七不思議の八つ目 中




「簡単に言うと私は────八不思議なんだよ」

 まるで、今日の晩ご飯はカレーだよ!みたいな軽いノリで間宮は口に出した。

「……は?」

 対する私は頭が痛い。今さっきは船木に同性愛暴露されて、今度は間宮が八不思議でしたー!?……長い人生の中、こんな濃い一日は初めてだ。

「まず八不思議──いえ、七不思議については知ってるかしら?」

「ちょうどタイムリーに新聞部で扱っていてね……。恐らく今なら学校の中でも指折りで詳しいわよ」

 勿論その一番は友花になるわけだが。というか友花の域はもう専門家だ。大学で教壇に立って生徒に講義するレベル。

「あら、そうなの?それなら話は早いわ。私はいわゆる八不思議、なのよ」

「あれでしょ?七不思議を作った人。誰か分からないけどっていう」

 コクリと間宮は頷いた。それにしても言っていることがかなりおかしい。

 だって間宮を七不思議を人物だと仮に仮定しても、七不思議は大昔からある伝承。こんな齢15くらいの女の子が作ったなんて矛盾がすぎるにも程がある。

「あら、そんな怪訝な顔をしないでも。そりゃあ信じられないってことくらい私だって分かるわ」

「じゃあどう説明してくれるの?実は間宮はすっごいおばあちゃんだったとか?」

「ふふっ、そんな訳無いでしょう?むしろ生まれる前の胎児みたいなものよ」

 そう言って笑う彼女が八不思議とか言う意味が分からず信じられず、でも船木とのやり取りを思い出したら疑念を払拭しきれない。

「まず分かってほしいことは、私は──人じゃない。私は七不思議を作ったという人の想像によって作り出された───概念、なの」

 あーーー。甘いものが食べたい。一口で糖分過多になって吐き気を催してしまうほどの甘いものが食べたい。そのくらい頭が糖分を欲している。

「あなた達は色々想像しているでしょ?どんな人が七不思議を作ったのか、何故作ったのかって」

「あーうん、そうだね。友達がいないとか、病弱とか、身体……障害者、とか───」

 震えてしまった。そうだ、友花は言っていた。どんな人が七不思議を作ったかっていう噂には色々な種類があるって。その中に確かにあった。───身体障害者の噂が。

「まず七不思議を本当に作った人だけど、恐らくそんな人はいない。七不思議は色んな人が見聞きしたものや経験した物語が少しずつ蓄積されていって、その結果に出来たものが七不思議になった。だから特定の一人が七つもの逸話を作ったとは考えにくい」

 それには同意をする。実際に七不思議を一人で作ったとは思っていない。友花もきっとそれは同じだろう。

「でも誰もがこれを一人が作ったと思い込んでいる。いえ、正確にはそっちの方が楽しいと思っているのかしらね。きっと七不思議を娯楽の一つだと思い込んでいるから、その設定も面白いものにしたかったんでしょう」

 別に間宮のことを完全に肯定するわけではないが、もしそうだとするなら友花が考えた内容はかなり近いものだ。むしろそこまで考え詰めたものだと思う。その知力をテストに回せばもっと良い点取れるだろうに。

「でもそんな人物はいない。でも皆はそんな人物がほしい。そんな妄想と現実の矛盾を埋めるために生み出されたのが───私、なのよ」

 間宮が自分の手を自信の胸の押し当てる。ここに私はいるのだと、そう主張しているようにも見える。

 この間にも視界の端には色々な生徒が見える。下校する人、部活に向かう人。多くの人が廊下を通り過ぎ、中には渡り廊下を通った人もいた。でも誰も彼女の話に耳を傾けなかった。目さえ向けなかった。まるでそんな人も声も存在しないと言うかのように。

「そして私は妄想から生み出された存在だといったけど、これは皆が同じ一つのことを考えたから私が生まれたの。大勢が一つの思考を持つ。するとその思考に流れが出来て、思考が力を持ち始める。そしてその思考が新しい概念を形成していって──」

「───あー!分かった!分かったもう十分!もう十分だから!」

 そんな間宮の語りを私は大声で遮った。ただ話を聞いていただけなのに肩で息をしてしまっている。なんだこの疲労感。

 間宮の方を見ると目を真ん丸にして、私の様子がまるで理解できていないようだった。こんな可読不能な異国語みたいなのをずっと聞いていれる訳ないでしょ!?

「うん!間宮がどうして生まれたかってのは大体分かったから、次は私がどうして間宮のこと、八不思議の概念なんかが見えるのかを教えて頂戴?」

 むしろそっちのほうが本命なのだ。概念とか意志の流れとか哲学の授業か!私が一番に知りたいのは、どうして私だけには間宮が見えているのか。それが分かれば後は追々でいい。

 すると間宮はまたいつものように手すりに手をかけて、奥に広がっている街並みに目線を投げた。そしてその滑らかな唇を動かした。

「────さあ?」

 ……冗談抜きでズッコケそうになった。……はい?さあ、って!?

「分からないわよ。どうして見えるのかなんて。きっとあなたは霊能力でもあるのよ」

「何でよ何でそうなるの!?無いわよ!多分!……え!?本当に分からないの!?」

「分からないものは分からないわよ」

 ちょっと拗ねたように間宮が呟く。その唇を尖らせるやつ、容姿と相まって凄く可愛いんだけど。───じゃなくて!

「だって普通は見えるわけがないもの。私はまだ八不思議としては不完全だから普通の人には見えないのよ。でも今でも見えるってことは、見える人には見えるってことなんでしょ。知らないけど」

「私だって知らないわよ……。え?そうなの?実は霊能力者なの?パイロキネシスでも使えるの?」

「それは話が飛躍しすぎてると思うけど……」

 もう意味が分からないわ……。額に手を添えても頭痛は消えなかった。間宮は本当に何も知らないのか、困ったような顔をしている。

「とにかくそういうことだとして納得する他ないわ。どうせ大した理由じゃないでしょうし」

「私にとっては重大なんだからね?」

 けろっと間宮は水に流そうとしているが、当事者からしてみればそんな話じゃない。確かにそれが分かったところで、とは思うけど……。

 ───ああもう、グダグダ考えていても仕方ない。時間も勿体無い。することもないけど!

 そういえば友花のことすっかり忘れてた。まだ部室行ってないじゃん。……ん?部活?

