とうげんきょう

ゆきさめ

とうげんきょう



 「とうにゃん」というものを買うことにした。



 都の近く、一本裏へ入った小汚い路地裏、そこへ店を出す男が売っているのは美しい花のようなものであった。籠をいくつか並べて店を広げる男は、聞きなれない訛りで商売をしているという。大方海の向こうの大陸のやつだろう、とうにゃんというのがそっちのものだということは、すでに友人から聞いていた。

ともかく、私は、花籠に入れられた美しいとうにゃんを一つ、買うことにした。

 桃だけで生きるというとうにゃん。それが五つほどがひしめく花籠の中、どれにしようか迷った末に、一番線が細く、一番幸の薄そうなものにしたのだが、これがまた儚いというよりもただ弱いだけのようだった。

 とうにゃんは、ぎこちなく私になにかを言った。聞き取れない。売り子が下卑た笑みを浮かべているので眉をひそめると、感謝しているのだということを教えてくれた。

 私は軽く手を掲げて、売り子から教わった、覚えたばかりの言葉を返す。しぇしぇ、と伝わったかは分からないが、相変わらずだった。売り子の男は下品な笑い方である、私もまあ人のことを言えたものではないのだが。なにぶん老いた身、だらしなく垂れてしまう筋肉が表情というものを殺していた。

男は今日はもう店仕舞いだと手を振る。とうにゃんを入れた花籠をそっと閉じ、きっとまた物好きを待つのだろう。

 さて、ともあれ、私は満足だった。

 この老いぼれの片腕に抱かれるとうにゃんはひどく軽く、ふわりと甘い香がした。白く溶けだすかのような肌の色に、切り揃えられた長い黒髪が映える。儚いというよりも、そう、やはり弱いだけのようだった。


 不老長寿の象徴であるたおに祝福されたとうにゃんは、しかしこれそのものは不老長寿ではないのがまたいい。たおそのものは枯れ朽ちる運命でしかないのが、またいい。

そもそも私は不老長寿の妙薬は欲していなかったし、回春にも興味はない。老いぼれの身一つで、残り少ない寿命を過ごすのが寒々しかったのだ。猫を飼うにも猫の方がきっと長生きをする、子どもは既に皆出て行ったし、どこへ行ったかなど分からない、妻は若い頃に出て行ったきりである。

 そんなとき、大陸を渡ってきたという友人に話を聞いたのだ。とうにゃんがいいぞと、友人は桃の香りをさせて艶やかに笑っていた。確かそいつは私よりも年上であったはずだが、妙に調子が良さそうであったのを覚えている。きっと余生に安堵したのであろう。


 とうにゃんはいいぞ。

友人は言った。


幸い私たちは金に困っていなかった。むしろ腐るほど有り余って困る身であり、ゆえにどれほど高価でも金銭的な問題はなかったのである。

 こことは違う大陸にいるそれを、友人は絶賛していた。まぁ、それがとうにゃんであるのだが、まずはとうにゃんという聞きなれない不思議な音に興味を引かれた。

なんでも、とうにゃんの寿命は短いらしい。どうやら、とうにゃんとはひどく弱い生き物らしい。

少女の姿をしたとうにゃんは、桃の娘と書くそうだが、まさにその名が示すとおりだった。


家に連れ帰り、柔らかな寝台へ座らせてやると、微かな甘い香りが部屋を満たした気がする。血の気のない不健康そうな肌の色だが、若かった頃の妻よりもずっとずっと美しかった、どんな女よりも美しかった。

 連れてきたとうにゃんは、何を思ったのか、絹の繻子でできた上等な着物をそっとたくし上げていた。寝台の上で、折れそうに細い足を露出させていた。

 行動の意図が分からずにじっとしていれば、とうにゃんの手がとまる。ほっそりとした足は骨のようであった。私のような老いた身でも容易く折れそうであった。

 互いに見詰め合うと、とうにゃんの黒目がちな瞳には老いぼれが一人……。

 距離を置いたままでいると、やがてとうにゃんは何かを口にした。音の跳ね方は耳慣れないもので、何を言っているのかはまったく分からなかった。分からなかったが何も進まないので、適当に頷いておいた。

 心なしか、とうにゃんに表情が見えた気がした。とうにゃんとは少女であるらしい。

 それからというもの、とうにゃんは何度か怯えた猫のような表情を作っていた。その度に私の顔色を窺うように間を置いて、すっかり安心したかのように寝台に身体を横たえるのであった。


 とうにゃんには桃を与えろというから桃をやって、私はその隣で泥のような食事を啜る。もはや咀嚼さえも困難であった。

 飲み込むだけの食事を見つめるとうにゃんはそっと私に寄り添うと、桃の香が鼻をくすぐる。実際のところ嚥下も面倒であるので、桃の香、それだけで食事など十分であったが、とうにゃんは己の手の中で果汁を零す実をそっと私に差し出したのだ。

 今はもう、柔らかな桃の果肉さえ食むことが出来ない。首を横に振るも、とうにゃんは執拗にその手を私の方へ向ける。仕方なしに垂れる果汁を僅かばかり啜り、手を上げる。もういい、と言ったが通じたのだろうか。とうにゃんは口角をあげて、あどけない少女のように微笑んだ。

 とうにゃん自身の桃の香と、口内に残った仄かな桃の味。なるほどとうにゃんとは、確かにいいものだ。しかし私は猫のように残して逝くのが嫌で、寿命が短いというとうにゃんを傍に置いたのだが……。


 まぁいい。じきに、きっと。


 そうしてこの身は果てる、枯れてゆく、墓穴にはもう両足をしっかりと突っ込んでいる。私に不老長寿の桃の加護というのはなく、しかしとうにゃんの様子は変わらなかった。

 とうとう臨終を感ずる床となった晩でさえ、とうにゃんは変わらず私の傍にいた。

 嗚呼、こんなはずではなかったのだが。

 枯れきったこの命の隣、弱いだけであったはずのとうにゃんはしっかりと寄り添っていた。私の枯れ木のような手を弱弱しい握力で握り締め、何事かを囁く。

 私は理解できない。

 だが、とうにゃんの必死なその、黒目がちな瞳には歪んだ老人が一人映っていた。とうにゃんの、桃の香を含んだ涙が私の頬に落ちるも、それに不老長寿の効果はないらしい。

 とうにゃんの、金糸雀のような美しい声音が、何を意味しているのか分からない。四つほどの音が連なっているが、曖昧だ。


うぉ、しい、ふぁん、にい。


そう、とうにゃんは繰り返す。

 己のように弱いものを一人残していくことを、とうにゃんは責めているのかもしれない。すまないことをした、こうなるのならば買うのではなかった。やはりとうにゃんは桃が象徴するように不老長寿であるらしい。とうにゃんはただただ、繰り返す。

泣き顔は、儚げだった。


――あなたがすきです。


桃の娘もじきに世を儚んで空をゆくだろう、そのとき娘の顔はきっと、「らしくない」笑顔で男のことを探しにゆくのだろう。



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