Roof leak
御手紙 葉
Roof leak
とても心地良い朝なのに、どこか薄っすらと寒いような気がするのは、しとしととまばらな雨が降っているからだろう。それは心の底の湖面に波紋を広げるような、そんなひっそりとした雨の降り方だった。曇り空はもう雨が止み始めているのか、明るくなってきている。
借りているアパートの一室で、目を覚ました私は、掛け布団を除けて、小さく伸びをした。そして、大きな欠伸をした。いつもと変わらない休日が始まり、私はその日一日何をしようかと布団の上で身を起したまま、じっと考えた。
近くの公園に散歩をしに行くのもいいかもしれない。もう少しで雨が止んだら、小鳥がさえずる自然公園を、すっきりとした空気の中で静かに散歩したいと思った。本当につまらない日常と言えばそうだが、それでも一番幸せを感じる習慣であることも確かなのだ。一流ホテルの料理よりも、家族が作ってくれたカレーの方が好きなのと一緒だ。
私は布団から出て、まだまだひんやりしている春の天気に、上に半纏を着ながら、コーヒーを淹れた。やかんでお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れる。それを啜ると、ほっと息を吐けた。炊飯器からご飯をよそり、缶詰の鮭のフレークを載せて食べた。
お茶を淹れ直して飲みながら、私はもう一度窓の外を見遣る。大分晴れてきたが、どこからか雨音が近くでした。見ると、脱衣場の方で水滴が落ちる音がする。また、雨漏りだ。私はご飯を食べてから椅子から腰を上げ、雨漏りの部分にバケツを置いた。
すると、奇妙に心地良い音が脱衣場に響き渡った。この高さから、バケツに落ちる水滴の音は、どこか透き通っていて、綺麗だった。私は薄暗い脱衣場でバケツを見下ろしながらしばらく耳を澄ませていたが、そんな自分の様子に我に返って、最近疲れているな、と布団の方へ戻ってきた。
布団を畳み、コンポをかけた。一昔前のお気に入りの邦楽をかけていると、ようやく気持ちが乗ってきて、私は窓の前で雨が止むのを待った。畳の上でしばらく音楽を聴いていると、やはりあの水漏れの音が、トッ、トッ、と耳に心地良く響き渡る。
それはどこか、その曲に合いの手を打つような、そんな愛嬌のある音だったのだ。
私は畳に横になり、文芸雑誌を開いた。休日のその時間は、一人でいることの多い私にとって、少し物足りなくも感じるのだが、それでも遠くにいる家族のことを思うと、大して寂しくもなくなってくる。
それはクリスタルに滴り落ちる氷の涙のように、そして湖面を漂う水上の音楽のようにひっそりと。
私は眠りに落ち、いつしかその水の音に囲まれて、音楽が響き始めた。
その水の音は、トッ、トッ、とまるで馬の蹄のように地面を揺るがし、辺りに満ちていた。それはまるで空から突き刺さる光の矢のように私の胸を射抜いて、それからすぐに霧散してしまうのだった。私の周囲にはただ暖かな光に満ちていて、煉瓦のタイルの地面がどこまでも広場に広がっていた。
見知らぬ広場だった。辺りはもう明るくなり始めていて、どこからか賑やかな人々の声がする。輪郭を持たないその声の響き方は、どこか意識の外に締め出された幻想のように儚く、現実味がなかった。
トッ、トッ、という音はそれでも響き続け、その雨音はまるで広場の煉瓦の地面にタップを踏むように小気味良かった。トッ、トッ、トッ、トッ……。
視線を伸ばせば、確かにその音を発しているのは一人の初老の男性のようだった。彼はこちらに軽く頭を傾けて、にっこりと微笑み、片足でタップを踏んでいる。その音が雨音と重なり、軽快に辺りにリズムを刻み始める。
私もいつしか体を揺らして同じように足踏みを繰り返し始めた。すると、後ろから猛烈な足音が聞こえて、たくさんの子供達が笑い声を上げながら私を追い越し、初老の男性へと駆け寄っていく。そして、その足音が男性のタップと重なり合い、辺りは水が落ちる音で満たされた。
空から小さく水滴が落ちてきて、それが広場の静寂を突き破るように弾け飛ぶ。男性がタップを踏み、子供達が駆けていく。私も足踏みを繰り返し、やがてそこには無数の雨音で満ちていく。
トッ、トッ、トトッ、トッ、トトトッ、トッ、トッ――
やがてそれは雨滴がガラスを叩く音に取って代えられ、人々が腰を叩き、ジャンプする音、噴水から水が弾ける音、手すりにボールがぶつかる音、荷馬車が走る音、食器を片付ける音、口笛を吹く音、指を鳴らす音などで一気に溢れて、そこには音楽が満ち満ち始めた。
それは生の音楽とでも言うべき、誰もが生きている上で鳴らす無数の音楽だった。この世は音楽で溢れていて、生活する音は無数に溢れては沈み、現れては消え、そうして音楽は奏でられ続ける。それはこの世がまだ宵闇に溶け込んでいない、暖かな日常の奇跡だ。
私は初老の男性と向かい合い、見よう見まねでタップを踏み、お互いに競争する。男性の顔には不敵な笑みが浮かび、私の顔には明るい弾けるような笑みが浮かんでいるに違いない。音は重なり合って、交じり合い、やがて空へと昇っていく。