 一つのことが閃いた。その対象である間宮へとゆっくり目を動かす。───ちょっと実験をしてみようか。間宮は無言で首を横に傾けた。



「ういーっす」

 新聞部のドアを開ける。いつもより10分ほど遅れての部室はやっぱり代わり映えない。いつもと違うところといえば、中央の机に友花がばたんきゅ〜していることくらいだ。

「ほらほら何してんのよ友花」

 椅子に座ってしおれたワカメに声を掛ける。友花は伏せたまま悔しさの滲んだ声を出した。

「聞いてよ智音ちゃん……。今回も部室の鍵を取りに行くついでにさ、また七不思議の調査の交渉をしたんだけどさ、やっぱり頑固頭でさあ……」

「そりゃ夜に勝手に学校の中歩き回るだなんて、いくら部活の一環とはいえ許可は降りにくいでしょうね」

「わかってるんだけどさ〜」

 友花がのろのろと体を起こしていく。つまらなそうな表情で私を一瞥した後、潰した息を吐きだした。

「分かってはいるんだけどさ〜」

 何度も何度も溜め息混じりに友花が愚痴をこぼしている。私に対して積もりに積もった愚痴を漏らしていく。でもその愚痴は私にだけに言っているようだった。船木同様───後ろに立っている間宮のことは見えていないようだった。

「どうにか良い方法ないかな智音ちゃん」

「さあねえ、難しいとは思うけど」

 横目でちらと間宮の様子を見てみる。彼女も自分のことが友花には見えないと悟ったのか、部室の中をふらふらと歩いている。腰の後ろに手を回して、少し前屈みになりながら棚の中を覗いている。

 ───本当に、見えてないんだ。確かにそこにいるのに、友花は気付く素振りもない。部室には私と二人きりだと思っていて、延々と愚痴を言うだけ。なおさら船木と友花が間宮のことが見えないとするならば、そろそろ信じなければならないのかもしれない。

 間宮は───八不思議であると。もしくは幽霊かな。私霊能力者らしいし。

「どうしたの智音ちゃん?後ろに何かある?」

 私の視線の方向を疑問に思われたか、友花が振り返る。でも何もないようにまた私を見た。

「───いいえ、何もないわ。変な虫がいるかと思ったけど、気のせいだったみたい」

「誰が虫よ、誰が」

 その反感の声は、私にだけ聞こえていた。

 間宮はしばらく部室をさまよっていたが、気付いた時には消えていた。さながら幽霊のように。



「───うん!やっぱりもう一度交渉してみるよ!」

 二人で部室から出たところで友花が意気込みを顕わにした。もう何度目かというツッコミを入れたくもなるが、そこが友花の特長でもある。

「うん、いいんじゃない?」

 それより今日の晩ご飯は何にしよう。たしか今日はスーパーの揚げ物が安いはず。それでも買えばいいかな。

「もー、すっごい上の空じゃない」

「いやいやそんなことないって。あれ?でも7時以降のほうがさらに割引されてるはずだから……」

「やっぱり関係ないこと考えてる!」

 うおっ、急に大きな声出すとびっくりするじゃない。友花は私から部室の鍵をふんだくって、腕組みをして私に向き合った。

「もういいよ!今日は交渉ついでに私が鍵返すからもう帰っていいよ!」

 そんな怒ることでもないだろうに。でも鍵を返してくれるなら任せるに越したことはない。

「そう?ありがとうね」

「ふんっ!───どういたしまして」

 友花は顔を和らげて私に笑いかけてきた。友花は私がからかうとすぐに怒る。でもそれと同じくらいすぐに機嫌を治してもくれる。だから───。

「───また明日ね」

 気づくと友花の頭を撫でていた。一瞬友花は驚きで目を見開いたが、すぐにまた微笑みを浮かべた。

「うん、また明日」

 友花は後ろを向いてすっと離れた。私の出していた手から友花が離れて、空中に手だけが残された。そのままその手を垂直に立てて、友花に手を振った。友花もそれを視認すると足は止めないままに手を振り返した。

 ───どうしてそんなことをしてしまったんだろう。別にそのまま別れればよかった。でも気付いたら手を伸ばしていた。友花を撫でていた。別に友花を撫でることはよくある。それだけで恥ずかしそうにはにかむ友花が見ていて楽しいからだ。でも、自分でも不思議に思うくらいの無意識だった。

 ちょうど友花が曲がり角を曲がって階段を降りていった。もう、友花の姿は見えない。自分の手を眺めつつ、ふっと一笑に伏した。

 そんなこと考えてどうしたっていうの。無駄なことを考えてると思って頭を振る。くだらないことだ。撫でたって良いじゃないか、友花だもの。

 私も体を反転させて階段を降り始める。誰もいない階段に私の靴音だけが反響していた。



 チャイムが鳴り響いた。一限の開始を告げるチャイムが。まだ教師はやってきていないが、それより気掛かりなことがあった。

 まだ、いないんだ。いっつも元気な声ではしゃいで、無駄な笑顔を振りまいて、私の周りを和ませてくれる───友花が。

 友花は今まで学校を休んだことがない。休んだとしても一言くらい連絡があってもいいだろう。徒歩通学だから遅れる理由もない。こんな普通の日に遅れるとしたら、まあ考え様によっては幾らでもあるが、そんなことまで考えていたら生きていけない。杞憂なはずだ。

 でも───どうしてか胸の焦燥感が、暴れまわって仕方がないんだ。



 ついに友花が姿を見せなかった。一限が終わっても何も連絡もない。いくらなんでも不審じゃないか?

 辺りを見回しても友花の姿はない。それどころかクラスメイト達は楽しそうに、何事もないかのように談笑をしている。ドラマの話、漫画の話、テストの話、進路の話───。皆が皆バラバラの話題を話している。でも、一つも友花の話は出てこない。

 それが余計に私を苛立たせる。友花がいないのに、いないことがまるで当たり前のように世界は動いている。友花がいない世界だなんて世界じゃない。認めない。なくたってもいい。そう私は思っているのに、世界はまったく逆に動いている。それが私に虫唾を走らせる。

 力任せに立ち上がる。勢い良く手で机を叩いから弾けた音がして、それが教室の喧騒を一気に殺した。乱暴にバッグを手にとって教室から出ていく。クラスメイトからの視線を一斉に感じるがそんなことを気にしている余裕はない。今すぐ確認しに行く。友花に何があったのか───。

 携帯を開いて一応のメールを送る。でもその返信を待つつもりはない。もちろん返信があれば安心はできるが、返信を待ちはしない。今すぐ友花の家に言って、そして現状を確認する。

