには間宮とさえ判別できないようなモノさえ転がっている。それでも友花は一切の遠慮なく、私に抱きついてきた。

「智音ちゃん!心配したんだよ!?電話でも不穏なこと言っていたし、途中で切るし!」

「え、え?友花!?」

「なんでいっつも私に言ってくれないの!?大事なことを一人でやっちゃうの!?私には言えないの!?私には言う価値もないの!?」

 止まらない言葉の濁流が友花から溢れてくる。言葉が口から出るのに合わせるように頭を振るっている。それだけ感情が激昂しているんだ。

「私がどれだけ心配したと思っているの!?私は智音ちゃんの親友なんだよ!?智音ちゃんが何をしようとしているのか、そんなことすぐに分かったよ!だから怖かったんだ!智音ちゃんが私みたいに傷ついちゃうんじゃないかって!」

 一気に吐き出した。友花の溜まりに溜まり込んでいた感情が堰を壊したかのようだった。

「……嫌だよ。私は絶対に嫌だ。智音ちゃんが傷ついてしまうところなんて絶対に嫌だ」

「そ、それは私も同じよ!私だって友花が傷つくのは嫌だし、だから友花の目を────」

「だからっ!どうして分かってくれないの!智音ちゃんが私のことを大切に思ってくれているのと同じくらいに───私も智音ちゃんのことが大事なの!」

 大きく見開かれた左目。涙を溜めた瞳に私の顔が映っている。

 ───そうか、だから友花はこんなに涙を浮かべているんだ。

 愛おしい。目の前の小さな女の子が、愛らしくて仕方ない。こんな友人を私は持っているんだ。こんな友人を私は悲しませてしまった。一度だけじゃなくて、二度も。

「───友花」

 友花を抱きしめよう…と思ったが、左手には眼球を抱えているから出来なくて。しかたなく右手の血のついていない手の平で、友花の頬を撫でる。くすぐったそうに頬を染めて目を瞑った。

「ごめんね?私気が利かなくて」

「……ううん。いつもお世話になってるし、助けてもらっていて私は嬉しいよ。でもね?もう少し私に気を配ってくれたら、もっと嬉しいかな?」

「こいつぅー…言うなあ?」

「と、智音ちゃん!ほっぺた強く押しすぎだよ!」

 友花が笑う。私も笑う。今までのことも、これからのことも何も考えずに笑っている。ただひたすらに友花と笑い会えることが、何よりも嬉しかった。

「あれ、智音ちゃん?左手どうし、たの……」

 私がずっと左手を背中で隠していたから不思議に思ったのか、顔を私の肩から覗かせて左手を確認してきた。その瞬間に目が見開かれて、一歩後ずさった。友花がこれまでとは一線を画した反応を見せた。

「あっ!こ、これは……」

 急いでまた背中に隠す。友花の驚きを隠せない表情が、また私の脈拍を細やかに刻んでいく。

 そうだ、忘れていた。ここは屋上だった。少し前に私が───間宮を殺した、屋上なんだ。

「……ねえ智音ちゃん。その左手、見せてくれないかな?」

「えっ、でもこれは……」

「見せてよ、智音ちゃん」

 友花からは聞き慣れない有無を言わせない言葉だった。友花なんていつもあしらえるのに、その隙さえ見つからない。

 でも、本当に見せていいのか?自分の中で葛藤が渦を巻く。友花はきっと見てしまっているんだろう。私の左手の中に、眼球が入っているということに。

 そして友花は気付いてもいるだろう。それが誰の目か、ということに。

「───お願い。見せて」

「う、うん……」

 唾を飲み込む。粘り気の強い唾が口の中で不快感を振りまく。

 拳を握ったままで左手を前に出す。これを開くと、そこに眼球がある。

 でも開かないと駄目なんだ。友花に、見せないと。

 息を思いっきり吸い、そして肺の底から吐いていく。それに合わせて少しずつ手を開いていく。指の隙間から見えたのは白濁の素地に夕日に照らされて赤色を帯びた、真ん丸の球体。その一方に黄色の円が彩られている。紛うことなき────友花の右目だ。

