魔女とかつて捨てられた子

宇部 松清

第1話 

「ちょっとお使いを頼まれてくれないかしら」


 そんな軽い感じで依頼されたお使いだったのだが、内容の方はというとちっともの範疇におさまるものではなかった。


「この時期に銀翼蝶々を捕まえて来いだなんて……」


 確かに銀翼蝶々はこの森で大量に発生する。それは間違いない。ただしそれは雨期の話であって、あいつらは、敵の少ない雨期に適当な大きな葉を見つけてはその裏にびっしりと卵を産み付けるのだ。そして雨期の終わる頃になると一斉に孵り、自分達を守ってくれたその葉をむしゃむしゃと食い散らかして成長する。恩も何もあったもんじゃないが、野生の生き物というのはむしろそういうものだ。己が生き延びるためには手段など選んでいられない。葉を食むついでに成長の遅い弟だか妹だかも食らってしまう。

 そうして全体数を減らしつつも大きくなると、やはり一斉にこの森を離れてしまうのである。


 とはいえ、どこの世界にも変わり者というのはいるもので、あえて留まったのか、それとも置いていかれたのか、数匹はこの森に残る。もちろん、彼女はそれを捕まえて来いと言っているのだ。


「まぁ、他ならぬマムの頼みだから」


 そんなことを呟きながら木のウロの中をそぅっと覗く。

 雨期を選んで卵を産むような銀翼蝶々は、外敵に対してかなり臆病だ。だから隠れられそうな場所を見つけるとほとんどそこから動かない。来年の雨期になればまた仲間がこの森にやって来るが、それまでは近くの花の蜜を控えめに吸ったり、地を這う粉虫などの極小の昆虫をつまみながらささやかに暮らすのである。


 それでも一応、一番弟子の意地とプライド、それから長年の勘ってやつを駆使して何とか3匹ほどを捕まえた。


 僕は本当に運が良い。


 特に何匹とは指定されていない。だからまぁこれくらいでも良いのだろう。


 そう思って小屋に帰ろうとくるりとUターンをした。その時だ。


「助けてください……」


 か細い声が聞こえた。

 幻聴かもしれない。この森の木々の中にはそうやって惑わしてくる厄介な種も多いのだ。


「助けてください、……」


 あぁ、これは違うな。

 そう思ったのは、その声の主が僕の名前を知らなかったからだ。


 この森の木々が僕の名前を知らないわけがない。


 この森に棲む偉大なる魔女マム――リシュ・ガ・ナザロ・ゲルブネスタハ・ヴァッタ様(正式な名前はもっと長いらしい)の一番弟子であるこの僕、ロッタの名を。


 そう思って目を凝らしてみれば、老いた木の根の上に、ガリガリに痩せこけた子どもが腰掛けているのが見えた。生きてるんだか死んでるんだかわからないようなその老木に溶け込みすぎていて、よほど注意して見ないと気付かなかったのである。


 成る程、擬態とはこうやるのか、などと思ってみる。


 いや、その子どもの方では擬態――つまり隠れる気などなかったらしいのだが。


「こんなところで何をしているんだ」


 自分の庭のようなこの森をなんて言うのは少々気が引けたが、人間達がここをそう表現しているのを僕はよく知っている。


「捨てられたのです」


 男なのか女なのか判別出来ないような幼い子だった。会話がきちんと成り立つ上に目上の者に対する言葉遣いも出来るということは、実年齢はもっと上なのかもしれない。


「捨てられた。誰に?」

「お……、親にでございます」


 そう言って子どもはふるふると震えた。寒いのだろうか。


「それで、僕に何を?」

「どうか、何か食べるものを」

「食べるものか……」


 そう呟きながら辺りを見回す。

 その子どもの周りにはさんざんにしゃぶったらしいふやけた木の枝と、とりあえず挑戦だけはしてみたらしい金剛虫の死骸が転がっていた。そして、足元にはやはり身体が受け付けなかったのだろう、吐瀉物が土中に吸収されきらずに残っている。それを目当てに足長甲虫が集まり始めたことに気付いたらしく、その子はその様子をちらりと見てすぐに視線を戻した。


「――食べる? 金剛虫よりは柔らかいから食べやすいと思うよ」


 そう提案すると、その子はまだそんな力が残っていたのかとこちらが驚くほどに力強く首を振った。

 まぁそりゃそうだ。どこの世界に自分の吐瀉物を啜るような虫を食べたいと思う馬鹿がいる。


 おまけにこの森に生息する昆虫の類はそのほとんどが大なり小なりの毒を持っている。

 ただ、最初に挑戦したのが金剛虫で命拾いしたと思う。彼らは外殻の堅さを売りにしているので、毒の方はというとかなり弱いのだ。ちょっと四肢が痺れる程度だし、吐き出したのなら問題もないだろう。


「だろうね。それじゃ、ついて来る? 運が良ければ何かもらえるかも」

「は……はい」


 その子は聞かなかった。

 にはどうなるのかということを。


 君は運が良いかな?