 早歩きで歩を進めていく。杞憂であるならばそれでいい。でも、どうしてだろう───胸の中のざわめきが私を掴んで離さないんだ。

 まだ日が上がりきっていない平日、私は学校から抜け出た。



「ここ、ね……」

 目の前にあるのは一軒家。庭と呼べるほどの大層なものはないが、駐車場はあって1台が今も止まっている。ここが友花の家。何度か行ったことがある。

 携帯を開いて確認してみるが、メールは返されていない。家にいればいいんだけど……。

 インターホンに指をかけて第一関節が曲がるくらいに押し込む。家の中で甲高い電子音が鳴ったのが聞こえた。数秒して家の中から足音が近づいてくるのが分かった。

「はいはいどちらさまでしょうか───あら?」

 出迎えてくれたのはエプロン姿の若干若く見える女性だった。私は会釈をした。

「お久しぶりです、お母さん」

「ああ智音ちゃん、久しぶりね」

 どこかあどけなさを残すこの女性は、友花の母親だ。やっぱりこうして見ると友花は母親似だと思う。初めは友花のお母さんと丁寧に呼んでいたが、「お母さんでいいわよっ!」とフランクに接する辺り性格も母親譲りだろう。

 お母さんは頬に手を当てて私の様子を窺ってきた。少し眉がハの字に広がっていて、ゆっくりと口を動かした。

「もしかすると……友花のことかしら?」

 私は首を縦に振った。するとお母さんは少し俯いてから玄関を更に大きく開いた。

「家に入って、くれるかしら?」

 その様子から明らかに何かを知っていることは十分に察することが出来た。私は招かれるがまま、敷居を跨いだ。



「友花は家にいるんですか?」

 木で作られた急勾配の階段を上っていく。一戸建てで出来るだけ家を広くするための工夫だろうが、手すりを持ってなければ足元が危うくなる。

「ええ。いるにはいるのだけれど……様子が変なの」

「変、とは?」

 階段を登って少しのところでお母さんが足を止めた。目の前には扉があってその中は部屋が広がっている。言うまでもない、友花の部屋だ。

「何か変な夢でも見たんじゃないかと思うんだけど……、出来れば直接話を聞いて宥めてくれないかしら。きっと智音ちゃんなら大丈夫だと思うから」

 ───何を言っているのだろうか。変な夢?なだめる?想像が付かない。ただひたすらに不穏な空気が流れる。

 コンコン。お母さんがドアをノックした。中にいる友花に向かって。

「友花ー?智音ちゃんが心配して来てくれたわよー」

「……智音ちゃん?」

 その声に反応して返されたのは、消え入りそうなほど小さな声だった。あの友花とは、思う由もないほどの。

 お母さんはドアを手の平で指して、私にドアの前を譲った。お母さんは一礼を私にしてから階段を降りていった。友花のことを私に任せてくれたんだろう。自分では手に負えなかったという言外の主張が、友花の様子が一層気にならせた。

 ドアに顔を近づけて息を吸い込む。

「───ええ、そうよ。友花……おはよう」

 無言が辺りを支配した。耳を澄ますと中から衣擦れの音が聞こえる。確かにそこにいるのにどうしてか言葉を返してはくれない。それが私の頭を揺さぶる。

「……入って、いいかしら?」

 ドアに手を触れる。木目が指の腹から伝わってきて、そのざらつきが私の中まで伝わってくる。

「………うん」

 とても弱い。とても小さい。どうしてこんなに艶めきがないのか。どうしてそんなに泣きそうなのか。

 動悸が早くなる。金属のドアノブの冷たさが肩へと掛けあげる。

 息を止めてゆっくり手を捻った。

 部屋は暗かった。どうしてか電気がついていなかった。水色のカーテンは締め切られていて、薄い藍色の世界が広がっていた。その部屋の端で、世界に見捨てられたような風貌で、彼女は沈んでいた。顔色が見えないくらい、友花は小さく沈んでいた。

 信じられなかった。目の前の女の子が友花だなんて。どんな事があっても持ち前の元気で私を勇気づけてくれたのに。そんな花が、枯れている。

「……智音、ちゃん…………」

 目が、死んでいた。どうしてか右目は両手で押さえていて分からなかったが、左目の光はなかった。底なし沼に飲み込まれてしまいそうなほど、目に輝きがなかった。

 ゆっくり、足の裏にフローリングの硬さを感じながら歩いていく。友花の前で屈んで顔を近づける。

 間違いない、友花だ。顔つきも髪も香りも。どこを取っても私の大切な友花だ。それなのに────。

「…………どうして、怯えてるの?」

 私の声に肩をビクつかせた。私の顔を見ているだけで、友花の顔が歪んでいく。揺れているんだ。私のことで友花が揺れている。どうして。どうして!?

「……わ、私もね?智音ちゃんのことを信じたいんだよ?で、でも……でも!」

 震える唇から言葉を紡いでいく。ボロボロの布切れのようで引っ張ってしまえば破れてしまいそうな、そんな脆さを孕んでいる。

「でもっ!でもね!?お父さんもお母さんも!───信じてくれなかったんだよ」

 何の話をしているんだ?何を言ってるんだ?お父さん?お母さん!?

 友花はどんどん縮こまって子供のように小さくなっていく。

「まるで私が初めっから間違っているみたいに!まるで私が狂ってるみたいに!」

 何を言えばいい?何をすれば友花は信じてくれる?何を怖がっているんだ?何を恐れているんだ?何を───!?


 ───手が、伸びていた。


 手の平に髪の毛一本一本のきめ細やかさが伝わってくる。友花の震えも、息遣いも。

 それでも手を離さない。友花の頭から離さない。───撫でることを、やめない。

 何度も何度も。頭に沿って手で撫でていく。その度に友花が体を竦ませて、それでも物惜しげに求めてきて。

「………智音ちゃん」

「私はね、友花に何があったのかは分からない。でもね、これだけは覚えていて。私は────友花の親友、なんだから」

 一筋、水滴がこぼれ落ちた。

「だから───言ってくれないかしら?」

「────智音ちゃぁあああん!!!」

 飛びついてきた。首の後ろに手を回され抱きつかれた。突然の行動に支えきれなくて、尻餅を付いてしまった。

 友花が肩を震わせて泣きじゃくっている。上手く息が吸えないのか、途切れ途切れの呼吸を繰り返している。

 どうして友花が悲しんでいる?どうして友花が泣いている。?どうして友花を泣かせてしまっている?