「……これは、もしかして…………」

 口が上手く開かなくて、首を振って応答をした。友花は怯えながらも自分自身の目を眺めていた。

「……そっか、そういうことなんだね」

 後ろで倒れている間宮を見て、全てを理解したように小さく笑顔を作った。でも楽しそうな気配は微塵もなくて、諦観のような笑みだった。

「これしか…思い付かなかったのよ」

 奥歯を噛みしめる。ギシギシと口の中が軋んで音を立てる。

「だってあと左手があの子に渡ったら完全に顕現してしまって、右目が戻ってくる可能性はゼロになる。だから急がなきゃならなかった!でも戻らなかった……!」

 もう友花の目が元に戻ることはないだろう。目を奪うというのは医療行為でどうにかなるものではない。なぜなら眼球は友花のものであっても、友花の右目は元から眼球がないということになっている。つまり右目周辺の神経も血管も未発達だ。

 だから元に戻すには超常的な力に頼るしかなかった。でも出来なかったんだ。

 そんな私に友花はそっと手を回してきた。彼女に抱かれる形となって、全身に友花の体温と香りを感じた。

「私はね、智音ちゃんが何を言っているのか分からない。きっと智音ちゃんは八不思議とかについて私よりも詳しく知っているんだね。あの子から聞いたのかな?だから私には分からない。智音ちゃんの言っていることも、それが正しいのかも」

 友花は私が八不思議であることを知らない。私が八不思議としての役割を終える瞬間に起きた世界の改変、常識の変換。それによって私は普通の高校生となり、不適な八不思議の記憶も無くなった。

 そしてそれは友花も同じ。友花の以前の記憶も新しい常識に書き換わって、私が最後に言った「八不思議」であるという記憶も無くなっている。だから私が八不思議であることも、それによって八不思議について詳しいということも知らないんだ。

「でもね、一つだけ分かることがあるの。それはね?智音ちゃんが考えに考え抜いて、迷いに迷い抜いて。その末に出した答えがこれ、だっていうことなんだよ」

「……どういうこと?」

「智音ちゃんの顔を見てれば分かるよ。今この状況が、智音ちゃんの考えた最善の判断なんだって。しかもそれが、私のためを思ってのことなんだってね」

 友花は私に微笑んでくれた。でもその表情には複雑な感情が入り乱れていた。戸惑いもあっただろう、恐怖も不安も。今すぐ逃げたしたいかもしれなかった。

 でもここにいてくれている。私の側にいてくれている。私を、信じてくれている。


 だから───。


「ね、智音ちゃん。私の右目って元に戻るの?」

「……ううん、きっと無理ね」

「そっか……」


 だから私は───。


「……じゃあ捨てていいよ」

「……いいの?友花の目、なんだよ?」

「だって仕方ないじゃない。でも代わりに───」


 だから私は友花の───。


「───智音ちゃんは私を、捨てないでね?」



 ───右目に、なってやるんだ。






「これでいいの、かな?」

「ええ、これで……」

 友花は優しい子だ。だからもうこれ以上七不思議の犠牲者を出したくないと言ってきた。

 だから私たちは新聞づくりに取り組んだ。もう二度と七不思議の犠牲者を出さないために。八不思議なんて言うものを作り出さないために。

「八不思議はね、生徒全員の意志から生まれているの。だからその意志を阻害してやればいい。つまりは、こういうこと────」

 『号外 七不思議を作った八不思議の正体、明らかに!?』

 ゴシック体でデカデカと新聞の見出しを飾っている。友花の家で一晩で作り上げた新聞だ。

「つまり『七不思議を作ったのは、誰?』という疑問があるから八不思議が生まれる。ならその答えを提供してやればいい。そしたらそんな疑問抱かなくなるわ。だって答えを知っているもの」

「でもこれ……ほとんど嘘っぱちだよ?」

「いーのいーの。どうせ誰もそんなところの正誤なんて確認しないわよ。それっぽいことをそれっぽく書いて、新聞というお硬い記事に載せてやれば簡単に信じ込むわよ」

「そんなものかなあ……」

 やけに心配性な素振りを見せている。まあ自分がその被害にあったのだから当然のことなのかもしれないが。

「大丈夫よ。だってメインは嘘っぱちでも、それを補強する例とかは事実だもの。説得力はあるわ。それに昔のことなんて誰もわからない。信じるしか無いのよ」

 時計を見ると朝の7時を回っている。昨日の夜から休み無しで新聞を作っていたのか。だからこそこんなに早く作れたんだが。

「それじゃあ私はそろそろ行くわね。友花は……」

「うん、義眼を作るために病院に行くから。午後には行けるかな?」

「そう。別に授業は休んじゃいなさい。そのまま部室に直行でいいわよ」

 新聞をカバンに詰めて立ち上がる。今から学校でコピーからの貼り付け地獄だ。でも印刷機の高速コピーを見ているのはなんだか面白い。頭空っぽにして楽しめるサーカスみたい。