私はタップを踏み、空へと浮き上がった。音が私をふわりと浮き上がらせ、また風を蹴ると音が弾け、雲の上まで駆け上がっていく。初老の男性は私に小さく手を振ってみせ、雲の下に掻き消えた。
私は周囲の音楽に乗って空を蹴り、雲の上を跳ね続ける。雲は周囲に流れ、たなびいていき、私は雲の中に紛れ、泡沫の夢を見る。そこに浮かぶ誰かの笑顔は片時も忘れたことのない、大切な家族のものだ。今、遠い街で一体どんなことを思って生きているのだろう。
なかなか帰ることのできない私を、忘れているだろうか? 寂しい想いはしていないだろうか? そんなことを思うと、雲へと身を滑り込ませ、突き進み始めた。ここがどこなのか、左右の感覚もないのに、私は一つの街へと向かってタップを踏み続けた。
音が無数に弾け、小気味良いリズムを踏んでいる。空気が薄く、そして冷たい感触が頬を覆う。少し寂しい気持ちが膨らんでいき、私は大きく右足で雲を蹴って、空へとさらに駆け上がった。
その途端現れた景色は、この世のものとは思えない景色だった。雲が晴れ、辺りが光に溢れ、眼下に一つの街が見える。娘がよく朝、散歩に出かける公園が小さく見えた。私は空から逆さまになり、さらにタップを踏んで、順に下降していく。
少しずつ公園の姿が間近に迫り、私は小さな雲の上に乗ってそこから覗いてみた。
そして――本当の、奇跡が起こった。
小さな三つ編みの女の子が、赤いワンピースを着て、片手に花を持ち、公園の芝生を歩いていた。私はもっと首を伸ばして、その姿を見つめた。そして、娘の名前を呼んだ。彼女ははっとした顔で辺りを見回し、そして頭上の私を向いた。
そのどこか思い詰めたような表情がすぐに消え、手に持った花よりも美しく透き通った笑みで、こちらに八重歯を見せた。そして大きく手を振るのがわかった。私はもう一度娘の名前を呼んだ。そして、すぐに雲から立ち上がり、タップを踏んで空を上下に螺旋を描いて下降していく。
トッ、トッ、ポチャン、トッ、トッ、ポチャッ――
水の音は私の頭の中で響き渡り、いつしかその音も消えていった。そして、元の広場に戻ると、私は薄い白い光のシーツへと体を吸い込まれて、まどろみの温もりへと意識を溶け込ませていった。
最後に見えた娘の笑顔が、私の心を笑顔にさせ、ふわりと花びらが頬に散った。
*
気付けば、私は瞼を開いて、窓の外の木漏れ日に目を細めていた。いつの間にか、またうたた寝をしてしまったのか。部屋の中はしんと静まり返っていた。先程まで部屋を覆っていた雨音も、今は遠い昔の残響のように耳からふっと消えている。
何もかもが静まり返っていて、外から鳥がさえずる声だけが私のすっきりとクリアな意識に響いた。
こうしてぐっすりと眠ると、仕事の疲れも忘れてどこか心地良くなってくる。文芸雑誌を閉じ、いつの間にか消えていたコンポのコードを抜き、脱衣場のバケツを片付けた。雨漏りはもうなくなっていて、バケツにはわずかな水しか溜まっていなかった。
私はそれを軽く指で弾いてみた。水面が揺れて音が鳴った。小気味良いその音に私は頬を緩ませながら、風呂場に水を流し、そのまま部屋へと戻った。
散歩に行こう、と着替え出し、窓の外を見ながら娘の笑顔を思い出していると、あの夢が何だか本当に夢ではないような気がして、娘に会えたという温もりがまだ心の中に籠っている気がした。
*
数日後、手紙が届いた。
お父さん、元気にしていますか?
絢です。こないだの日曜日、母さんと一緒に公園に散歩にいきました。まるで光の匂いがするみたいにとても暖かな日が差していて、気持ち良い朝でした。
すぐ前には雨が降っていたのですが、晴れた瞬間に暖かくなったのでしょう。
お父さん、驚くと思うけど、私、お父さんに会った気がしました。道端に花が落ちていて、それを拾って芝生に出たら、雲の上から父さんが呼んだ気がしたんです。
きっとお父さんが見ているんだ、と思って手を振りました。母さんは後ろから私を笑っていました。
私も父さんに会いたいです。今度のゴールデンウィークに帰ってきたら、私は父さんに書いた詩をいっぱい読んでもらおうと思います。毎日書き溜めてます。結構上手くなってますよ。
母さんは酒を飲みすぎないように、って言っています。私は少しなら飲んでもいいと思います。たくさんはやめた方がいいと思います。
それでは、短いですが、これで手紙を終えます。このことを伝えたかったのです。
大好きなお父さんへ、頑張ってね。
絢
*
私は窓の外の太陽の方向へと視線を向けて、その上の空の彼方にたなびくタップの音に耳を澄ませた。
そして、小さくジャンプし、畳の擦れる音を足裏に鳴らした。
了
Roof leak 御手紙 葉 @otegamiyo
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