 私は心に誓ったんじゃないのか?友花を悲しませないと、泣かせないと。それなのにどうして?私は一体────。

 何かが切れる音がした。友花の泣き声が遠くに聞こえる。私の中の何かが煮えくり返っている。胸を内側から叩いてくる。

 撫でた。友花の頭を。何度も何度も。友花が泣き止むまでずっと───。



「どう?落ち着いた?」

 ほんの少しだけ指を立てて下に引くと、友花の髪に櫛を通しているような触感になる。それをされると落ち着くのか、友花の呼吸も少しずつ整ってきた。

「う、ん……。…………ごめんね?」

 友花が鼻をすする音が耳元で聞こえてくる。ちょっとだけうるさい。

「いいよいいのよ。ゆっくりでいいからね?私はここにいるんだから」

「うん。うん……ありがと、智音ちゃん」

 ……うーん、なんだろ。ちょっとだけ気恥ずかしい気も。耳元で囁かれるからなおさら。

「……ねえ智音ちゃん。聞きたいことがあるんだけどね」

 声のトーンが変わった。軽快な声から一風変わって真剣な面持ちになった。私と顔を合わせるように向き合って、目を向き合わせた。左目の目頭が赤くなっている。

 …………?なんだろうか?不思議な感覚が襲ってきた。どこか変、だ。どことは明言しにくいが友花の顔に違和感を感じてしまった。そう、例えば───ずっと右目を閉じていることとか。

「智音ちゃんは、私の親友なんだよね?」

「あんまり連呼すると嘘っぱちみたく聞こえそうだけどね……」

 こそばゆさを隠すように頬を軽く掻く。

 そう言うと友花は私の顔を見て小さく口角を上げた。

「そうだよね。だって私達の出会いってそうだったものね」

「……そうね」

 本当に懐かしい。とは言ってもそんなに昔の話でもない。まだ半年程度しか経っていないんだから。でもそれが私達の出会い。それが私としての始まり。思わず私も吹き出してしまった。

 それにつられて友花も笑い出した。声を上げながら笑う友花を見てると、私も笑わずにはいられない。流石に声は出なくてもずっと頬が上がっているのが分かる。

「何笑ってるの智音ちゃん?」

「それは友花もでしょ?」

 ひとしきり笑った。私はそうでもなかったけど。友花は笑いすぎてちょっとだけ苦しそうだった。今さっきまでの曇った感情が吹き飛んでしまいそうなほど笑っていた。

 友花は左目に溜まっていた涙を指で拭き取った。そして目を大きく見開いて私に目線をぶつけてきた。

「───話、聞いてくれる?」

 そう言って首を可愛らしく傾けた友花は───。

「───もちろん」

 ───いつも通りの友花だった。

 そうして友花は私の手を取った。友花の手は僅かに震えていた。

「今さっきね、お父さんとお母さんにも言ったんだけど、信じてくれなくて。……ううん、違うかも。自分でも訳が分からなくて、もしかしたら間違ってるのは自分なんじゃないかって───」

「───友花」

 だから私は、その手を握り返した。両手で、包むように。

「何に悩んでいるのか私は分からない。でも、言ってみて?もし伝わらなくても、私は友花の側から離れはしないから」

 友花にとって私がどういう存在なのかは分からない。でも私にとって友花は何よりも大切な存在。離れるわけがない。

「じゃあさ───」

 友花の目に、力がこもる。

「────どこか変なところ、ある?」

「………はい?」

 ……頭?と即答しなかったことは自分で褒めてやってもいいかも。だって友花は至って真面目だから。ふざけてる様子なんてない。むしろ勇気を振り絞ったように息を呑んでいる。だから真面目に考えないと……。

「……いや、ぶっちゃけ今日の友花は変なところばっかりで、どこをピックアップすればいいのか分からないんだけど…………」

「あーははは……。それは、うん…ごめん。無いなら無いでいいからさ」

「いや謝られても…………」

 でもどこだろうか?友花が聞くことさえ躊躇ってしまうようなことだ。それほど大きな変化があったということ?それともとても些細で気が付かないほどのこと?

 必死になって考えていく。探り見るように目の端で友花の様子を見てみると、友花はすぐそれに気が付いて目を合わせた。────片方の目だけで。

 ………そういえばどうして友花はずっと右目を閉じているんだろう。部屋に入った時、右目をどうして両手で隠していたんだろう。どうして右目からは───涙が零れていないんだろう。

「……ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけどさ…………」

 友花が唾を飲み込んだ。自分の口は乾燥していて、言葉を出すのが上手くいかない。警鐘が鳴っている。怖い、聞くのが怖い。……怖い?聞くだけなのに?

「…………右目、どうしたの?」

 時計の秒針だけが動いている。音のない部屋の中で等間隔に機械仕掛けの音だけが響いている。

 友花は目を大きく跳ね上がらせた。そのまま眉が生きているようにしならせて、瞳を潤ませて。そして───。

「───うっ、ううぅ……」

「ちょっ!?泣く事ないじゃない!?」

 言葉も出さずに泣き始めた。咄嗟に友花の肩を支えると、喃語のような涙声を発しながら首だけを横に振った。

「ちが、ちがう…の。う、嬉しくて…嬉しくて、なの……」

 目から溢れ出てくる涙がずっと下へと落ちている。すぐ側にあったティッシュを手繰り寄せて、数枚で涙を拭いてやる。

「だ、だってね?その…皆がおかしくなったのか、それ…とも、自分がおかしくなたのか分からなくって、でも!智音ちゃんが、言ってくれたから!言ってくれたから!」

「お、落ち着いてよ友花!?一体何のことを言ってるの!?」

 捲し立てるように友花が言葉を並べていく。整然のされていない内容でちっとも理解する事がままならない。

 友花は鼻をすすりながら私に顔を向けた。何度も深呼吸をして息を抑えようとしている。ちょうど三度目の息を吐き切った時、口を横一文字に噛みしめて赤く腫らした目を向けた。

