第33話 妖精郷の迷い仔《3》 【完】
◇◆◇
初老の男性が、奇怪な砂漠を歩いていた。
砂漠の砂は紫色に輝き、踏みしめる足元でさりさりと音を立てる。まるでアメジスト紫水晶の欠片のようだった。砂の丘陵はどこまでも続き、果てがないように見える。空は目の覚めるような黄色で、砂と同じような色の雲が流れていく。黄色の空には真ん中に穴のあいた、輪のような形の月が三つも浮かんでいる。時たま遠くで、老人の方を伺うように、奇妙な姿の四足獣の影が見えた。まるで鱗の生えた狼のような生き物だった。老人が目を合わせるとすぐに逃げる。
「おい、もう半日歩き通しだがよ、まさかテメェまた迷ったんじゃねぇだろうな?」
老人の肩で胡座をかいて悪態をつくのは、これまた奇妙な生き物である。
トンボと人間の中間のような異形の姿をしているが、不思議なつくりの、精緻な毛織りの衣服を着ている。服の印象か、恐ろしいと言うよりは愛らしく見える。
「迷ってなんかいないよ。さっきの獣を見ただろう? 鱗が生えていた。鱗のある妖精がいると言うことは、目的地が近いんだよ」
「テメェよ、毎回そう言って到着しねえじゃねぇか。そう言うのを迷ってるってんだ」
「いやいや、二十年くらい前だったかな、テオを見つけたときはそれでいけたんだよ。あの時は鱗のある鳥だった。第一、君は歩かないんだから別にいいじゃないか」
「暇で死にそうなんだよ」
トンボはわざとらしくあくびをしながら言った。
「じゃあ飛んで先を見てきてくれ。僕が迷ってるというなら、君が先導してくれればいいだろう」
「おうエルニカ、このフィー姐さんをこき使おうって言うのか? 偉くなったもんだなおい」
老人とトンボは――年経たエルニカとフィーである。フィーは籠なしで自由に動き回り、人間の言葉を話せるようになっていた。というのも、エルニカは全く新しい着眼点で、妖精郷汚染の治療法を見いだしたのである。
テオが
汚染とは、強い魔力に反応し、肉体が自らを作り替えてしまう現象である。そこで、強い魔力に晒されている肉体に、
この考えは、『理論としては成立する』と、当時のヘルメスの学長にお墨付きまでもらった。この魔術を工芸化して、常に身につけておくことが出来れば、汚染されることも、汚染による腐敗も防げるはずだった。
ところが問題は、そこまでの水準の
その間に
テオは時間の流れの遅い妖精郷に留まっていたようで、彼にとってはアウローラが戴冠石を壊したすぐ後にエルニカに発見された。初めは狂った獣のようにエルニカに襲いかかったが、熟練して腕を磨き、数々の
エルニカは説得に説得を重ね、ついにはテオの協力を取り付けた。テオも、故郷に帰る術があるかもしれないという熱心なエルニカの語りに興味を持った。
テオと術式を研究し、完成するまでに五年かけた。エルニカは自分の織物でテオの汚染部位が腐敗しないようにして、彼を故郷に送り出した。
この頃になって、ようやくフィーを籠から出してやることが出来た。籠から出て自由の身になったフィーは、さりとてそこから宮廷料理人を目指すというわけにも行かず、再び
「僕は実際偉くなったんだよ。これでも妖精派の長老だから。君はどうだい、孤児院のちょっと変わった賄いさんじゃないか。ほら、僕の方が余程偉いような気がしてこないかい?」
「長老ったって分派のだろうが。分派はライールと、カイと、あと新人が二人だろ、おおっと片手の指で足りちまった。本派は何人だっけなぁ、百人くらいいたっけなぁ? 第一テメェ、婆様の跡継いだって言うなら、工芸派の長老やれば良かっただろうが」
「そっちはエインに取られたんだ、仕方ないだろう」
エインは工芸派の長老になっており、錬金術で名高いプラハのルドルフ院の学長にならないかという話まであった。
ヘルバルトは年老いて出来た子どもが(そもそも伴侶を見つけたことが奇跡に近いと思われていた)後を継ぎ、ゾーリンゲン工房は今なお鉄を鍛え続けている。
エドガーは老衰で亡くなったが、その途端カイが魔術の才覚に目覚め、正式にヘルメス院の魔術師となった。カイはエドガーが最期に魔力を譲ってくれたのだと信じていた。
ライールの汚染は、エルニカの見いだした方法では治療が出来ず、どんどん若返って今では幼子の姿になっていた。それでも、エルニカの工芸品で様々な魔術師が妖精郷に長く滞在できるようになり、妖精派分派にも幾らか魔術師が入門してきたため、諦めることなく治療法を探し続けている。
エルニカは妖精郷落下事件以降、先代の学長に気に入られ、魔女の係累だというのに厚遇された。妖精派分派の長老という微妙な席次は、それでも
そしてエルニカは――四十年間、暇を見つけてはアウローラを探していた。
戴冠石の復元も、汚染の治療法の開発も、実のところほとんどそのためのものである。勿論フィーや
「テメェよ、こんなに執念深く探し続けるなんて、アウローラのことが好きなのか?」
今度はエルニカの頭の上に陣取ったフィーは、あくびをしながら訪ねた。
「男女の間の好意の事を聞いているなら、それはないよ。家族だからね。
「よせよ、羽の付け根がかゆくなるぜ」
フィーは藪蛇になっちまったと、羽を動かしてエルニカの頭から離れて少し飛んだ。そして「ああ?」と少し間抜けな声を上げた。何かを見つけたのか、少し先の方まで飛んでいき、暫くじっとしていたかと思うと「おい、向こうに人がいるぜ」と叫んだ。
