現実をポケットに
秋葉 達
第1話
彼女は必ず僕の左隣に座る。
ただの癖なのか、後ろめたい気持ちがあるからなのか、僕にはわからない。ただ、初めて二人で食事に行った時から、二度と会えなくなるその日まで、それだけは変わらなかった。
今からちょうど半年前、仕事終わりに彼女から食事に誘われた。会社の上司から飲みに誘われることはよくある事だが、上司とはいえ部署の違う彼女から誘われたことに
僕は動揺していた。
彼女の行きつけだというお店に着くと、カウンター席に並んで座った。普段は大衆居酒屋やチェーン店でしかお酒を飲まない僕は、お洒落な雰囲気のお店に圧倒されてしまう。
「何飲む?」
メニューを捲りながら質問する彼女に対して、なんて答えればいいのか迷う。飲み会といえばビールなんだけども、お店の雰囲気がそれを許さない気がした。お酒の名前なんてほとんど知らない僕は、必死でメニュー表に載っているお酒の名前を目で追った。
「あ、私が決めちゃってもいい? ここ、料理もすごく美味しいんだよね」
鼻歌でも聞こえてきそうなほど上機嫌な彼女を見て、僕は自分の目を疑った。会社ではこんな表情見たことない。今日誘われたのだって、てっきり怒られるとばかり思っていた。
あれこれ注文する彼女を見ながら、僕はひたすらに考えていた。なぜ僕を誘ったんだろう。なぜこんなにも上機嫌なんだろう。実は僕のことが気になっていて、それで誘ってくれたのだろうか。いや、そんなことはありえない。やっぱり何か怒られるに違いない。
テーブルの下で握りしめた拳が湿っているのに気付き、彼女に見えないようにスーツで拭う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。って、上司に呼び出されて二人でお酒を飲むなんて、緊張しないほうが難しいか」
微笑みながら話しかけてくる彼女は、怒る気配なんてないように思った。
「あ、はい。いえ、お誘いいただいて恐縮です」
「硬いなぁ。もっとリラックスしていいんだよ。せっかあく良い雰囲気のお店なんだもん」
店内ではクラシックが流れ、ブルーの間接照明がお酒のボトルに反射してかがやいている。お客さんも落ち着いた雰囲気の人ばかりで、一目で高級な店だとわかる。
「あ、もちろん私の奢りだから、気にしないで飲んでね」
一瞬、心を読まれたんじゃないかと思った。挙動不審になりながらも「ありがとうございます」と答える。
少しの沈黙が何十倍にも長く感じた。こっちから話を振ったほうがいいんだろうか。大学生の時、上司との飲み会に関するマナー本はしっかりと読んだのだが、異性の上司と二人っきりで高級そうなバーに行った時のマニュアルなんて書いてなかった。
なにか話そうとしている間に、先ほど注文していた料理とお酒が運ばれてきた。
互いのグラスを合わせると、甲高い音が店内に響く。
名前のわからない液体が入ったグラスを傾けると、上品な香りと味が口の中にひろがる。
「どう? 美味しい?」と少し不安そうに訪ねてきた彼女に対して「すごく美味しいです」と笑顔で答えた。
彼女が言った通り、このお店の料理はどれも美味しかった。最初は緊張で喉を通らないんじゃないかと心配していたが、そんなのは杞憂だった。次々と料理を頼む彼女に負けない勢いで、僕は運ばれてくる料理を平らげていった。美味しい料理と美味しいお酒に僕の心身は満足し、緊張なんてどこかに飛んでいってしまった。お酒もいい感じに回ってきて、とても気持ち良い。
「本当に美味しそうに食べるよね。やっぱり若いからかしら」
「いや、ここの料理が美味しいからですよ。こんな美味しい料理初めて食べました」
「そう言ってもらえて良かったわ。連れて来た甲斐があったってものよ」
お酒がかなり進んでいるせいか、少し顔が赤く見える。満足そうに笑う彼女の表情を見つめながら、グラスに残ったお酒を飲み干した。
「実はね、私すっごい落ち込んでいたの」
同じくからになったグラスを見つめながら、彼女は呟くように小さな声で言った。
「旦那がさ、浮気してたのよ。しかも十個も年下の女と」
視線んを動かさず、淡々と話す彼女の姿を見て、僕は言葉を失った。
「うちは子供もいないし、共働きでお金には不自由してないし。そりゃ少しは遊んでるかもとは思っていたわよ。でもまさか、成人したばかりの女を抱いているだなんて想像してなかったのよ」
ブルーの間接照明に照らされた彼女の頬に涙が伝う。
「それでね、私も浮気してやろうと思ったの。浮気相手と同じくらいの男を捕まえて、密かな復讐をしようと思ったのよ」
流れた涙が頬を伝い、彼女の左手に落ちる。涙で輝きを増した指輪を撫でながら、彼女は話を続けた。
「でも、あなたの姿を見ていたら、昔のこと思い出しちゃって。幸せだった時のこと。旦那もよく食べる人だったの」
きっと彼女は、昔の旦那さんと僕を重ねて見てしまったのだろう。幸せだった記憶を思い出し、その幸せが壊れてしまった現実も思い出してしまった。幸せな夢から覚めてしまった彼女は、また辛い現実と向き合わなくてはいけなくなった。
「ごめんなさいね、変なことにつき合わせちゃって。いきなり泣いたりして……みっともないわ」
涙をぬぐいながら無理に笑顔を作ろうとする彼女を見て、僕は自然と口を開く。
「みっともないなんて事はないですよ。女性の涙は宝石よりも美しいって言いますし
。こんな美しい宝石を見られるだなんて、僕はラッキーです」
突然キザな事を言う僕に唖然としただろうか。ふふっと笑う彼女を見て、僕は少し安心した。
「そうだ! 素敵なものを見せていただいたお礼に、今後の運勢を占ってあげますよ。僕、手相占いが得意なんです」
そう言って右手を彼女の前に差し出すと、彼女はその上に重なるように左手を置いた。
「知っていますか? 手相占いをするときは、利き手と逆の手を見るんです」
昔見たテレビ番組で得た知識を披露しながら、僕は彼女の手に顔を近づける。
しばらく彼女の手のひらを見つめた後、そっと彼女の手を握った。
「ここじゃ薄暗くてよく見えないので、明るいところでゆっくり占わせてください」
手に当たる金属の感触を確かめてから、それをゆっくりと指から外す。
「ほら、行きましょう。今度は僕にエスコートさせてください」
指輪をスーツのポケットに入れながら、僕たちは歩き出した。
外はもう、すっかり暗くなっていた。夢から覚めるのはまだ早い。
現実をポケットに 秋葉 達 @Toru_Akiba
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