第30話
河川敷の公園で、貫行は、川面を眺めていた。
春の陽気な晴れの日で、陽の光で白く染まった水面が川の流れに波うっている。さやさやと一定のリズムで音を刻み、その合間にヒトの声が響いていた。
「別に、百人一首でなくてもよかったんだ」
隣に立つ平野先生は、さらりと言った。
「何かを皆で研究する部活をつくってみたかった。それが、まぁ、縁というか因縁があって、百人一首になった」
その縁というのは、白妙と、そのかるたの先生のことだろう。
「そこに僕達が巻き込まれた、ということですね」
平野先生は苦笑する。
「かるたを辞めることは、自由だし、北条先生のもとで、かるたを辞めた奴なんて高峰以外にいくらでもいる。ただ、高峰とは喧嘩別れをしてしまって、ひどく気にかけていた。それで、俺に面倒をみてくれと連絡がきたわけだが」
白妙が、それだけの選手なのかはわからない。
けれども、いろんな人に気をかけられていた存在というのは間違いないのだろう。
余計なお世話と思ってしまう、のは貫行が冷たい性格だからだろうか。
「かるたではなく、百人一首に対して別の視点から触れさせることによってリハビリさせて、それでも、もう戻りたくないというのだったら、やめればいいと思っていた。北条先生は、何が何でも戻したがっていたけれど、俺は、そこまでかるたに愛着はないからな」
どことなく、平野先生に負い目のようなものを感じていたけれど、それは、勘違いではなさそうだ。やはり、自発的でない白妙を研究会に入れておくことは、平野先生のポリシーにそぐわなかったらしい。
「紀本には感謝している。そこまで期待していなかったが、歌詠みの会を自発的に開いてくれたおかげで、研究会の雰囲気がよくなった」
「……はっきり言いますね」
期待というより、予測していなかったと言われれば、それは貫行自身もそうなのだが。
「歌詠みの会をしてから、高峰の表情が和らいだよ」
「そうですか? 僕には、つんけんしたままですけど」
「そりゃ、紀本がちゃんと見ていないからだろ」
さいですか。
「で、どうするんですか? 白妙は、ちゃんとかるた大会に行ったみたいですし、この研究会の存在意義ってもうない気がするんですけど」
「それは違うな。高峰のリハビリの方がついで、で、本来の目的はおまえらが、百人一首を研究することだから、これからやっと、正しい活動ができる」
正しい活動って。
「俺は、ずっと学校の勉強が嫌いでな。あんなつまらないことをどうしてやらなくてはならないんだって思っていたよ。だが、大学のゼミで、考え方が変わった。そこでは、何か一つのテーマに沿って、一ヶ月調べ尽くす。たとえば、足羽川だったら、どこから流れて、どこへ抜けるのか。そもそも川とはなぜあるのか。いつからあるのか。なぜ、足羽川というの名前なのか。学問的な分野なんて関係ない。興味のあることを調べる」
それが学ぶということだ、と平野先生は言った。
「学校の勉強は体系化されていて、最も主要な一本道しか説明しない。けれども、そこから脇に逸れた道や、草木に覆われた獣道にこそ、本当のおもしろさがある。そのおもしろさを、高校の頃に教わっていればな、と思っていたんだ」
平野先生の教育論を、初めて聞いた。
というより、先生の教育論を初めて聞いた。
どうして、貫行に話したのかわからない。けれども、信頼されている気がして、貫行はわるい気はしなかった。
でも。
「で、あれが、その脇道ですか?」
「まぁ、その一つだな」
河川敷から聞こえてくる人の声。女子のかしましい声は、我らが百人一首研究会の部員、泉美と千秋の声であった。
土曜の今日に、どうして、また百人一首研究会メンバーで河川敷にいるか、というと、泉美の一言に帰着する。
『自転車、もう一度やってみたいです』
前回の歌詠みの会で、結局、乗ることのできなかった自転車であるが、泉美は興味をもったようだった。
彼女は、今、貫行の自転車に乗ろうと四苦八苦している。
泉美の身長にカスタマイズしてあげたけれど、おっかなびっくりなだけに、何度も転びそうになって、悲鳴をあげている。それを見て、千秋はおかしそうに笑っていた。
「百人一首とは、まったく関係ないと思うんですけど」