「もう……、智音ちゃんは悪い子だなあ」

「あら?私が真面目だったことなんてどれくらいあった?」

 友花の部屋から出る。友花も私の後ろを着いてきて、2人で玄関に並んだ。私は玄関土間で靴に足を入れて、つま先を地面に叩いて踵まできちんと履いた。

「ふふっ。それもそうかもね。それじゃあね、智音ちゃん」

「また、学校でね」

 玄関を開けると光が差し込んできた。太陽で明るく照らされている道には、活気も人も溢れていた。昨日までのことが嘘だったかのような、晴天。

 もちろん嘘なんかじゃない。今もまだ続いている。それも爪痕を深く残して。

 いつの間にかバッグの取っ手を強く握ってしまっていた。



 だから私は暇で暇でしょうがない。だからというのは友花がいないから。

 朝一で新聞をコピーして貼り付けて。しかも途中で教師に許可なく張るなと言われた。新聞部は歴史だけはあるのでお咎めはなかったけど。ほんと面倒くさい。

「……やっと終わった」

 友花のいない退屈で無生産で意味のない時間に終止符を打たれた。やっと授業が終わったんだ。友花は先ほどメールで言っていたが部室には来れるらしい。ならば私も行って友花を待つとしようか。

 さっさと荷物をまとめて教室を後にする。

「───ちょっと待って!」

 何よ何よ何なのよ。正直昨日からの怒涛の出来事の連続で疲れ果てているんだ。しかも授業中以外まともな睡眠が取れていないし。そんな私を呼び止めるのは───。

「……船木、か」

 右手を腰に当てて堂々と私の後ろに立っていた。場所は渡り廊下近くにの踊り場。不思議と私と船木はここに縁があるみたい。

「ねえ聞きたいことがあるんだけど」

 乱暴な大股で距離を詰めてくる。私は一歩も引かずにそれを真正面から睨む。

 火花が散るほどの距離まで近づいて、船木は思いっきり眉を寄せながら話し出した。

「なんで3日も福地さん来てないの?おかしいでしょ。いっつも元気に学校に来ているのに」

 船木と以前話した時には、後ろに間宮がいた。でも船木には間宮の姿が見えていなかった。船木もまた、目を欠損しているのにだ。

「そりゃ休む時だってあるでしょ?友花だって人間なのよ」

「はぐらかさないで!どうせアンタが余計なことでもしたんでしょ!なにか傷つけたりしたんでしょ!」

 それは当たり前だ。だって船木の目は───私の右目、なんだから。

 船木もまた七不思議の被害者だ。でも友花とはまた違う。友花は間宮の被害者。船木は───私の被害者。彼女の右目が、私の右目なんだ。

 そして以前、私が八不思議として存在していた頃、船木は私のことを憎んでいた。そんなこと言うまでもない、右目を奪われたんだから。でも何かしても私から目を奪えるわけでもない。だから憎んで恨んで殺意を抱いて。

 でもその記憶は無くなってしまった。私が八不思議から普通の人間となった時に、世界の常識が変わった。私が八不思議であったという事実が消えたんだ。友花が以前の七不思議の記憶をなくしていたのも、その結果として私と友人になったからだろう。そんな風に私が八不思議であったために抱いていた憎悪の感情は、船木から消えた。

 でも船木から私に対しての憎悪の感情は消えることはない。だから「八不思議としての私」ではなく「普通の私」に対して憎悪を持つようになった。でもその理由は「右目を奪われた」からではなくなった。

 そしてその理由として選ばれたのが────友花だったんだ。

「……ねえ船木さん、一つ質問していいかしら?」

 距離を詰めていく。今まで船木に突っかかることはしてなかったからか、少し船木はたじろいだ。

「な、何よ?さっさと言いなさいよ」

「友花がクラスメイトたちに良く思われていないのは知っているわよね?」

 すると船木は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「…そんなこと知っているに決まっているでしょ?ホント憎たらしい奴ら……」

「じゃああなたは友花が虐められている間、何してたの?」

 それを聞いて船木が一気に顔を険しくした。

「私だって事態を好転させるようなことしたかったわよ!でも!でも私みたいな中途半端な奴が何かしたところで意味もないし、むしろ悪化させてしまうだけだから!だからっ!私は……!」