「……私の右目ね───」

 やけに友花の声だけがはっきり聞こえていた。彼女の声が世界の全てだった。



「────無くなっちゃったの」



 だからその一言は理解を通り過ぎて。

 だからその意味は頭を殴りつけてきた。






「何を、言っているの…?」

 何分、いや何秒経っただろうか。無限とも感じられる時間の末、口から出たのはそんな片言だった。

 友花は何も言わずに右目の目蓋に指を合わせた。中指を下目蓋に、人差し指は上目蓋に。まるでピースでもしているかのようだった。

「……見ててね?」

 そうして友花は笑ったんだ。右目の目蓋を指で開きながら。

 その────右目のくり抜かれた、アンバランスな顔で。

 人は本当に驚いたら何も出来なくなる、それは本当のことらしい。唇も指の一本でさえも動かなくなっていた。ただ私は使い物にならない口を開けていることしか出来なかった。

 友花は目蓋を閉じた。俯き気味に下を見ながら、儚げに微笑を零した。

「これ、ね?朝起きて気付いたらなっていたんだ」

 淡々と語りだす。その言葉の羅列は機械音声のようで。

「実はね?昨日の帰りに先生から学校に夜入っても良いって許可もらえたんだ。だから私は智音ちゃんを驚かせてやろうって思って一人で取材に行ったの」

 疲れ果てた言葉の中には明るさを一切感じられなかった。

「で、その途中で七不思議を見てやろうって、ほら覚えてるかな?視聴覚室の鍵穴を覗くと、誰かと目が合うってやつ」

 悲壮さも憂いもない混ぜにした、厭世的な音色だ。

「そこで私は見ちゃったんだ。…………誰かの、瞳を」

 カタカタ歯が音立てて震えている。過呼吸のような激しい呼気で緊張が目に見えて伝わってくる。

「私はね、とても怖くなっちゃって、一目散に帰っちゃったんだ。そのまま何も考えずに布団に潜って、ぎゅっと目を閉じて、そのまま気がついたら朝になってたんだけど……」

 友花の物言いに喉が渇いていく。唾を飲み込むと粘膜が引っ掻かれたように痛みが走った。

「……それで朝になって、昨日のことは夢なのかなって思いながら鏡を見たんだよ。するとね───」

 一気に頭の中に墨が流れ落ちた。深淵の奥まで続くような暗闇が、私の感覚を閉じ込めた。

「────無かったの。目、が……」

 自分の心臓が小走りしていることに気付いた。瞬きも忘れて私は友花の話を聞いていた。

 右目の目蓋が微かに揺れている。でも中から覗かせているのは黄色の虹彩ではなく、真っ黒に染め上げられた空間だけ。人の顔を構成しているはずの右目が、そこにはない。

「初めは意味が分からなかった。でも目覚めていくうちに段々自分のことが分かってきて、その瞬間に……声を出しちゃったの。大声を出して、お父さんやお母さんにも聞こえたらしくてね、二階に駆け上がってきちゃった」

 あははと笑う友花は少しも楽しそうではなかった。

「だから私は言ったの。目がないって。右目がないって!……なのに。なのに!」

 ヒステリックに私に突っかかってくる。肩を掴まれて距離が狭くなる。肩に疼痛が走る。

「誰も!誰も信じてくれなかった!理解してくれなかった!私は元から右目がないって!目なんて元々無いって!そう二人共言ったの!おかしいのは私だって!頭が狂ってるのは私だって!そう目が言っていたの!言っていたの!」

「落ち着いて!友花!落ち着いて!」

 友花を抱き寄せて背中を手で撫でる。上から下にさするように、何度も何度も。

「ゆっくりでいいから。大丈夫。私はここにいるんだから」

 止めどなく吐かれる息が少しずつ勢いを無くしていく。徐々に安定していって、友花が長い吐息を出しきった。

「……うん、ごめんね智音ちゃん」

「ううん、気にしないで」

 最後にぽんぽんと背中を手の平で軽く叩いてから、また距離を取った。友花はぎこちなく笑ってからまた口を動かした。

「だから怖くなったの。私が間違ってるんじゃないかって。もしかしたら───私が間違ってるんじゃないかって。私の右目は初めからなかったんじゃないか、ってずっと思ってたの」

 そうなのか……。実の親に信じてもらえなくて、自分の記憶さえも疑うようになって。だから友花は閉じこもってしまった。自分の根底が崩されたようで、何も信じれなくなって。

「……だから怖かった。智音ちゃんにも否定されるんじゃないかって。私の友達にも否定されるんじゃないかって。本当に間違っているのは───私なんじゃないかって。そう、思ってたの」

 それがあの時の友花なんだ。部屋の隅で小さくなっていて、すべてのことを疑ってしまっていた。だからお母さんの声にも私の声にも反応できなくて、じっと篭っておくしか出来なかったんだ。

「…………でもね」

 友花が顔を上げた。その顔は打って変わっていた。光を灯した目で、口を上にあげて。そう、───希望に満ちた顔つきになっていた。

「智音ちゃんは違った。私の右目のことに気が付いてくれた。私が間違っているんじゃなかった。それを───智音ちゃんが証明してくれた。私を救ってくれた。私を────」

 私はぐちぐちぐちぐち言っているその友花の言葉を───両頬をつまんで黙らせた。友花は目を見張ったかと思うと、焦りながら言葉にならない言葉を紡ぎ出した。

「とゅ、ともねふぁん!?」

 手を上下にバタバタさせて抵抗の様子を見せてくるが、力がなさすぎてただ悪あがきしているようにしか見えない。

「にゃにをしてひるのかにゃ!?ともねふぁんは!?」

「ゆーうーか?何面倒なこと言ってるの?」

「め、面倒って!?」

 右手で私の腕が薙ぎ払われて、私の悪戯から振り解いた。ちゃんと内側から両手を押し出すあたり、武術の心得でもあるのかなって思った。

「酷くない!?だって私はこんなに感謝してるんだよ!授業はまだ終わってないのに、私のために早退してくれて!私の家まで来てくれた!それでっ!私の話を聞いてくれた!私の事が間違ってないと教えてくれた!私のことを────痛っ!」

 綺麗に決まったなあ私のチョップ。友花の髪の分け目に手の平が入り込んでいる。力は加減してないから正直痛いだろうと思う、南無。

「な、なんでぇ……?」

 あーあ、涙目になっちゃった。まあ元々涙流してたし、暴走気味だったし。肩を動かすほどに大きく溜め息を吐いた。

「だーかーら!面倒だって言ってるのよ!私は何か特別なことを思ってここに来たわけじゃないの!私が行きたかったから!ただそれだけなの!だから……別に感謝なんてしなくていいから」

 自分でも恥ずかしいことを言っているという自覚はある。気恥ずかしさが言ったあとに込み上げて来て、頭を掻きながらそっぽを向いた。

「それだけ……だから」

 目を少しだけ動かして友花の方を見てみる。ポカンと口を開けて私の顔を凝視している。すると急に破顔をして床に投げ捨てていた私の手を両手で取った。そのまま私の手を宝物のように抱え込んで、静かに目を閉じた。

「……そっか。うん、分かった。───ありがとね、智音ちゃん」

 その言葉はとても温かくて。

「だから礼なんて言わなくていいって言ってるのに……。───どういたしまして」

 智花の笑顔がとても眩しかった。



 腹部が軋むように痛い。なりふり構わず走っているからだろうけど、やっぱり体力は欲しいものだ。学校まで走るだけなのに足の筋肉も腱も裏も鈍痛がしている。

 でも今は歩く訳にはいかない。急がないと。一刻も早く、急がないと───!