そんなまさか、とエルニカは思った。
ここは妖精郷の中でもかなり世俗と離れた階層にある。戴冠石で六度、妖精郷から妖精郷へと穴を空けたその先だ。魔術師だとしても、自分たち以外に人間がいるとは考えられなかったし、人型の妖精がいるとも考え難かった。
「アウローラかい?」
エルニカは期待を込めて聞いた。
「いや、違うな、あれは――おいエルニカ、テメェも見てみろ」
エルニカはフィーの態度を見て、何だか胸騒ぎがして、彼女の指し示す方向に駆け出した。年は取ったが、長年歩き続けて、足腰は萎えていない。
視線の先に、エルニカやフィーにとって、ひどく懐かしい顔が見えたような気がした。
◆◆◆
アウローラは、砂嵐に肌を削られていた。
どこまでも続く砂の荒野。体に叩きつけられる砂粒はまるでヤスリのようで、鱗の生えた部分で生身の部分を覆い隠さなければ、無数に切り傷が出来る。
彼女には時間の感覚が分からなかった。テオと穴の向こうに飛び込んでから、もう何十年も経ったような気もするし、ほんの一瞬しか経っていないようにも思える。元々彼女が妖精郷に赴いている間は、束の間のようで永遠のような時間の中に生きていたから、戸惑いはなかった。
ただ、激しい後悔だけが残っていた。
自分がしでかしたことには一応のけりは付いただろうが、もっと償わなければならないことがあった気がする。それをほったらかしにして
自分の命が風前の灯火であることは分かっている。このまま終わってしまうのは本意ではなかったが、
砂粒に削り取られるようにして、意識が薄れていく。
「婆様……」
恐ろしいほどの孤独から、思わず口から出た言葉。
「なんだい、アウローラ」
まさか返事が返ってくるとは思っていなかった。
反射的に起きあがる。体が軽い。腐敗は止まったようだった。
「婆様……なのか? 本当に?」
「あぁ、久しぶりだねぇ……といっても、あたしゃ時間の概念のない世界にいるから、あれから何年経ったのかよく分からないんだよ」
アウローラの目の前には、いつものようにフードを被った姿のコルネリアがいる。
二人は小舟の上におり、黄金の落日が沈む海の真ん中にいた。
四方には全て水平線が見える。
アウローラは、確かに自分は、あの砂の荒野の妖精郷にいたはずなのだが――と、あたりをきょろきょろ見回す。
「覚えているかい、アウローラ。あんたがあたしを送り出してくれた日、舟に乗ろうとして断られたことを」
「死を迎える者だけが立ち入れる彼岸――そうか、私は――死が近いからか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。ここはまだあちらとこちらの境目さ。あたしゃ、あんたをあちらに戻すために舟を出してもらったんだ」
「婆様の行った島へ、一緒に行くのではないのか?」
「そいつはまだちょいと早いねぇ。もっと修行してから出直してきな」
そう言いつつも、コルネリアの目は優しい。
「でも婆様、私も随分汚染が進んでしまった。妖精郷でも世俗でも、もう生きられない」
コルネリアは、全てを見通すような目をして言った。
「心配ないよ、そいつはきっと何とかなる」
そしてアウローラを抱きしめる。
「それとも、まだこの婆と離れがたいのかい?」
アウローラにとっては正直、その通りではあった。
しかしそれはこの老婆の願うところでないというのも分かっていた。
そっとコルネリアから離れて、目を合わせる。
「いや。私はもう大丈夫だ、婆様」
「そうかい?」
「ああ」
コルネリアは優しげに微笑んで頷くと、アウローラの後ろの方を指差した。
アウローラが振り向くと、いつの間にか舟は砂浜に接岸している。
紫色の砂浜。
空は黄金色から、やけに目に痛い黄色に変わっている。
「迎えを呼んでおいたからね。気が変わらない内にお戻り」
コルネリアは舟からアウローラを下ろすと、再び海の向こうへと舟を出した。オールで漕いでもいないのに、するすると水平線へ向かっていく。
アウローラは、コルネリアに向かって随分長い間手を振っていた。
目からは涙が溢れたが、いつかのように、悲しさや寂しさはなかった。
しばらくすると、遠くから声が聞こえてきた。
「海だぜエルニカ! さっきまではこんなものなかったはずなのによ」
「この砂浜、見覚えがある。やっぱりさっきの人影は――あ」
向こうもアウローラに気付いたようだ。
随分年老いてしまっているが、面影から一目でエルニカだと分かった。
見た目に似合わぬ健脚で、アウローラのもとへ駆け寄ってくる。
「また迷子になってたのかい? 随分探したよ」
「ああ――すまない。手間をかけさせた」
エルニカは皺だらけになって、節くれ立った手を差し伸べた。
「おかえり」
アウローラは、鱗のびっしり生えた手で、その手を取った。
「――ただいま」
フィーはただ満足したように笑って、祝うように空中でとんぼ返りをした。
海原の向こうから差す黄金色の落日が、三人を照らし、長い影が砂浜にのびていた。
《了》
妖精郷の迷い仔 ながみゆきと @nagami_yukito
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