 ああ、本当に船木は友花のことが好きなんだろうな。友花を守れなかったこと、守る力がない自分を嫌っているから。でも……。

「それは今のあなたの思いでしょ?私が聞きたかったのは昔のこと。そうね、ちょうど半年くらい前───私と友花が話すようになった、その前のことよ」

「半年くらい、前?関係ないわよ、今も昔も。だって私は……。私、は…………」

 みるみる船木の顔が青ざめていく。口は呆けているように開いて、息ができていないかのように顎が頼りなく動き続けている。

 私が八不思議の人間でなくなった時に、出来たものが友花という友人だ。だから八不思議の代替としては分かりやすくやりやすい事象だった。

 だから私への恨みの理由が「右目を奪った」ことから、「友花を奪った」ことに変わってしまったんだ。まあ元々あんたの物でもないけど。

「……え?嘘…嘘嘘嘘。私が福地さんのことを……?そんな訳ないそんな筈ない、ありえないありえない。だって私はずっと福地さんのことが好きで愛していて、だから嫌味を言うことも陰口を叩くこともそんな奴らと仲良くすることも!でも、でもこれは……!」

 船木は頭を抱えながら悶え苦しんでいる。

 船木は私と違って完全に普通の人間だから記憶が元に戻ることはないだろう。でも記憶の断片は見え隠れしているんだ。それを思い出してしまって今の自分を苦しめている。

 船木は変哲のない生徒だ。だからその考え方や行動はクラスの意志の流れに沿ってしまう。友花を虐めるのが当たり前であったなら、船木だって迷うことなく参加していたはずだ。そしてその事実の記憶が今の自分と乖離しすぎていて戸惑っているんだ。

 でもそんなこと私には関係がない。私は気にせず口を動かした。

「それが、あなたなのよ。本当の、あなた」

「嘘よ嘘!だって────」

 船木の手の甲に、手を差し伸べた。乱れた髪のまま船木は私に目を向けた。


「だから友花のことは任せなさい。私が友花のことを守ってみせる、支えてみせる。私の命を掛けて、友花の右目になってみせる。────あなたの右目を通して、ね」


 そのまま私は船木に背中を向けて職員室へと歩く。振り返ることなんてしない。私には友花以外興味はないのだから。

 そして謝ることもしない。友花を貶め入れた奴に、どうして頭を下げれるか。感謝だって、するわけない。

「───あれ?智音ちゃん?」

 部室の前に来たところで、あの声が廊下の端から聞こえてきた。

「───友花」

 右目の包帯は眼帯に変わっており、表情は明るくて元気一杯の声色だった。小走りで私のところまで近づいてきた。

「思ったより早いわね」

「まあね。ちょっと走ってきたから」

「そうなの?でもすることもないわよ。もう新聞は貼り終えたし」

「ちっちっち。まだまだ智音ちゃんは甘ちゃんだねえ」

 ビシッと人差し指で私を指差した。その勢いで友花の髪先が揺れ動く。

「今度は秋季号を作るんだよ!どんどん新しい新聞を作らないと!それが新聞部なんだから!」

「うっわ、めんど……」

「なっ!?分かっていたけど言われると傷つくな……」

「まあ好きにやりなさい。話くらいは聞いてあげるわ」

「……へへへ。ありがとね」

 でも利用はしてやる。あいつの右目を友花のために。友花のためなら、何だって惜しくないし構わない。

 鍵を回した。音を立てて施錠が外れる。

 私達の部活が、また始まる。


 私達2人で、ずっと進んでいくんだ。








「……やっぱりおかしい」

 学校新聞を読み返している彼女がそう呟いた。

「何が?」

「この八不思議の記事。当分前の記事で、これには七不思議を作った人の正体が書いてあるんだけど、かなり情報不足なんだ」

 新聞を受け取って目を通す。

「……確かに。そこだけ曖昧な感じがするわね」

「他はちゃんとしてるのにね。変な感じがする」

「時間がなかったのかしら。それともデマでも注目を集めたかったのかしら」

 彼女は唇をすぼめながら唸っている。彼女のいつもの癖だ。

「いずれにしても、これは調べる価値がありそうだね。とりあえず今回の新聞の見出は───」


 ───七不思議を作った人物 未だ不明、でどう?


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七不思議の八つ目 河原セイ @kawahara_sei

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