第32話 嘘のままでは終わらせない
「こんな脆弱な代物で私を止められると思っているのか!」
エルニカが感じた痛みは、穴を覆う巨大な布が、竜によって食い破られたことを伝えるものだった。竜の聴覚に幻聴を聞かせることで天上の調べをかき消し、態勢を立て直したテオは、アウローラやカマラには目もくれずに布を攻撃し始めたのである。
エルニカがそれを察知したのか、すぐさま手数を増やして破れた部分を補修してくる。
しかしこれで――エルニカへの負担は増すはずだった。
アウローラはさせるものかと妖精達に指示を出すと、竜の手足に絡みつかせ、その動きを封じ始めた。カマラが創造魔術で作り出した、あらゆるものをもれなくつなぎ止める、
竜と妖精の動きは拮抗している。
お互いの勝利条件は同じである。双方ともに時間が稼げればよい。テオは大布の完成を遅らせればよいし、アウローラ達は竜を足止めすればよい。しかしこのただの時間稼ぎが、双方にとってかなり熾烈なものになった。
アウローラの率いる妖精達は少しでも数を減らせば竜を止められなくなるため、一匹たりとも死なせるわけには行かず、可能な限り安全策を取らざるを得なかった。おまけにアウローラ自身は指揮を執るために大きな動きは出来ない。一方テオは、直接竜に指揮を下しているわけでもないし、自分は穴から離れられない。
結果、竜と妖精による空中戦が際限なく繰り広げられていた。
こうなると、砦もない状態での防衛戦は守る側に圧倒的に不利である。竜は布をどこでもいいから食い破れば確実に時間が稼げる。ところが妖精側は布の全てを守らなければいけない。
この不利な状況を動かせる者がいるとしたら、それはカマラだけである。
彼女もそれを悟って、強硬手段に乗り出した。幾つかのマントラ呪文を続けざまに唱えると、その姿は六本の手を持つ異形の姿に変化し、みるみるうちに若返る。それぞれの手には不思議な形の武具が現れた。そのままガルダに乗って、穴の中心に突っ込んでいく。
カマラの剣戟と、テオの竜の爪が交錯した。
「あたしゃ、あんたを直接潰した方が早い事に気付いたよ!」
急襲されたというのに、テオは涼しい顔をしている。
「これほど強力な創造魔術、そう長くは使い続けられまい。借り物の力というのは不便なものだ」
「あんたに言われたかないよ!」
彼の言う通り、カマラが単騎突撃したのは、戦いを長引かせたくないからである。創造魔術は魔力の消費が激しい。ヘルメス院の魔術師達から貰った魔力の蓄えも、間もなく底をつく。
空中を激しく動き回りながら、何度も激突する両者。
最初はカマラが押しているように見えたが、テオが思いついたように呪文を唱えると、その姿が無数に現れた。
カマラは舌打ちをすると、
次々現れ、攻撃の素振りを見せるテオの幻に対応せざるを得ず、カマラは創造魔術を使い続け、消耗し切った。
姿が元に戻り、急速に年老いていく。
「どうした、もう終わりか」
「ああ、まぁね。残念だけど――あんたにとってって話さ。こっちの時間稼ぎは終わったよ」
テオがはっとして辺りを見回すと、正八面体の面が一つ、既に完成していた。
「しまった!」
「織りあがりしは――
まだ八面全ては完成していないが、エルニカは上空の状況を把握し、まず一面を完成させ、異界創造魔術を発動させた。布への魔力供給は
とはいえ、魔術の行使が楽になるわけではない。魔力の供給に不安がないだけで、難易度は変わらない。それどころか、今も
動悸がひどい。
なのに呼吸が出来ない。
頭に血が回っていないような気がして、吐き気がする。
意識が遠のく。
もしかしたらこのまま死ぬかも知れない、と思い始めた。
だが、よいこともあった。
神の庭にテオごと竜の群れを取り込んだためか、
そうこうする間にも、もう一面織りあがる。
問題はここからである。
異界創造の多重展開――今ですら倒れそうなのに、更に七つも異界創造をこなさなければならないとは、考えただけでエルニカは気が遠くなった。
ぽたりと水の落ちる音がした。
汗かと思ったら赤かった。
顔を触ると、目から、鼻から、耳から、どくどくと血が流れていた。
このままでは本当に死んでしまいそうだ。
だがしかし、それでも尚。
「僕が――守るんだ」
ロンドンを。市民を。ヘルメス院を。魔術師達を。子ども達を。コルネリアの魂を。
そして何より、コルネリアに育てられた、自分の魂を。
エルニカは呪文を唱え、二つ目の