 友花は言っていた。昨日七不思議の調査に行って、視聴覚室の七不思議に実際に遭遇した。そしてその後無我夢中で家に帰って朝起きたら右目がなくなっていた。そういう経緯だ。

 そして友花はこうも言った。七不思議を調査する中で自分と似たケースがあったと。自分の体の一部がなくなって、でもまるでそれが当たり前のような雰囲気になっていて。それを言い張っていたら最後には精神異常者のように扱われてしまったと。そういう学校新聞があったらしい。

 しかしその新聞の記者はその子は実際に昔から身体障害者であったという証拠を見つけており、というかそもそもその子には昔からの友人が多くいたため、その子の言っていることは的外れということは火を見るより明らかだったという。でも彼女は否定し続けたという。だからこそ腫れ物として見られるようになったんだ。

 でもその話が本当だとすると、今の友花と相似な点が見受けられる。例えば体の一部が失ったこと、そのことを本人は異常だと思っているが周囲は当たり前だと思っていること。どちらも友花が言っていたことだ。そして、私もそれを感じている。

 校門をくぐり抜けてグラウンドを駆け抜けていく。校庭で授業をしている生徒や教師の目線が向いてきたが、気にも止めずに校舎に入り込む。

 その脇にある職員室の扉の取っ手に手をかけて、思いっきり引き開ける。大きな音が職員室に響き渡って、一同が私を振り向き見てきた。

「すみません。新聞部の部室に忘れ物したので鍵貸してもらえないでしょうか?」

 最早お願いじゃないと思う、脅迫だ。それくらいの語気を強めて口にしていた。

「あ、ああ……」

 すぐ側にいた教頭がぎこちなく対応を始めた。横目でチラチラと私の顔を窺ってくるが、その時間さえも惜しい。自然と足首が動いて靴先で床を叩いてしまう。

「これ────」

「────ありがとうございました。失礼します」

 鍵を奪い取ると挨拶もそぞろのまま職員室から走り出す。階段を1段飛ばしで登っていって目的地へと急ぎ走る。2階、3階へと───。

 見慣れた扉が私の前に立ち塞がる。その鍵穴にステンレスの鍵を入れて半回転捻る。戸を開ききって中に進む。誰もいない部室。友花のいない部室。そんな部室に、私一人。

 唇を噛み締めながら棚の中に整理されているファイルボックスを取り出していく。去年、一昨年……。遡っていって一部ずつ新聞を確認していく。

 他部活、地域の飲食店、委員会、デートスポット特集などなど……。正直興味を少しも惹くことはない。それでも手を止めずに目を通していく。というか皆真面目過ぎない?なんで年間四部とか発行してるの?

「…………あ」

 見つけた。8年前に1つ。そこの内容を斜めに読み進めていく。……駄目だ。七不思議について書いてはあるが、すべて友花のマル秘新聞部にまとめられている。

 ああクソ。正直友花にはもっと詳しくまとめていて欲しかった。そうしたら今更調べる必要がないのに。でも内容があまりにも突飛で友花も記事として取り上げるつもりはなかったらしい。ただそれに自分が巻き込まれてしまうとは、なんとも皮肉な話だと思う。

「…………ああもう!どんだけ量あるのよ!?」

 何年分ひっくり返しただろうか。多分15年分くらい漁ってみたと思うが、見つけられたのは二部のみ。そのどちらも知りたい内容とは程遠い。というか友花はこの面倒な作業をずっとやってたんだ。ああ、初めて凄いと思ったかも。

「───うん?これ、は……」

 20年近く前の新聞記事、そこには七不思議について書いてあった。でもその小見出しが私の目を掴んできた。「八不思議の謎」そう書かれてあった。

 流し読みではなく一行一行に目を這わせていく。───八不思議は変化をしていて────昔から────については分かっていない。八不思議について焦点を当てられているのは確かに珍しい。でも書かれているのは全部既知の内容だ。やっぱり友花の調査が行き届いているのだろうか。

 しかし下半分まで読み進めた時に、もう一度目が止まった。小さなコラムほどの記事。その内容に眉を寄せてしまった。────『七不思議の精神被害 記憶障害か』

 ───私は七不思議にあったという1人の生徒に直接話を聞いた。彼女は実際に七不思議を目撃して、その直後に左腕がなくなったのだと言っている。

 この記事だ。目を上下にひたすらに動かして読み進めていく。紙面の片隅のみを占める記事だから僅かで読み切れた。

 要約するとこうだ。音楽室のピアノが深夜に鳴り響くという七不思議を実際に体験して、その直後に自信の左腕がなくなっていたのだという。でもそのことを誰に話しても信じてもらえなかったという。ただそれは当たり前のことだ。彼女は実際に腕がなかった。幼少期の事故で左腕を無くしてしまい、それ以来ずっと片腕だったという。それは親や昔からの同級生からの証言や証拠が裏付けている。

 しかしそれでも彼女は認めず、そのせいで病院に連れて行かれたとか。そんなことが短くまとめられていた。

 そしてその最後はこの一文で括られていた。────私の腕は八不思議の彼女に持っていかれたんだ、と。

 呼吸が不規則に乱れている。頬を異様に冷たい汗が流れた。

 七不思議。ピアノの現象。左手。そして───八不思議の、彼女。

 これは一体何なんだ?何を意味しているんだ?

 七不思議。鍵穴の目。友花の右目。そして──────。

 気付いた時には走り出していた。その時になってようやく日が傾き始めていることを知った。

 もし自分の仮説が正しいとするならば。もし昔の左手を失った少女の話が正しいとするならば。もし本当に───八不思議の少女に奪われたとするならば!

 一切迷うことはなかった。前だけを見て、私は階段を駆け上がった。

 目指す場所は屋上。私が初めて彼女と出会った───屋上だ。



 油の通っていないドアをこじ開ける。勢いが余ってドアは自ずから閉まっていった。後ろで耳に残るようなドアの閉戸音が聞こえる。

 赤錆のような世界。その中で1人、風に揺られながら立つ女の子。風が吹くたび左手の袖は持ち上がり、また沈んで。彼女は私のことなんて見ていないようで、それなのにきっと私のことに気が付いているような気がして。

 足を進ませる。その速度は蛇のようで、でも慎重な虎にも思っていた。足音は空に消えていって耳に残らない。でも彼女には聞こえているんだろう。

 彼女はゆっくりと左向きに振り向き始めた。体か回転するのに合わせて髪もなびく。髪の隙間から彼女の視線が私に届く。彼女の左目の新緑の瞳が私を覗く。

 そしてさらに彼女の顔が鮮明に見えてくる。頬、鼻立ち、唇。そして───。



 ────菜の花色の右目が、私に向けられた。



 彼女は完全に私と向き合った。二つの目。緑色と黄色の虹彩が、私に向けられている。前は包帯で巻かれていて見たこともなかった右目で私を見ている。友花と同じ色の目をした右目で、私を見ている。

 間宮は微かに笑っている。嘲笑でも憐憫の笑いでもない。決して人を不快にさせるもののような類ではない。でも今その笑いは、私の中を掻き乱していった。

「───お久しぶり、が正しい挨拶かしら?」

 間宮はなんでもないことを呟くように言葉を紡いだ。いや、むしろ友人や知人に向けるものの方に近い気もする。親しみを持った声色だ。

「とは言っても前出会ったのは数日前だからお久しぶりなんて言うのは場違いな気もするけど、あなたがそれを勧めたのだものね」

 どうして楽しそうなんだ?どうして嬉しそうなんだ?どうして無邪気なんだ?

