第2話
「あんたもねぇ、物好きというか何というか」
「何がです」
マムの作ってくれた根苺のパイを咀嚼する。やはり甘いものだけでは、とか何とか言って、マムは結局ミートパイも焼いたのだった。
「さっきの子ども」
「あぁ」
「あんたの時みたいにはならないのよ。タイミングもあるし、あたしにだって好みってもんがあるんだから」
「では、僕はマムのお眼鏡にかなったというわけですか」
嬉しくなり、立ち上がる。
向かいに座るマムの元へ駆け寄り、跪いた。
「あぁ、僕の愛しいマム」
白く柔らかなその手の甲に口付ける。見上げると、彼女は困ったように眉をしかめていた。
「たまたまよ、たまたま。それからあたしの気まぐれね」
「例えそれがたまたまでも、気まぐれでも」
「――ふん。あたしはね、魔女なのよ。恐れと穢れの存在。いまだってねぇ、あんたが食べてるそれ、何の肉だかわかってるの?」
「わかってます。美味しいです」
「あぁ、一度でも食わせたあたしが馬鹿だった。癖になるのよね、この肉」
「マムが恐れと穢れの存在であるならば、僕だって同じです。僕はあなたの血を飲んだ。もう人間でも何でもない」
「もぅっ、何であたしの血なんか飲んだのよぅ」
マムはうざったそうに僕の手を振りほどいた。そしてその手の甲にパイのカスが付着していることに気付き、ナプキンで拭う。
「別にキスしても良いけどね、口の回りくらいは拭いてからにしてもらいたいもんだわ」
「わかりました。次からはそうします。ちなみに、キスはどこまで許されているのでしょう」
「どこまで?」
「マムのお美しい御手と、それから――?」
「――ふん。好きにすれば。どうせ運が悪けりゃ薪になるだけなんだから」
「マムの身体を暖める薪になれるのなら、それも本望」
「どこまでも気持ちの悪い子ね、あんたは」
吐き捨てられるようなその声を聞いて、僕は立ち上がる。彼女に背を向けて歩き、自分の席に着いた。
「そんなこと言って。本当は僕のこと、好きな癖に」
「――ふん」
マムはぷいとそっぽを向く。
僕はもうとっくに気が付いている。
僕はきっとこの先も『運が悪かった』なんてことにはならないだろう、と。
「でもねぇ、毎度毎度人間の子どもを拾ってこられても困るのよ」
「どうして」
「万が一、あんたみたいにならないとも限らないじゃない」
「そんな日が来ますかねぇ」
「おや、大した自信ね」
「だって、今日は言うほど寒くないじゃないですか」
「あんたはそうかもしれないけどね、年寄りには堪えるのよ」
「そうですか? ではなぜ、袖無しのローブをお召しになっているんです? そんなに寒いなら――」
「うるさい。気分よ、気分」
「まぁ、僕としてはマムのお美しい白肌を存分に拝めるので願ったり叶ったりですが。あぁその柔らかな胸に顔を埋めたい」
「本当に気持ちの悪い子ね」
暖炉では追加されたばかりの薪が燃えている。パチパチという音が、彼が上げることさえ叶わなかった断末魔の叫びのようで心地よい。
「僕に似てた」
「――何だって?」
「今日連れて来た彼です。ユリウスという名の」
「ふうん、そうなの。そうだったの」
「マムも気に入ると思ったのに」
「何、あたしに献上しようと思ってたの? あんた、自分がお払い箱になるとは思わなかったわけ?」
「全く」
「おめでたい頭ねぇ。あたしはねぇ、ロッタ。良い? あたしはねぇ、あんただってそもそも予定外なの。魔女ってのは一人で生きるもんだって相場が決まっているんだから。あたし達にとって人間って生き物はね、気まぐれに捕まえて薬の材料にしたり、一時の欲を満たしたり、そういうことのために存在してるの」
「知ってます。だから、薬の材料にしても良いし、欲の捌け口にでも何でもしてくださいっていつも言ってるじゃないですか」
それがあなたに出来るのなら。
その言葉だけはつぐんだ。
命が惜しいからではない。僕の命なんて、捨てられた時に終わってる。
理由は一つ。
マムが悲しそうな顔をしたからだ。
この人にこんな顔をさせて、尚も生きていられるのは僕くらいなものだろう。
「ロッタ……、あたしの可愛い子、そんなこと言わないでちょうだい」
マムは目を伏せて首を振った。
あぁもう、マムったら。
背中がぞくりと冷える。
なのに血液は沸き立つように熱い。
僕はマムに駆け寄って、その華奢な身体を包むようにして抱き締めた。
「あんたがいなくなってしまったら、あたしは、あたしは――……」
「ごめんなさい、マム。もう言いません。もう言いませんから」
小さなマムは僕の中で震えながらめそめそと泣いた。
マムの僕に対する感情は高低差がかなりあって安定しない。
冷たく突き放してみたり、かと思えばべったり甘えてきたりもする。
昔聞いた話では、どうやらマムは双子の魔女だったらしく、何らかの手違いでその妹だか姉だかと一つになってしまったのだという。だから、どちらかのマムが僕を冷たく突き放し、どちらかのマムが僕を溺愛しているのである。そんなことが本当にあるのだろうか。
僕がどっちのマムを好きかって?
