「物語主人公への自己投影。」


ワイングラスを丁寧に回し、十分に空気を含ませ、満足そうに香を楽しむ。そんな一連の動作をかなり大げさに遂行した加藤は、お気に入りの赤を飲みながらそう呟く。

 

彼と私は、お気に入りのバーでの文学的討論を好み、それを至福と疑わない。加藤はグラスを傾けながら、議論を続けた。


 「人間は非自己的なもの、超越自己的なものへの変身を欲望している。これが物語文学における、主人公への自己投影の現象要因であると言えるね。」


 「読書行為中に起こる、読者の自己投影。あるいは、テクストに見え隠れする作者の欲望など、だね。」


 「つまるところ、主人公への憧憬が物語の成立を支えているのだ。みな、主人公へあこがれて、自身をその存在へと昇華したいんだ。」


 その後も、「物語の主人公」についての話は進んだ。夏目漱石『彼岸過迄』の敬太郎の主人公性や、江戸川乱歩の探偵的主人公について議論を交わし合う内に、一本のボトルが空いた。彼と私の暗黙の了解として、ワインのボトルが空になる時が即ち、議論終了の合図となる。


 平常通りに、グラスの液体を残らず飲み干し、外套を羽織って、会計を済ませた彼と私は、店の扉から出ると、それぞれの帰路についた。

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ある失策について 左川 久太郎 @sakawa8888

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