愚者二人

ライカⅢ世

老人と中学生


「こんにちは、おじいさん」


 馴染みの公園のベンチに腰を掛けてから何時間経っただろうか。いつものようにぼんやりと子供たちが遊んでいるところを見ていると、学校の制服を着た女の子に声をかけられた。

 背丈から推測するに、恐らくは中学生だろうか? 定年退職をしてからこの公園にいることは多くなったが、名も顔も知らぬ子から声をかけられた経験はなかったから、少し驚いてしまった。


「ああ、こんにちは」


 少し遅れてからそう言うと、彼女は笑みを見せた。だが何故だろうか、私にはその笑みが、作られたような笑みに見えた。……まだ中学生だというのに、この違和感はなんなのだろう。

 笑みを浮かべたまま何も喋らない彼女に、私もまた何も言う事ができない。

 失礼だと思いながらも、彼女の顔をまじまじと見てしまう。やはり初対面だった。私には子供はいないから、当然孫というわけではない。もしや知り合いの子供か孫かとも思ったが、残念ながら私には家族ぐるみの付き合いなど存在しない。眼前の子に心当たりはなかった。

 彼女は一体何者なのだろう……。そう考えていると、彼女が口を開き、とんでもないことを言い出した。


「ねぇ、おじいさん。どうして貴方はそんな――死んでしまったような目をしているの?」


 今度はこちらが口を開く番だった。もっとも声を発するためでなく、ただポカンと口を開けているという、なんとも間抜けなものだったが。

 いきなり何を言っているのだろうこの子は。そう思いはしたが、しかしあまり怒る気にもならなかった。自分でも自覚していたからだ。この世の全てが嫌だと言わんばかりの――目の前の子の言葉に言い換えれば、死んでしまった目をしているのは。

 だから私は、怒るでもなく、呆れるでもなく、こう言い返してみた。


「私と同じような目をしている君が、そんなことを言うのかい?」


 そう私が言うと、彼女は先程の私と同じように、口をポカンと開けた。どうやら私の発言は、彼女の予想の範囲外のことだったようだ。

 彼女が硬直してから数秒後、彼女は突然はじけるように笑い出した。お腹を抱えて笑っていた。少し離れたところで遊んでいた子供達も思わずこちらを見るぐらいには、彼女は大笑いしていた。

 ひーひー言いながら彼女は笑い続けている。私の先程の言葉の何がそんなに面白かったのだろうか。甚だ疑問だったが、ほどなく彼女は落ち着いていった。目に涙を浮かべながら「はー、お腹痛い……」などと言っている。

 何がそんなにおかしいんだい。私がそう尋ねると、彼女は「そりゃそうでしょ」と言い、少し間をおいてから続けた。


「普通はこんなこと言われたら、行動は二択でしょ?『何をふざけたことを言ってるんだ!』って怒って帰るか、こんなイカれた女相手してられないって判断して立ち去るか。

 でも貴方はそのどちらでもなく、逆に『君こそ死んだ目をしてるじゃないか』なんて言うもの。はっきり言って最高よ。嬉しくて思わず笑っちゃったわ」


 どうやら先程のは歓喜の笑いだったようだ。私は嘆息した。


「それにしても、笑い過ぎだと思うがね」

「ああ、ごめんなさい。あまりにも面白くて、ついね」


 しかし、あれだけ大笑いされると、なんだかバカにされてる気がしてきた。

 そんな感情が顔に出ていたのか、彼女がまた口を開いた。


「大笑いしたのは本当にごめんなさい。でも、気を悪くしないでほしいわ。

 決して、貴方を嘲笑する意味で笑ったんじゃないの」


 そうなのかい?私は聞き返した。

 ええ、と彼女は続ける。


「だって、今までにいなかったわ。こんなにも、こんなにも私と波長が合う人がいるなんて。

 私の同類がいるなんて、思いもしなかったもの」


 どこか歪んだ、しかし満面の笑みで、彼女はそう言った。






「こんにちは、おじいさん」

「ああ、こんにちは」


 翌日、昨日と同じベンチで空を眺めていると、彼女は再び公園に現れた。

 今日の彼女の恰好は制服ではなく、私服だ。しかし、無地の赤いトレーナーに黒いもんぺと、なんともな恰好である。私はファッションにうるさいわけではないが、これでは彼女の顔と合わさって非情に地味だ。