「ただいま戻りました、マム」


 僕がその子――歩きながら尋ねると、名前は『ユリウス』といって、どうやら男の子らしい――を連れて小屋に戻ると、我が最愛の魔女様は菜園に水を撒いているところだった。

 鼻歌なんかも歌っていて、とても満たされているような顔で。


 もしかしたら君は運が良いかも。

 僕はそう思った。


「お帰りロッタ。その子は?」


 マムはそう問い掛けながら、ユリウスをじぃっと見つめた。僕の好きな灰色の瞳を細め、品定めでもしているかのような目付きで。はぐれまいと必死に僕のシャツの裾を掴んでいたユリウスは、彼女のその視線に射抜かれたのかぶるりと震えた。


「西の方の象牙杏の根元で拾いました。マム、もし――」


 もし、


 そこまでの言葉すら言い終えることも出来なかった。僕の頬を涼しげな風がふわりと撫でたからだ。


 あぁどうか、この風が彼女の元へと届きませんように。


 けれど、大抵の場合、僕のこの祈りはどこにも届かない。


「――そうね、今日は冷えるわね」


 ごめん、やっぱり君はみたいだ。


 哀れなユリウスの運命はそこで決まった。

 彼は最初から存在などしていなかったかのように、ふ、と消えてなくなってしまったのである。

 彼の魂が行き着く先が天国なのか地獄なのか、それはわからない。そもそも、そういう場所にたどり着けるのかどうかさえ、僕には。


 この森では運が悪いと生き延びれないのだ。


「ロッタ、お使いご苦労だったわね。――ふぅん、3匹。この時期にしてはまずまずかしら。さぁ、夕飯にしましょ。何が良い?」

「そうですね。マムの手料理なら、何でも」

「良い、ロッタ? 毎日毎日言うけどねぇ、何でもっていうのが一番厄介なのよ」

「だって選べないんですよ、マム。マムの作る料理は何だって美味しいんですから」


 笑みを浮かべてそんなことを言ってみる。

 世辞の類ではあるが間違ってはいない。マムに作れない料理はないし、吐くほどに不味いものは出て来ないのだから。


「ふぅん。言うようになったじゃない。でもねぇ、そんなこと言われても困るのよね。作るのは簡単でも決めるのが面倒なの。わかる? それにねぇ、あたしはもうそろそろお腹が空くかもしれないの。そしたら大変でしょう、ロッタ? のんびり考えてる時間なんかないのよ」

「成る程。では、パイはいかがでしょうか。ほら、ちょうどそこの弾丸根苺が食べ頃です」

 

 そう言って菜園を指差す。

 僕とマムが日替わりで世話をしている弾丸根苺は、いまにも破裂しそうなほどに熟している。前回は収穫の時期をうっかり逃してしまって実がことごとく弾け飛び、隣の熟睡茄子にまで被害が出たのである。いくら双方に責任があろうとも、同じミスは許されない。


「ふぅん、パイか。パイねぇ。夕飯なんだか菓子なんだかわからないけど、ロッタが食べたいなら仕方がないわね。さぁ、中に入って」

「はい、マム」


 くるりと踵を返して小屋へと向かうその後ろ姿を追う。出会った時と変わらない、その華奢な身体を。

 それでも出会った頃は、かなり大きく感じたものだ。それは『魔女』という肩書きに怯えていたためかもしれないし、単純に僕が小さかっただけかもしれないが。


 下ろせばくるぶしまでの長さがある艶やかな黒髪は、緩い一本の三つ編みにしてぐるりと首に巻きつけている。

 肌は白磁のようにつるりと滑らかで、頬がほんのりと薄桃色に色づいており、その下にある唇は食べ頃の果実のような瑞々しい赤さがある。

 僕の大好きな灰色の瞳は、大抵の場合その長い睫毛に阻まれてなかなか拝ませてもらえない。そう思うほど、彼女はいつも伏し目がちである。


 まぁつまり、マムはというと、美女なのだ。

 彼女曰く、「この世の誰よりも美しく気高き偉大なる魔女」らしいのだが、僕はこの世のすべての女性を見たわけではないので、それが本当なのかどうかはわからない。わからないけれども、もし仮にこの世のすべての女性を見たとしてもマムが一番美しいと答えるだろう。

 


 ユリウスのように、僕が自分の親に捨てられたのはいまから10年以上も前のことだ。僕は数々の幸運に支えられながら、無事、この年まで生き長らえることが出来たのである。


 最初の幸運は、この森に捨てられたこと。

 そして、その次の幸運は、空腹のあまりに虹色羽虫に手を出す前にマムに拾われたこと、だ。


 僕は本当に運が良かったのだ。

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