黒白の境界

澤井ねこ

序章-1

「安心、それが人間の最も近くにいる敵である」

かの有名な劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの言葉。そして、ある消えた男の口癖でもあった。


降りしきる雨の中、四葉士郎は、この言葉を思い出していた。士郎の体には、複数の打撲痕や生々しい傷跡が残っている。疲労で鉛のように重くなった体、そして泥と血で黒く染められた服が、この戦闘の壮絶さを物語っていた。


(なんでだよ……)


男との戦いに負けた悔しさ、彼を止められなかったという虚無感、なぜこんなことになってしまったのかという疑問---


とめどない気持ちが、士郎の心の中を暴風雨のように掻き乱す。手の平に爪が組み込むほど強く握り締められた拳には、薄く血が滲む。その場に一人残された士郎は、轟々と降る雨の音に負けない声で叫んでいた。


「なんで俺たちを裏切ったんだよ!クソ親父!」



---事の発端は朝に遡る。


『5月14日。常識とはこの世で最も広く分配されている日用品であるbyデカルト』


「今日の格言も深いなぁ。お前もそう思うだろ?……っておい、聞いてんのか士郎!」


「はぁ?デカルト?そんなのどうでもいいから……。昨日、録画したアニメを消化するのに忙しいから、邪魔しないでくれよ」


「どうでもいいってお前……。過去の偉人たちが残した、ありがたい格言だぞ?その価値がわからないとは、お前もまだまだお子様だな。ハッハッハ!」


「もう、うるさいから……。この聖なる30分には、そんな薄っぺらい言葉を拝んでるよりも数十倍の価値があるんだよ」


「ただのアニメにか?大体お前はなぁ……」


朝9時。時守が、『日めくり!偉人の格言カレンダー』をめくる度に起こる問答である。日頃から自己啓発書を持ち歩く、46歳の父親・時守。そして、アニメをこよなく愛する現代っ子、18歳の息子・士郎。この四葉家の親子二人は、ことあるごとに意見が対立し、口喧嘩が絶えない、と近所で有名だった(朝食のゆで卵の茹で加減にまで、喧嘩は波及していた)。

はたから見れば親子ではなく、犬と猿、まさに犬猿の仲である。

しかし二人が長年の親子であることは、彼らの"仕事ぶり"を見れば、火を見るよりも明らかなのだった。


『警報!警報!千葉第二区画において"白"が確認されました。一般市民は避難すると共に、現場近くのラウンダーは対応にあたってください』


普段のように士郎と時守が言い合いを続けていると、突然けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。


「おっと、仕事だぞ士郎。千葉第二区画なら俺らが一番近いからな」


「クソ親父のせいで、アニメまだ途中なんだけど。白のやつも、久々に出たと思ったら朝っぱらかよ……。迷惑な話だ全く。俺は今回、仕事パスしtー」


「そんな勝手は許さん!無駄口叩いてないでさっさと準備しろ!」


「デスヨネー」


二人は手早く(片方はやる気がないようだが……)、黒い制服に着替えた。専用の携帯端末に入ってきた情報を元に、現場に向かう。距離にして2km、わざわざラウンズの迎えを待つよりも、士郎は自分の"能力"で移動した方が早かった。


「士郎、先に行ってろ。今回はお前の方が適任だ」


「マジかよ。あとでMinimumコーヒー奢ってくれるなら……」


「わかったから、さっさと行かんかい!仕事をなんだと思っとる!」


「はぁ、どうせ親父の"能力"でどうにでもできるじゃんか……」


ブツブツと文句を言う士郎。しぶしぶだが指示に従う。士郎が軽くトンッと地面を蹴ると、まるで重力がないかのように体が宙に浮く。そして、空を翔けるように目的地へ向かった。それを見届けた時守も移動を開始する。


*二人が移動を開始する数分前、千葉第二区画。


警報が鳴り響いている。子供たちは、先生に引率されて、小学校の地下シェルターに避難してきた。先生たちが怖がる子供たちを一生懸命励ましている。泣き声や喋る声でザワザワとしているなか、一人の女の子がシェルターを見回してポツリと呟いた。

「あれ?結衣ちゃんがいないよ……?」



「意外と集中力いるんだよなぁ、これ。さてと、大体ここら辺だったよな……」


警報が発令されてから、およそ15分。携帯端末を片手に、空から降りてきた士郎が辺りを見回す。この周辺の住民の避難は完了している様子だった。


「きゃぁぁぁぁ!誰か助けて!」


女の子の裂けるような悲鳴を聞き、士郎が再び空を走って声のした方向に向かう。


(あっちかよ……。人質がいるとか勘弁してくれ!)