 知らないのか?気付いてないのか?私が間違っているのか?それとも───。

「……ねえ間宮、聞きたいことがあるんだけど」

 かすれた喉から出たのは、自分でも聞き取りにくいほどの声だった。

「うん?どうしたの?」

 本当に分かっていないかのように、間宮は返事をした。私は一歩彼女に歩み寄る。口は動かさず、でも目線は変わることがない。ゾンビのような足取りだ。

 そんな鉛のような足で一歩、また一歩と進んでいく。

「ああ、もしかして……」

 間宮が口を開いた、さりげないように。間宮が右手の人差し指を立てた、何でもないかのように。そして人差し指で───自分の右目を指差した。

「────これの、こと?」

 それは幼さの残る、純粋無垢な仕草だった。



「………どういうこと?」

「きっと柏城さんも気が付いているんじゃないかしら?」

 地面を踏みしめるように間宮が歩き出す。軽快な歩き方でステップを踏んでいるかのようにさえ感じてしまう。

「私のこの、目について」

 風が吹き荒れる。屋上の端に溜まっていた枯れ葉が一斉に巻き上がった。木枯らし舞い散る中、間宮が口をまた開く。

「柏城さんは新聞部で、七不思議について詳しく調べてたから知ってるんじゃないかしら。八不思議について、さ」

「……ええ、そうね。前あなたに言ったように詳しいと自負しているわ」

 そして資料を調べ漁った今ならなおさら。

「それじゃあ知っているかしら?八不思議についてのさらなる───いえ、聞くまでもないわね。そんな仇を見るような目をされちゃあね」

 それは事実だろう。拳を強く握りしめているために爪が手の平に刺さってしまったほどだ。手が傷つくだけだから拳を緩めてはいるが、気を抜くとまた力がこもってしまいそうだ。

「……それじゃあ聞かせてもらえるかしら。私が聞きたくてしょうがないことを、いいかしら?」

 睨むように間宮を瞳に捉える。彼女は言葉を返さない。先ほどのように、柔和に笑っているだけだ。その表情に私は人差し指を向けた。

「あなたの、その右目は───誰のもの?」

 異様な質問。明らかに言葉にするとおかしい内容だ。でもこれは真理を射ている。疑念と本質の混ざりあった的確な質問だ。

 やっぱり間宮は笑っている。相も変わらずずっと。その表情筋は変わっていない。でも私は感じたんだ。

「確か───福地友花さん、だったかしら?」

 恍惚とした悦に浸っている、笑いだと。



「私の体は、いえ八不思議の体は少し特殊なの」

 間宮が物静かに語り始めた。ゆっくりと屋上の外周を歩きながら。

「まず七不思議全種と八不思議には違いがあるのだけど、分かるかしら?」

 私は足を止めて目だけで彼女を追っている。質問内容に一層眉をしかめたが、当てはまる答えは見当たらない。

「それは実在するか否か、という点よ」

 間宮は私の答えが出ないと察すると話を続けていった。

「確かに七不思議は人の目にも留まるし認知もされているから実際にあるかのように思われるかもしれないけど、それが生命を持って実在しているわけじゃない。現象として存在するだけ。だから人の意志のような見えない力でも現象として存在できるの」

 間宮は前回のように言葉を並べていく。何を言っているのかは正直よく分からない。

「でも八不思議は違う。この主体は人間。しかも七不思議を作った実在する人物、というオプションが付いてくる。これはもはや現象じゃない、一つの存在になるの」

 それでも聞き逃すまいと耳に神経を集中させる。理解するべく思考を最大まで回転させる。

「一つの……存在」

「そう。でもそうなってしまうと問題も生じてしまうの。それはね、既存の七不思議とでは根本から違うってこと。つまり七不思議のように、概念や妄想による力だけでは存在が出来ないということなのよ。そんなことで人が作り出せないなんて、考えるまでもないでしょ?」

 間宮が足を止めた。屋上の柵に手をかけてグラウンドを見下ろしている。微かながら運動部らしい掛け声が聞こえてくる。それらを見つめる間宮は、いつものようにどこか悲しそうだった。

「つまり八不思議が八不思議として───七不思議を作った人間として顕現するためには、全く別の方法で顕現するための材料を集めなければならない。その方法が───」

「…………七不思議を目撃した人から対応する体を奪う、ということ…なのね」

 間宮は回れ右をして柵に腰を掛ける。背中を西日にして顔に影が落とされる。暗がりの中で表情が曖昧に溶かされてしまう。

「そういうこと。七不思議は娯楽物。その延長線上の八不思議も同様に。だから八不思議も娯楽的要素として、七不思議を目撃した人から体の一部を奪うという形になったんでしょうね。だって明らかに非効率的だもの」

 溜め息混じりに間宮が語る。私はゆっくり足を進めた。

「でも私はそれでも嬉しいわ。確かに病弱っていう設定は邪魔かもしれないけど、それでもこの世界に生を持てるなんて考えただけでも感動するわ」

 病弱、か。彼女は身体障害者の噂じゃなくて、病弱の噂から生み出されたということなのか。だから右目を友花から奪えたのか。

「……間宮、聞きたいことがあるんだけど」

「何かしら?」

 一歩、二歩と前に進んでいく。体の軸は少しもずらさない。間宮にめがけて一直線に歩いていく。

「間宮が奪った体は、どうすれば元の持ち主に戻るのかしら?」

「元の、持ち主に?」

「そう。元の持ち主に」

 間宮との距離が縮まっていく。段々と間宮の顔が鮮明に映っていく。疑問符を浮かべた、幼い顔だ。

「そうね…。とは言ってもこの体はもう私のものとなっているから、元の体に戻るとは考えにくいかしらね……」

「そう。なら───」

 目の前に立ち塞がる。私よりも小さい背。長い髪。まるで人形のようで繊細な見た目。そんな間宮に向かって目を細くした。


「───あなたという存在がなくなれば、行き場をなくした体はどうなるのかしら?」


 ポケットの中で指先に触れていたものを取り出す。重量が手に伝わって、銀色の切っ先を───間宮の胸に突き立てた。

 繊維と脂を断ち切る感覚が手に伝わってきた。肉を断ち切るほどに柄が手に食い込んでくる。途中で何かに引っかかったようにペーパーナイフが止まった。刃が半分ほど間宮の胸の入っている。間違いなく胸に、突き刺さっている。