そんなの両方に決まっているじゃないか。
けれど、どちらのマムにしても僕のことが大好きなのには変わりがない。
じゃなかったら、僕はいまここにはいない。
ほんの少し冷たい風が吹いたというだけで暖炉にくべる薪にされるか、
ちょっと小腹が空いたからと手頃な食材にされるか、
たまたま切らしていた薬の材料にされるか。
まぁそんなところだろう。
僕が見たことがあるのは、大体がこの3パターンに分類される。
僕のことが好きで好きでたまらないマムは、自分のうっかりで僕を失うことがないように、いつも細心の注意を払っているのだ。
気温の低い日についうっかり薄着をし、「冷える」なんて口にしてしまわないように厚着をし、
体型を維持するとか何とか言って食事の量を減らし、「お腹が空いた」なんて呟いてしまわないようにいつもそれなりに腹を満たし、
いつでもどんな薬をも作れるように、大量の在庫を保管出来るような巨大な倉庫を作り上げたのである。
この森では、ほんの少しでも運が悪ければ
僕は本当に運の良い子どもだったのだ。
僕がマムと出会ったのは、彼女がたまたま古い友人と会い、明日のことも何も考えずに暴飲暴食をした、という帰り路でのことだった。
その時の僕が、大好物な若い人間(しかも一番美味しい7歳前後)であったにも拘らず、血の一滴すらも啜れないほどに満腹だったらしく、
さらに、その時は雨期が明けたばかりで、この森に訪れる季節の中で最も温暖な時期だったということと、
知り合いの魔女が現役を引退するとか何とかで不要になった魔法薬の材料を半ば無理やり押し付けられたために大量の在庫を抱えていた、という幸運に幸運が重なり、僕はとりあえず生きた状態でこの小屋へ入ることに成功したのだった。
しかし、それでも「一人で生きるもんだって相場が決まっている」らしい彼女が僕をここへ連れて来た、ということは、やっぱり後で食べるつもりだったようだ。
しかし、ここでマムにとって予想外の出来事が起きた。
僕が彼女の血を飲んでしまったのである。
マムは胃の中のものを早々に消化させて僕を食べようとしたのか、この狭い小屋の中をぐるぐると歩き回った。傍から見ればかなり奇妙な光景だ。その時の僕はというと、手っ取り早く太れ、とでも言わんばかりに食物を与えられていた。何せ空腹だったからガツガツと食べた。それにきっと彼女は満足したのだろう、あの美しい灰色の瞳を細め、ニタニタと笑っていた。――のがまずかったんだろう。
転んだのだ、結構派手に。余所見をしていたからだろう。
どれくらい派手にかっていうと、頭から血をだらだらと流すくらいに、だ。
いくら巷では人を取って食ったり薪にして燃やしたり薬草にしてすり潰す恐ろしい魔女でも、僕にしてみれば温かい食事を与えてくれた恩人だ。頭から血なんか流していたらそりゃあ心配もする。
駆け寄って何とか身体を起こし、うんと昔に母親がそうしてくれたように傷口を舐めた。最も、母親の場合は指先の小さな切り傷から滲んだほんのわずかな血を舐めたにすぎなかったのだが。
僕はマムの髪をかき分け、次々と溢れてくる血を舐め、啜った。
魔女の血は不味い。
経験した者にしかわからない感想である。
いや、人間の血も大概だとは思うけど、そういう次元じゃない。こればかりはなんとも形容出来ない。とにかく不味い、としか。だから、そのチャンスがあったとしても、絶対にお勧めはしない。
僕が血を舐めてしまったことを知るや、マムは勢いよく立ち上がって奇声を上げた。
「あんた、何てことしてくれたの!」
そんなことを言われても。
僕はあなたのことが心配だっただけなんです。
そう言い終わるか終わらないか、といううちに僕の身体はいまの大きさになった。
人間にとって、魔女の血というのはかなり強力な成長促進剤の役割を果たすらしい。僕は一気に18歳にまで成長してしまったのだった。
「ああぁ……食べ頃だったのに……」
あの時の悔しそうで悲しそうなマムの声はいまでも覚えている。
ぞくりとした。
その瞬間、恐らく近い未来、僕のことをあの3パターンのいずれかの方法で死に至らしめるであろう恐ろしい
マムのためならば、生きたまま焼かれても。
マムのためならば、頭を食いちぎられても。
マムのためならば、内臓を抉り取られても。
そう思い続けているのに、彼女は一向に僕のことを必要としないのだった。
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