 そんなことはともかく、彼女はどうやら私のことを気に入ってしまったらしい。こんな60代の男のどこがいいのか実に疑問ではあるが、暇つぶしにはなるので特に問題はない。

 しかし、それとは別に少々疑問に思ったことがあるので、尋ねてみることにした。


「何故ここに来たんだい? 確かに私は昨日ここにいたが、またここに来るなんて保証はないだろう」


 確かに私はここで時間を潰すことを日課にしているが、彼女がそれを知っているはずもない。

 そう思って聞いたのだが、しかし、理由は意外と単純だった。


「だって、この公園は私の登下校の通り道だもの。

 私が下校する度におじいさんがそこにいることは知っていてもおかしくないでしょ?」


 なるほど、それなら納得できる。

 てっきりストーカー紛いの行為でもされていたら……ということも頭によぎったのだが、杞憂だったようだ。


「流石にそこまで暇人じゃないし、人でなしでもないわ。

 人様のプライベートに無暗に干渉する程、私は不躾ではないもの」


 一瞬、心を読まれたかと思ったが、声に出ていたようだ。

 私の悪い癖だ。時々だが、心の中で思っていたことをそのまま口に出していることがある。

 だが、彼女の言葉の中に、ひとつ無視できないものがあった。


「いきなり面と向かって『死んだ目をしている』なんてことを言うのは、不躾ではないのかい?」

「……それを言われたら弱いわね」


 彼女は苦笑した。「意外と気にしてるのね」なんて彼女は呟いたが、それはそうだろう。確かに死んだ目をしていることは自覚はしているが、それをいきなり指摘されて傷つかない人間など、聖人以外いない。そもそも、聖人の目は死んでいないだろうが――。

 そんなことを考えていると、彼女が話しかけてきた。


「ねぇおじいさん、聞きたいことがあるわ。

 本当は昨日聞きたかったのだけど、昨日は制服だったからね。あんまり遅くまではいれなかったから」


 なるほど、昨日、彼女が少し会話をしただけで帰ってしまったのはそういう理由だったのか。

 あまり世間に大した関心がない私には及びがつかない話だ。


「ふむ、どんなことを聞きたいのかな」

「貴方が、どんな人生を歩んで来たのか」


 あまりに壮大な質問に、私は思わず目を丸くしてしまった。

 どんな人生を歩んで来たか、なんて質問を、まさか中学生の女の子にされるなんて思いもしなかった。


「それはまた……なんと答えればいいのか難しい質問だね」


 困ってしまったので正直なことを言うことにした。すると、彼女は表情ひとつ変えずに口を開く。


「シンプルな質問よ。貴方がどんな人生を歩んできて、何を想ってきたか。

 そして、何故そんな目をするようになったのか。それを私は聞きたいわ」


 少しではあるが理解できた。どうやら彼女は、何故私が絶望の淵にいるのか、それを聞きたいようだ。

 質問の意図はわかったが、しかし、私だけ言うのは不公平ではないか。そう思った私は、君こそどうしてそんな目をしているのか。と聞いてみることにした。

 しかし、彼女の返答は実に理不尽なものだった。


「私のことは今はどうでもいいわ。おじいさんの話を聞きたいのよ」


 なんとも自分勝手なことだと心の中で呟きながら、思わず空を見上げた。「勝手かもしれないけれど、それでも私はおじいさんの話が聞きたいのよ」なんて声が聞こえてきた。心の中でだけ呟いたと思っていたら、どうやらまた口に出していたらしい。