 ナイフを握る手に汗が染みる。それでも頭は冷え切っていた。呼吸も整っていた。冴え渡った思考が冷静に判断を下していた。

 突発的、それでも理性的に間宮の心臓にペーパーナイフを刺していた。短絡的ではある。でもこれが咄嗟に思いついた最善の策だった。むしろこれほどしか対策が考えれなかったんだ。

 歪む視界の中、自らの視線を胸部から上にあげていく。鎖骨を通り首を伝って、そして間宮と目が合った。何でもないかのようにただ私を見ている───間宮と目が合った。

 何秒、時間が経ったのだろう。どれくらい見つめ合っていたのだろう。でもどれだけ時間が経っても間宮は眉一つ動かさない。じっと、私を見つめてくる。

「……ひどいなあ」

 間宮が口に出したのは、感情のまるでない一言だけだった。

 体が知らぬ間に揺れている。目の前のあべこべな状況に理解が追いつかない。

 胸を抉るように刺さっているのは、間違えようもないナイフ。なのに痛みも恐怖さえも間宮が感じているようには見えない。ただ蚊に刺されたような、そんな起伏のない目で私を見ている。

「……どうして?」

「柏城さん、さっきから疑問ばっかりだよ?もっと自分で考えてかないと」

「茶化さないで!どうして!?だって体に刺さってるのよ!?」

 間宮は肩で溜め息を顕わにして、躊躇いもなく刃の部分を掴んできた。現状の把握ができていない私を他所に、ナイフを引き抜いて私の手元に押し返してくる。

 服には切れ込みが入った穴。その中に覗くのは透き通るような白い肌と、そしてさらに奥には生々しい血色の肉が見えていた。でもどう考えてもおかしい。納得がいかない。

 血が、溢れてこない。垂れてもいない。それどころか刃を掴んだはずの手も。そして私のナイフにも血がついていない。まるで彼女には血が通ってないかのように。まるで彼女は生物ではないかのように。

 そしてその傷が音もなく塞がっていく。人体の再生とは程遠い、粘菌が繁殖するように傷が覆われていく。それと同じくして服も繊維が延びて一つの布となっていく。たった一瞬の間に彼女はいつも通りの姿になったのだ。

「……こういうことだよ柏城さん、私は」

「どういうことなのよ!?どうして!だって───」

「───私はまだこの世界に生まれてないもの。まだ不完全だから、そうなるの」

 駄目だ。さっぱり分からない。飄々として語る間宮と対比的に、私の頭の中は混乱を極めていた。生まれる?不完全?この数時間の内容が濃すぎて頭痛さえしてきた。

「私はまだ七不思議のすべての体を手に入れてないから、私はまだこの世界に顕現できていないの。私はまだ概念と実存の狭間に生きている。だから現実のいかなる事象でも私に干渉することは出来ないの」

 ……つまり、なんだ?私はどう足掻いても、間宮を殺すことが出来ない…のか?信じられない。信じがたい。でも……信じざるも、得ないのか?

「……まあ信じられないよね。それじゃあ───ちょっと見ててね」

 間宮は私に背を向けた。間宮の眼前に広がるのは遠く下に広がったグラウンド。風に煽られて夕焼け色の髪が後ろに舞っている。

 その茜色の世界の中へ───飛び込んでいった。

 柵を超えて自由落下にまかせて落ちていく。髪の毛が逆立って毛先が流れるように天を指している。彼女のやった行為を理解するまでに数瞬かかった。飛び降りをやったと飲み込むとすぐに柵まで駆け寄った。

 取っ手に胸を押し当てるようにして下を覗く。遠い真下にグラウンドの地面が広がっている。砂煙と埃の立ち込めるグラウンドの中、一面の小麦色が広がっている。それだけだ。それしか、見当たらない。───間宮の姿が、見つからない。

「───ほら。こういうことよ」

 背後から聞こえた半音高い声に首を反転させた。

 また、だ。また口を上げて笑っている。笑っている間宮が屋上に立っている。屋上から飛び降りたはずの間宮が、目の前にいるんだ。

「分かったでしょ?私は死なないんだよ。例え屋上から落ちたとしてもね」

「───じゃあ……」

 奥歯を噛みしめる。歯が削れるような音が口に響いた。

「じゃあどうすればいいのよ!?」

 叫んでしまった。腹の底から金切り声をがなり出した。体が呼吸で上下している。息を吸っても吸っても足りないと錯覚してしまう。

「ふざけないでよ!友花の目を返しなさいよ!あの子には必要なのよ!人生を、世界を!未来を見渡すために!」

 殺したい殺したい殺したい!でも、殺すことさえ叶わない。この手に持ったナイフはただの飾りだ。これが意味を成さないとなると、私に手立ては一切なくなる。

 ナイフを握りしめる。怒りを顕わにして拳にだけに力を込める。それくらいしか私は出来ることがない。

「うーん……そうだなあ。そんな感情を向けられてもなあ……。でも一つだけ言えることは───」

 間宮は背中を向けた。もう私と話すことはないかのように、距離を開けていく。

「私を殺しても意味はないと思うよ?この体は私のものだもの。大勢の意志によって生み出されて、そして右目もその力によって手に入れたもの。だから今私を殺してもこの右目は元に戻らず───腐っちゃうんじゃないかな?」

 崩れ落ちた。世界が割れて黒色に染まるように私の世界が絶望に包まれた。世界が遠い。音も光も空気さえも、届かないほど遠くて立ち上がることさえままならない。

 友花の目が無くなった。八不思議とか言う意味の分からないものに奪われた。これからどうなるんだろう。まだ友花は高校生なのに。青春も部活も友情も恋愛も、何一つとして経験していない。

 なのに右目がなくなってしまった。それだけですべてが奪われるわけじゃないけど、それでも元のように充実した生活は送れないだろう。

 私は友花を泣かせないって決めたのに。友花を守るって決めたのに。友花を親友だと思っているのに!

 弱々しい足取りで立ち上がる。屋上を見渡しても誰もいない。もう間宮はここにいない。

 何も出来なかった。何も私は友花のために出来なかった。無力、無価値、無意味。視界が歪んでいる。それでもここにいても仕方がない。体の軸がブレながら歩いていく。

 屋上から階段を降りていく。一人で降りていく。隣に友花がいないまま、一人で降りていった。

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