小学校近くの駐車場。

「大人しくしろ!てめぇは俺の人質だ。誰が好き好んで研究所のモルモットになるかよ!」


「いや、誰か助けて!」


「俺は透明透過の"能力"を手に入れたんだ。小学校から避難するガキ一人、攫ってくるなんて朝飯前だったぜ。これで俺を捕まえることは誰もできねぇ」


犯人は三十代ぐらいの、どこにでもいる顔つきの男。しかし普通の人間とは明らかに異なる外観---体中には、不気味な白い斑点が浮かんでいた。

男は、用意した車に女の子を無造作に放り投げると、その場を離れようと車のエンジンをかける。車が動き出したその時、男の眼前に黒い影が降り立った。


「おい止まれロリコン、その子を離せよ」


士郎は男の体の斑点と、後部座席から覗く子供の姿を確認した。そして静かだが、しっかりとした怒りを含んだ声で言い放つ。

---しかし車は止まらない。


「たかが一人にビビるわけねぇだろ!お前ごと轢き殺してやるよ!」


男のケタケタとした笑い声と共に、車は猛スピードで、士郎に向かって突っ込んできた。人質になっている少女は、恐怖からか、パニックを起こしている。彼女は、士郎からでもわかる程、大きな声で泣いていた。


「小さい子供を泣かしてるんじゃねぇよ……」


ゆっくりと意識を車に向け、運動の演算をする士郎。そして、士郎が左手を車に向けた途端、120km/h以上で走っていたはずの車がピタッと止まった。もちろん車がいきなり壊れたわけではない。士郎が有する"能力"、ベクトル操作によるものである。認識している対象物のあらゆる力の向き、すなわちベクトルを任意に操作できる。体にかかる重力のベクトルを操作すれば、先ほどのように空を自由に移動することもでき、応用の範囲は幅広い。

このベクトル操作によって、車の推進力は前後に均等に向けられているため、車は完全に停止していた。

そんなことを知る由もない男は動揺し、必死にアクセルを踏んでいる。しかし、車は微動だにしない。


「お前にもう逃げ道はねえよ。さっさと人質を返して投降しろ!」


「小僧ごときがふざけやがって……。こうなったら俺の能力で逃げてやるよ!」


次の瞬間、男の姿が士郎の視界から消える。

男は透明透過の能力を使用し、車から立ち去ろうとしていた。


「あいつの能力か。おい待ちやがれ!」


怒鳴り声をあげる士郎。しかし、車の勢いを殺すのに集中を割いているため、透明になった男を追いかけることができない。かといって能力を解いてしまえば、車は再び動き出し、まだ車内にいる女の子を危険に晒してしまう可能性があった。


この状況をどうしようかと、士郎が焦った表情を見せた時、強烈な爆音、そして突風と共に顔馴染みの男が声をかけてきた。


「士郎、お前は相変わらず爪が甘いな」


「親父!?遅ぇよ!

白が逃げちまったじゃねえか」


「馬鹿野郎、よく見てみろ」


そう言い放った時守の手には、士郎の目の前から逃げたはずの男が、気を失った状態で捕まっていた。白としての能力は切れており、姿は見えるようになっている。


「お前のことだから、能力と機動力にかまけて、こうなる気がしてたんだわ」


「……本当にふざけた能力だな、あんたは。でも今回"は"助かった」


全てお見通しだと言わんばかりの時守。そんな父親とは裏腹に、士郎は半ば呆れた表情を浮かべていた。しかし、父親に対する強がりを忘れていないあたりは、生意気な彼らしいというべきだろう。


親子としての会話はそこそこに、士郎は人質になっていた少女を無事に保護する。少女は状況が飲み込めずに、すすり泣いてた。その反対側で、時守は捕まえた白を連行するラウンズの輸送機を要請している。


「……親父。この子、このまま帰すわけにもいかねえし、付き添って先に小学校行ってるわ」


「おう、わかった。お嬢ちゃんはとっても勇気のある子だったぞ!だから、このお兄さんに変なことされたら大きな声で叫んで……」


「するわけないだろ!余計なこと教え込むなよ!」


冗談めいた時守の言葉に、少女は笑顔を見せていた。それを見た士郎も、少しほっとした表情である。


学校へ向かう二人を見送る時守。士郎と別れてから少し経って、まだ昼前の青い空に、一機のヘリが現れた。


「白の捕縛、ご苦労様でした」


「いや、なんのなんの。今回は人質も安全に保護できましたので、上にはそのように報告を」


「承知致しました。『白い悪夢』がはじまった当時と比べて、四葉のお二人のおかげで近頃の千葉は大きな問題がなくて助かります。いつもありがとうございます」


二人と同様の黒い制服に身を包んだ輸送担当者は、時守から事態の経緯と白の能力を聞いていた。その後、一通りの手続きを終えると、白の男を乗せたヘリでその場を後にした。


---『白い悪夢』

現在の日本、ひいては世界において最も大きな懸案事項となっている、ウイルス災害の通称である。

人間へのウイルス感染が発覚したのは、今から20年前の2030年。最初のウイルス感染者、通称Case1は、ヨーロッパ北西部にある小さな田舎村で見つかった。まだ20代前半だった女性の体中には、奇妙な白い斑点が浮かび、普段の温厚な性格からは想像できないほどの残忍性、かつ凶暴な行動を示したとされている。そして特筆すべき特徴として、近代科学ではありえない、特異な能力を使用していたことが知られている。