テオとアウローラ、そしてカマラは、ひび割れた落日の花畑の中にいた。
穴は花畑にほど近い高さに位置しており、空を飛ぶ必要はもうなかった。
「エルニカは成功したようだね」
カマラが不適に笑う。
「観念するがいい、テオ! 今やそなたが境界域を作ろうとするならば、この神の庭に穴を空けねばならない。そのためには、妖精郷へ続く穴を閉じる必要がある。そしてこの人造妖精郷は、これから八重に展開される。もう戴冠石の光は世俗には届かない!」
テオは敵意を剥き出しにした怒りの形相で唸り声をあげた。
穴の奥からありったけ竜を呼び出す。
数が多すぎて、統制は全く取れていない。
そして彼は穴を閉じ、改めて戴冠石の光で神の庭に穴を空けた。
既に多重に展開された人造妖精郷は、六度穴を空けて、ようやく世俗に繋がった。
「まさか同時に複数の異界創造を行使できるとは、確かに彼を侮っていた。できれば境界域にはヘルメス院の皆も招待したかったが、致し方ない。アウローラ、このままでは君達全員を鏖殺し、その後で再び通路を作る事になるが、いいのかね。それはコルネリアの望む事ではあるまい」
テオは優しげな声を作る努力をしていたが、顔がひきつり青筋を立てた顔が、ちぐはぐな印象になってしまっている。
「だが、私に再び協力するのであれば、
アウローラは少し黙って考えた。そして、おもむろに左腕の甲冑を外して、右肩に担いだ。たちまちアウローラの左腕の汚染部位は広がり、左半身から足元までを黒い鱗で覆い尽くした。
「本当は分かっていたのだ」
アウローラは妖精達に指示を出すと、陣形を整えた。
「私はもう少し婆様に甘えていたかっただけなのだな」
音を立てて、背中の翼を広げる。
「だが、独り立ちの時は必ず来る。婆様はそのためにこそ、私に色々な事を教えてくれていたはずだ」
甲冑を抱えて、テオに向かって走り出し、翼を使って加速する。突撃である。
「愚かな――では
テオはアウローラに竜をけしかける。
数の差では圧倒的にテオが有利に見えたが、統制の差は大きく、整然と動く妖精達に動きを阻まれる。
アウローラは竜と妖精の間を巧みにすり抜けて、テオに激突した。
手と手、足と足の鍵爪で組み合う両者。
「私に魔力切れはないぞ、テオ。戴冠石は返してもらう」
「だが君も、これでは手も足も出まい!」
文字通り、お互いに手足を封じた状態――だが。
アウローラが担いだ甲冑から小さな影が飛び出したかと思うと、テオの胸から鮮血が迸った。
――戴冠石がえぐり取られている。
影の正体はエルニカのナイフを両手に構えたフィーだった。
テオが呆気にとられている間に戴冠石を蹴り飛ばし、アウローラがそれを受け止める。
「竜の鱗を抉った――だと?」
「料理人の包丁さばきを舐めるなよ、だそうだ」
偉そうに腕組みをしてふんぞり返るフィー。
「ありがとう、フィー。ここから先は私だけでやる」
アウローラはフィーを右手で捕まえると、カマラの方に放り投げた。
フィーが慌てて抗議するようにぎちぎちと鳴き声を上げる。
「姉様、フィーをエルニカの所へ運んでくれ! あいつならフィーの籠を復元できると思う!」
妖精郷への穴が塞がった今、境界域になりかけた空気は、世俗のものへと置き換わっていくはずだった。そうなれば、今は平気なフィーも、世俗の空気でやられてしまう。
「あんたはどうするんだい、アウローラ!」
「私は自分のしでかした事の始末をつける。なに、戴冠石を取り戻したのだ。すぐに追いかける」
カマラは頷くとガルダに乗って、新たに空けられた穴から外へと飛び出す。
それを黙って見ているテオではない。
逃がすまいと、竜をけしかける。
「――道は今や消え果てつ、」
それを見て、アウローラが呪文を詠唱し始めた。
すると竜は――赤い光の中に消えていった。
「――昔日に帰る
アウローラが、竜の進行方向に戴冠石で穴を空ける。
「――いつか道が拓くとて、待てる間に我は散る。」
竜が入った直後、穴を閉じる。
同時に七つの穴に七匹の竜が消え、それが繰り返される。
「戴冠石にこんな使い方が――」
テオが驚愕の声をあげる。
竜は次々と穴の向こうへ消えていく。
竜が全て消え去った後で、アウローラは自分の指揮下にあった妖精達も、同じように穴の向こうに帰してしまった。
「ありがとう、異界の友よ。この返礼はいつかきっと」
最後に神の庭に残ったのは、テオとアウローラだけだった。
竜や妖精を帰すため、既に世俗への穴は塞がっている。いや、外ではエルニカが八つ目の