 どうも彼女は自分のことは話したくないようだ。それでいて私のことだけ聞こうとするのだから、本当に勝手だと思う。

 しかし、ここで閉口していては、それこそ話が進まないだろう。ここで会話を終わらせて立ち去ってもいいのだが、それはそれで私の心にしこりが残る。

 仕方がないか、と私は嘆息した。


「上手く言えないから、短い言葉でもいいかな」

「ええ、構わないわ」


 急かすように彼女は言う。

 全く、こんな老人の話のどこに期待しているのだろうか。不思議で仕方がなかった。


「そうだね、簡単に言えば、頑張れば頑張るほど、努力すればするほど、自分の無力さを思い知らされる。……そんな人生だったよ」


 これでいいかな、とだけ言い、私は口を閉じた。

 少し月並みで曖昧な言い方だったか。そう思いながら彼女の方を見ると、しかし、納得したようにうんうんと頷いていた。


「そっかそっか。やっぱりおじいさん、私とよく似てるわね」


 それに相槌を入れる暇もなく、彼女は続けて喋り始めた。


「私もそうなのよね。いくら勉強しても、そのことがどうしても理解できないし、覚えられない。スポーツをしてみても、自分の思い通りに全く身体が動かないし。いくら練習しても、技術を身に着けられない。そしてふっと周りを見てみると、他の子たちはあっという間に知識や技術を身に着けて、逆に出来ない私のことを信じられないみたいな目で見るのよね。……あれは、最悪以外のなにものでもないわ」


 そうしてペラペラ喋る彼女の姿に、思わず私は吃驚してしまった。

 彼女は自分のことを喋るのを嫌うのではなかったのだろうか。


「そんなこと一言も言ってないわよ。私の話より、まずおじいさんの話を聞きたかっただけよ」


 また口に出してしまっていたようだ。今日で三回目だ。思わず私は嘆息する。

 そして私は改めて口を開いた。


「てっきり私は、君は自分の事を何も語らず、私にだけ色々と喋らせるつもりかと思っていたよ」

「失礼ね。さっきも言ったけど、私はそこまで不躾じゃないってば。

 おじいさんだけに話させるなんて不公平なことはしないつもりよ」


 そう言って彼女はカラカラと笑う。

 こうした姿を見ると、彼女がとても絶望の淵にいるようには見えないのだが……しかし、目は相変わらず死んだように濁っていた。


「そろそろ帰るわ。おじいさん、また明日ね」

「おや、今日はもういいのかい」

「ええ、おじいさんが私と同類ってことがちゃんと確認できたから、それで充分よ」


 それじゃあね、と彼女は去っていった。

 少し遅れて、明日もここで話すことは確定事項なのかということに気付く。

 やれやれと、今日何度目かの溜息をついた。






「おじいさんの周りの人はどんな人なの?」


 今日の彼女の質問はこういったものだった。

 昨日の曖昧な質問に比べて、実に答えやすい質問で助かる。

 しかし、あくまでも昨日の質問と比較して――というだけで、他の人間に無関心なところがある私にとっては、やはり答えづらい質問であることには変わりなかった。

 そのことを正直に伝えると、彼女は少し不満そうな顔をした。


「そんなに答えにくい質問?」

「そうだね……私はこんな性格だから、友達もろくにいないしね。会社でも、あまり一つの会社に長くいられずに転々としていたから、知り合いも全然いない」

「よくクビになってたってこと?」

「また直球だね……。そうだよ。面接でもしょっちゅう落とされたし、運よく入れても私は能なしだから、すぐにクビにされた。バブル絶頂期でもそんな調子だったから、私は稀にみる落ちこぼれだろうね」


 思わず愚痴をこぼしてしまったが、彼女は嫌な顔ひとつせず聞いていた。「やっぱり私と似ているわね……」と小さな声で呟いている辺り、どうやら彼女は本気で私のことを同族と認識しているようだ。確かに彼女は私の目から見て、あまりパッとした見た目をしていないし、失礼だとは思うが、それほど優秀な人間には見えないが……しかし、社会経験のひとつもしていない中学生が、私の会社での話を聞いて「似ている」と呟くのは如何なものだろうか。

 そんな思考の沼に沈んでいると「話がずれるところだったわ!」と彼女が声をあげた。


「周りの人の話よ、周りの人の話!