その後、世界各国でもウイルス感染者が見つかり、ウイルスの感染経路、治療法、また予防方などが長年研究されてきた。その研究過程で、人類が積み上げてきた歴史や科学といった、いわば『人類史のキリスト』を裏切るかのような症状から、|ユダ≪J≫ウイルスと名付けられた。またJウイルス感染者を、その見た目をとって、Whiteや白と呼称するようになった。

Jウイルスの研究は、白の個体数が少ない点や、能力があるために捕獲するのが困難な点等で難航したが、いくつか発覚したことがあった。


一つ、Jウイルスの因子は、全ての人間の体内に元々存在していたこと。すなわち感染経路が問題なのではなく、いかに発症を抑えるかが重要だと推察された。


二つ、白化した人間の体内から抽出した、活性化しているJウイルスを常人に注入しても、その者が白になることはないこと。


三つ、上記の処置をした被験者のうち、ごく数パーセントの者が白と同様の特異能力を発現させたこと。


以上の三点は、数少ない被験体にはあてはまるだけ、言うなればただの仮説であった。なぜなら、研究当時では臨床もままならず、不確定要素が多く介在したからだ。そこで、"予防注射"と銘打ち、民間人に活性化したJウイルスを投与する実験が提案されたのが14年前。現代ではありえない、非合法的な実験である。しかし各国の政府は、原因の特定ができない未知のウイルス災害に対抗できるならばと、藁にもすがる思いで実験に協力した。なんの皮肉であろうか、一度は人類を見放したはずの天が味方し、実験は成功。

Jウイルスないし、白に対抗する切り札となり得る"特異能力者"たちが誕生した。

彼らに与えられた生業は、Jウイルス感染者である白の捕獲。その行動を統括する特務機関として、Black Lowndes(日本ではラウンズ、黒の騎士と呼ばれる)が設置された。四葉の親子も、ラウンズ日本支部に属する、通称ラウンダーであった。


時守が白の引き渡しを行なっている頃、士郎と少女は学校に到着していた。

少女の同級生や先生方が、彼女を見るや否や、心配と安堵の言葉を口にしていた。しかし一方で、大人たちの悪意に満ちた視線が自分に向けられていることも、士郎は感じ取っていた。

騒動の熱もひと段落した後、遅れて到着した時守が今回の事態を保護者、また管理職の教員に説明している。どうやら責任問題などにするなどと、文句を言われているようだった。


士郎は、話している時守から少し離れた校門に寄りかかり、虚ろな目でそれを見ていた。


否が応でも重なってしまう暗い記憶。周囲の人から時守に向かって投げつけられる、罵詈雑言という名のナイフ。彼にとって大切な人が一人死んだというのに、誰も気にしない、気にかけようともしない。一般人にとって時守は、士郎は、ラウンダーは、治安を守って当たり前の軍事兵器。自分たちを守護する化物に過ぎない。


(なぁ親父。俺たちは何のために、誰のために働いてるんだろうな……)


士郎は天を仰ぎ、深く息を吐いた。答えの出ない問いに対する、自分自身の心の声に蓋をしているようだった。


学校から千葉中央基地に出勤する道すがら、時守は自販機でコーヒーを買って士郎に投げ渡す。


「……親父、これミニ缶(Minimumコーヒーの略称)じゃないぞ」


「ん?いやなんだ、現実はとっても苦いからよ。コーヒーぐらいは甘いの飲んどけってこと、ガハハ」


「全く……つまらねぇ洒落言ってる場合かよ」


くだらない駄洒落でも、先ほどまで生気の抜けた表情をしていた士郎に元の明るさが戻る。それを見た時守は満足げに笑っていた。

公園のベンチに座り、コーヒーを片手に何気ない会話を続ける二人。会話の途中、ふと一点を見つめ真剣な顔つきになる時守。その表情は、とある話題について切り出すかを迷っている風にも見えた。そして時守の重い口が開かれる。


「士郎、もし俺が白になったらお前どうする?」

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黒白の境界 澤井ねこ @neko_sawai

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