第3話

 夜になると、マムはこっそり僕のベッドに潜り込んでくる。

 添い寝をしてくれるなんて、なんて優しいママなんだろう、って?


 いやいや、確かに僕は一瞬で身体だけが大きくなったから、精神は幼いかもしれないけど、あれからさらに10年は経っているのだ。マムの血のおかげで――というか、せいで、というのか――僕の身体はもう魔女の血なしではこれ以上年を取ることが出来ないらしく、この度やっと精神が肉体を追い越したのである。


 というわけで、さすがにもう添い寝が必要な年ではないことがご理解出来たのではないだろうか。


 そしてもちろん彼女の方でも、そういう理由で夜な夜なやって来るわけではない。

 目的は――僕の身体だ。


 あの時僕を食べ損ねたことをいまも悔いているのか、彼女は毎夜僕の肌を口惜しそうにサリサリ、サリサリ、と噛むのである。いや、噛む、というよりは肌の表面を歯で削り取ろうとしている、という方が正しい気がする。


 僕がそれに気付いたのは5年くらい前の寝苦しい夜だった。

 僕は薄着をして――というか、ほとんど半裸の状態で――なかなか深い眠りにつけないことに苛立っていた。そこへマムがふらりと現れたのである。

 彼女はやにわに僕に覆いかぶさると、無防備にさらけ出していた僕の背中に歯を立てたのだった。重さは感じなかった。恐らく宙に浮いていたのだろう。ただただ、くすぐったかった。その時は。


 いよいよ食べられるのか、とやけに冷静だった。

 こうやって少しずつ削り取って食べるのか、なんてことを考えているうちに、僕はだんだん気持ちが良くなってきて、そのまま眠ってしまったのである。


 翌朝、僕の身体はどこも欠けていなかった。

 痛みという痛みもなかった。


 もしかしたら夢かもしれないと思った。

 しかし、それは翌日以降も続いた。

 やがて、熱帯夜が終わり、これといった暖房設備のない僕の部屋が冷えるようになると、マムの夜這いはなくなった。だって、少しでも「寒い」と思ってしまったら、僕は薪になってしまうんだから。


 それが、だ。


 去年から僕の部屋にも小さな暖炉が取り付けられた。

 ということは、だ。

 部屋を暖めておけば、マムは毎日やって来るのではないか。


 僕の読みは当たった。

 それからマムは、季節に関係なく毎夜僕のベッドに潜り込んでは、僕の肌に歯を立てていくようになったのだ。


 マムは僕が起きていることに気が付いていない。と思う、たぶん。

 

 ここ最近じゃマムの方でも大胆になって来たというか、僕が起きない(本当は起きてるけど)のを良いことにかなり際どいところにまで歯を立てるようになった。ここまで来ると僕も何だか意地になって、絶対に声を上げないぞ、なんて無駄に決意してみたりして。


 けれどももうそろそろ限界だ。


 今夜、僕は最後の砦であった下着すらも身に着けずに眠ることにした。それでもうつぶせで待機したのは、いつもの癖もあるが、さすがにちょっと恥ずかしかったのである。

 

(――まぁ!)


 囁くようなヴォリュームではあったが、そぅっと布団をめくったマムが可愛らしい声を上げた。


 してやったり、と僕は思った。

 さぁ、どうする。


 彼女はいつものように、ふわり、と僕に覆いかぶさった。重さは感じずとも、彼女の柔らかな髪が触れるのでそうとわかるのだ。彼女の髪が三つ編みから解放されるのは、湯あみのわずかな時間とこの時しかない。

 そして、いつものように肩の皮膚をサリサリと噛んだ。右も左も満遍なく。

 次に肩甲骨の辺り。もちろんこれも左右。

 彼女は背骨に沿ってどんどんと下へと移動していく。

 いつもなら、腰と尻の境目辺りでこれは終わる。

 