テオは絶叫し、アウローラに襲いかかる。
「そんなに欲しいならくれてやる!」
アウローラは、テオを迎え撃った。
詠唱を完成させるべく、呪文の残りの句を唱える。
「――故に我は路を付けん。救い手を探すその道を」
テオとアウローラの足元に、妖精郷への大穴が開く。
二人の体は穴の向こうに落下していく。
しかし、テオはお構いなしに鈎爪をアウローラの肩に食い込ませた。
アウローラは痛がりもせず、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「なぁ兄弟。私たち半端者は、妖精郷でも人の世でも、うまく生きることはできない。ならばいっそ、半端なまま生を繋いで行くのはどうだろうか」
テオは答えない。
戴冠石を奪おうと、無茶苦茶に爪を叩きつける。
「故郷と呼べる場所はないかも知れないが、旅人だと思えば気も楽だ。永遠に
アウローラは息を吸い込み、呪文の最後の句を唱えた。
「
一気に複数の世界を貫通する穴が開く。
二人は、穴の奥へ奥へと落ちていく。
テオはまだ戴冠石を奪おうともがいている。
「それさえ手に入れば、もう一度――」
アウローラは少し残念そうな顔をして、甲冑の中に戴冠石放り込んだ。
ばきん、と硬いものが砕ける音がした。
まるで布をくしゃくしゃにするかのように甲冑がひしゃげ、小さくなる。
火花が散るように赤い光が迸り、甲冑はただの金属の固まりになった。
最後に赤い光が一度だけ瞬くと、甲冑も戴冠石も消え失せた。
「なにを――」
「
テオは悲鳴を上げた。
自分の理想郷を作る手段が永遠に失われた落胆と、自分も帰れなくなると言うのに、戴冠石を自ら砕いたアウローラの行動が理解できない事への、恐怖の叫びだった。
「なに、旅の果てに私たちの安楽の地も見つかるかもしれないぞ」
アウローラは、なにもかもやり遂げたと言わんばかりの、さっぱりとした笑顔を浮かべた。
エルニカは、感触としてテオとアウローラがどこかへ消え失せたのを感じた。
朦朧とする意識の中で、手探りをするように必死にアウローラの痕跡を探す。
だが――いくら探しても、ひび割れた妖精郷の中には、誰もいなかった。
終わったのだと悟ったエルニカは、魔術を解いた。
途端に、空中で織り上げられた八面体の織物はほどけて、布の切れ端や絡まった糸になって、風にとばされていく。
色とりどりの糸や布がゆっくりと空から降り注ぐ。
その光景はやけに美しく、このときばかりはさしもの真理派も、黙って見とれていた。
「終わった。儀式魔術は阻止できたよ」
エルニカの絞り出すような
それは大聖堂でのお祭り騒ぎに負けないくらいの、大騒ぎだった。
胴上げされながら、エルニカは上空で何か光るものが落ちてくるのに気付いた。
「ありがとう、ありがとう、でも疲れてるから、ちょっと下ろしてくれ」
エルニカは皆に礼を言って地面に降り、その物体を検分した。
そこに、魔術師達をかき分けて、
「エルニカ兄ちゃん、姉様はどうなったんだ?」
エルニカは少し考えて答えた。
「あぁ――多分いつもの療養さ。今回はちょっと負担が大きかったからね。さっきまではあの大穴のおかげで元気だったけど、あれがなくなるときつくなるはずだから」
後ろから、アリアも心配そうに顔を出す。
「姉様、また帰ってきてくれるのよね?」
エルニカはとっさに答えられなかった。
「うーん、すぐには難しいと思うけど」
少し考えるふりをする。
アウローラは帰ってこない。
エルニカにはもう分かっている。
先ほど空から落ちてきたのは、金属の固まりの中に、小さな赤い石の粒がめり込んだものだった。
エルニカには、それが光神の守りと戴冠石のなれの果てだとすぐに分かった。
甲冑がなければ、アウローラの汚染は急速に進んでしまう。進行を少しでも遅らせるには、彼女に適合する妖精郷を転々と渡り歩き続けるしかない。しかしそのためには――いや、それより何より、妖精郷からこちらに帰ってくるのに戴冠石は絶対に必要なのだ。
エルニカは無理やり笑顔を顔に張り付けた。
「まぁ、そのうちふらっと帰って来るさ。いつもみたいに」
エルニカは、嘘をついた。
(これはただの嘘だけど――嘘のままでは終わらせない)
いつかのコルネリアの言葉を、自分の気持ちに当てはめる。
金属の固まりを握りしめたエルニカの目には、決意があった。
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