「そうでもないさ。研究の過程でみつけた脇道だ」
平野先生の脇道の定義はかなり広いらしい。
「子供は、すぐに目の前の道しかないと思ってしまう。だから、そこが塞がれてしまうと、もう何も見えなくなる。歩けなくなる。本当は、幾通りもの道があるのに、それを知らずに、足を止めてしまう」
「それって矛盾してませんか? 白妙は他の道を行こうとしていたのに、平野先生は、それを止めたじゃないですか」
「あいつの場合は、ちょっと違うんだよな。別の道に行こうとしているけれども、ずっと障害物の先が気になっている。顔が前を向いていないんだ。そういうときは、転びやすい」
いささか抽象論が過ぎるけれども、平野先生の言うことはなんとなくわかった。
「ちゃんと障害物を超えて、その先を見てから、そのとき別の道を行きたいと思ったとき、別の道を行けばいい」
白妙は、今、ちょうど、このとき、障害物にぶつかっているのだろうか。
その障害物を超える必要があるのか、その先に、本当に彼女が望んでいる景色があるのか、それは貫行にはわからない。
けれども、白妙が、自分の足で向かったのならば、きっとそこに意味はあるのだろう。
平野先生は、自転車と戯れる泉美と千秋に目を向ける。
「あいつらも、大なり小なり、似たような境遇にある。目の前の障害を乗り越えるのか、それとも別の道を歩むのか。この研究会は、その判断の助けになればいいと、俺は思っている」
そんなことを考えていたのか。
真摯に自転車に乗り込む泉美と、無邪気に笑っている千秋を見ていると、そんな悩みなどあるとは思えないけれども、平野先生には、また別のものが見えているのかもしれない。
貫行は、ため息をついた。
「まったく、面倒なところに入らされたもんですよ」
「そういう、紀本がいちばん問題なんだがな」
「え? 僕がですか?」
いちばんまともだと思っていたのだけれども。
「紀本は、障害に当たることを嫌って、初めから道を歩いていないように思う」
言われて、貫行は黙り込む。
「自転車でも、何でも、誰かとの対立を避ける。ぶつかることを極端に嫌っている。自分の周りにあるものだけで、満足している。いや、諦めているのか」
平野先生は、特に説教くさいわけでもなく、ただただ事実というふうに語る。
「それは、一つの選択ではあるが、その選択は、まだ早いと思うぞ」
最後の一言は、いささか説教くさかった。
「そうですかね」
貫行は、呟くように返した。
平野先生の指摘に、反論する気はなかった。その通りだと思ったからだ。自覚していたわけではないけれども、貫行の意思を表すには十分に足る言葉だった。
「ま、すぐにでなくていい。自覚して変わろうとしなくても、状況を変えれば、自ずと変わっていくものだ。現に、紀本、おまえは、研究会に入ってから、ずいぶんと変わったぞ」
「そんなことないないですよ。たかが、一ヶ月で人間は変わりません」
「それは違うな」
平野先生は、堤防の方に歩き出した。
「ほんの些細なきっかけで、人は変わることができる。おまえらのような子供達は、特にな」
その背中は、ちょっと格好つけ過ぎだと思ったけれど、貫行は黙って聞いた。
変わったのだろうか。
自分でも気づかない内に、面倒な状況を避けてきたこれまでと、むりやり面倒事に巻き込まれたこの一ヶ月とで、むしろ変えられたのだろうか。
貫行にはわからない。
視界の中では、自転車のペダルに足をかけようとする千秋の姿。それを心配そうに泉美が見守っている。
「ちょっと、貫行くん。ちゃんと千秋達に教えてくれないと、君の存在価値がないんだけど」
「あ、紀本先輩。私はけっこう乗れるようになりましたよ」
泉美と千秋の声に応じて、貫行は歩き出す。
その道が、これまでの道と違うのか、そして、どこに通じているのか、今はまだわからないけれども、わるくないかと、貫行は笑みを零した。
川上から風が吹き下ろし、どこかで鳥が甲高く鳴いた。
ふと空を見上げると、一羽の鳥が木陰から飛び立った。
かささぎだろうか。
そんなわけないかと、貫行は、道の先を見据えた。
百歌の流るる青き春 最終章 @p_matsuge
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