 さぁ、どうする。


 ――がぶ。


「――――――っ!!?」


 噛まれた。

 これは完全に。

 迂闊にもびくりと身体を震わせてしまった。


「やっと起きたわね、このにぶすけ!」

「ま、マム……?」


 慌てて起き上がると、マムはもう僕の身体から下りていて、ベッドの脇に仁王立ちしていた。


「何でまた今日は何も着てないのよ!」


 怒っているというよりは、呆れたような声だった。僕はベッドの上できちんと座り直した。


「あんた、私がここに通ってること、知ってたの?」

「えぇと……、それは……」

「嘘吐きは嫌いよ。正直に言いなさい」

「知ってました」

「知った上で?」

「知った上で、です」


 素直に白状すると、マムは、大きなため息をつきながら僕の隣に腰掛けた。彼女の重みの分だけマットレスか微かに沈む。


「そりゃああたしのやってることも大概だけど、だからってどうして全裸で寝るかなぁ。あたしが驚いて悲鳴を上げるとでも思ったの?」

「悲鳴? マムが? まさか」

「それじゃ何よ」


 マムは眉をしかめ、首を傾げた。

 彼女の長い髪がそれに合わせてさらりと流れる。

 あぁ、なんて美しいのだろう。

 僕はその柔らかくうねる絹織物のような髪に触れたくてたまらない。


「僕もマムの肌に歯を立てたい」


 つい、そんなことを口走ってしまう。


「――なっ? 何言ってるの?」

「ですから、僕ばかり齧られるのは嫌だと思って」

「どっ、どうして嫌だと思ったからって裸になるのよ!」

「えぇ? 興奮しませんでした?」

「――はぁぁ?」

「僕はずっとドキドキしてましたけど。ていうか、しない方がおかしくないですか、この場合」

「ぐぅっ……! でも、あたしは別にそういうつもりで……!」


 マムの薄桃色の頬がより一層濃くなる。いつかマムに連れられて見た芝椿の花のようだ。


「僕は知ってるんです、マム」

「知ってる? 何を」

「マムが僕の皮膚を削り取るように噛む理由です」

「…………」


 魔女の血で成長した生き物は、いわば彼女達の同族だ。もう僕には一滴だって人間の血なんか流れてはいない。


 魔女にとって同族を殺めること、食らうことは決して犯してはならない罪だ。それは人間の世界でも同じである。

 魔女の魔法は同族には効力を持たない。だからもし、彼女が僕を殺そうとするならば、物理的な手段を取らざるを得ないのだ。

 僕はもう、マムのために薪になることも、食材になることも、薬の材料になることも出来ない。

 

 それを知ったのは最近だったけど。


「僕を食べようとしたんですね」

「…………」

「魔女は一人でいるものと相場が決まってるんですもんね」

「…………」

は重罪ですよ」

「……何であんたが知ってるのよ」

「地下の書物に書いてました。僕なんかに掃除を任せるからですよ。僕を食い殺した罪を背負って残りの人生を生きてくださるつもりだったんですか」

「……違う! あんたは何もわかってない!!」


 マムは宝石のような灰色の瞳を目一杯開いて僕を睨み付けた。そこからはほろほろと大粒の涙が滴となってこぼれ落ちている。


「僕は何もわかっていません。マムの本当のところなんて、何もわかりません。でも、僕はマムに食べられるのなら本望です」

「そんなこと言わないで、ロッタ……。あたしはただ、もう一人になりたくなかっただけなの。いつかあんたがあたしの元を離れてしまったらと思うと……だから……」


 マムはすっかり萎れたように項垂れていた。


「マム、僕は絶対にあなたのそばを離れたりはしません。あなたが死ぬまでずっと一緒にいます」


 僕の言葉に彼女の頭が持ち上がる。しかしその瞳にはまだあんまり光がない。僕が大好きな灰色の瞳は何だか濁っている。


「――僕と子どもを作りましょう、マム」

「何ですって?」


 ぴくり、と彼女の身体が震えた。

 髪の隙間からちらりと見える耳が赤くなっている。


「まだマムが若い魔女なのは知っています。まだそんな年ではないのもわかっています」


 魔女にとって出産は最の大仕事である。

 魔の名の通り、彼女達は女性しか存在しない。種の存続のためには異種族の雄と交わる必要がある。そして、当たり前のように女児しか産まない。


 生まれた女児はもちろん魔女となる。母から


 魔力をすべて我が子に与えてしまった母親は『脱け殻』と呼ばれる。魔力がないのだから、もう魔女ではないのだ。

 『脱け殻』の老いは人間のそれよりも速く進み、最後は正に『脱け殻』の名にふさわしいほどにカラカラと乾いてしぼんでしまうのだという。そしてそれは娘が最初に作る薬の材料となるのだ。


「マムが死んだら、僕も死にます」

「あんたは死ななくて良いじゃない」

「魔女に父親は必要ない。どうせ娘に殺される運命なんです」

「娘はあんたを殺せない。あんたに魔法は効かないんだから」

「マムを看取ったら、もう僕にはここにいる理由なんかなくなるんですから。娘が駄目でも、手段はいくらでもある。魔法じゃなければ良いんですから」


「あなたを愛しているんです、リシュ」


 灰色の瞳に薄く膜を張っていた最後の涙がほろりとこぼれると、ようやくマムは安堵したように笑った。



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