 友達や深い知り合いがいないっていうなら、親でもいいわ!何かないの?」


 彼女はどうしても私の周りの人のことを聞きたいようで、そんなことを言い出す。

 しかし私としては、ずいぶんと前に死んでしまった両親について、そこまで想うところがなく……。


「そうだね……私の両親は二人とも、優しい人だったよ」


 当たり障りのないことしか言う事ができなかった。

 やはり彼女は不満だったようで、先ほどよりも不機嫌そうな表情をする。


「本当に人に対して無関心なのね、おじいさん」

「……そうだね、冷たいと感じるかもしれないが、これが私という人間だ」


 はぁー、と彼女は溜息をつく。

 昨日は私が多く溜息をついていたが、今日は彼女が溜息をつく日のようだ。


「じゃあ仕方ないわ。今日はおじいさんのターンはなし。私のことを言うわ」


 彼女はそう言ったものの、喋ることがまとまっていなかったのか「ちょっと待ってね」と言い、うーんと唸り始める。

 ……しかし、彼女はどうも誤解しているようだが、私は彼女の話を聞きたいわけではない。私が無関心なのは、彼女に対しても例外ではない。

 昨日私が彼女に話してもらいたかったのは、私が彼女に対して興味があったからではなく、私だけが話をすることが不公平だと思ったからである。本当にただ、それだけの理由だ。

 なので、ここで話を打ち切って帰ってしまってもよいのだが、家に帰ったところで暇なだけである。ならば、例え興味がなくとも彼女の話を聞くのがよいだろう。ただ家でぼーっとしているよりも、会話をしている方がいくらかはマシである。

 そうしていると「よし」という声が聞こえてきた。どうやら考えがまとまったようだった。


「私もあまり友達はいないから、身内の話ね。まず、両親の話。

 お父さんはサラリーマンで、お母さんは近所のスーパーのパートなんだけど……二人ともすごいのよ、どっちも一流大学を卒業しているの。偏差値60は超えるわね。

 だからなのか、お父さんはサラリーマンっていってもかなりのエリートでそれなりの役職にはついてるし、お母さんだって今でこそパートだけど、昔は結構すごかったみたい。日常会話の中でも、やっぱり頭がいいんだなって思うことはよくあるしね。

 お母さんは一人っ子だけど、お父さんには兄が二人いて、どっちも一流大学を卒業してるのよね。その兄二人の子供――私から見たら従兄弟ね。その従兄弟もすごくて、やっぱりレベルの高い学校に通ってる。おまけにみんな性格もよくて、小さい頃、私はよく可愛がられてたわ」


 この子と知り合ってまだ三日だが、少しわかることがあった。

 この子は、自分のことを喋り始めると止まらないということだ。

 そこには一切の邪魔を許さない、何者の干渉も許さない何かがあった。

 もっとも、一々これはどう思う?とこちらの反応を伺われると、少々煩わしいので、それはそれで助かるのだが……。

 それはともかく、話を聞く限り、どうも要領を得ない。話だけ聞いていると家族自慢に聞こえるが、話をしている彼女は全く持って楽しくなさそうだった。この子はこの話を通して、私に何を伝えたいのだろうか。

 そんな私に気付いたのか、彼女は簡潔にまとめる。


「まあ、要約すると、私の周りの人たちはみんな優秀で出来た人たちってことね」


 いや、そんなことを聞きたいわけではないのだが……。どうやら、私の心が読めたわけではないようだった。

 すると彼女は「え、違う?」と言う。どうやら、また心に思ったことを口に出していたようだ。

 私は口を開く。


「うん、私が聞きたいのは……この話から、何を私に伝えたいのか、ということかな」

「じゃあ、おじいさんは私が何を伝えたいのかわかる?」

「……それがわからないから、聞いているんだがね」


 もっと考えてくれてもいいのにーと、彼女は呟く。

 無理を言うものだ。考えてわかるものだったら、とっくにこういうことなのかと聞いている。

 わからないから……こんな死んだ目をしているのだ、私は。

 ふぅ、と彼女は溜息をつき、口を開いた。


「簡単な話。周囲のみんなが優秀だから、そうでない私は肩身が狭いって話よ。

 性格が悪かったなら嫌いになれたし、もっと言えば憎めたんだろうけど……みんな優しいし、それが余計に、ね」


 答えは、意外と凡庸なものだった。正直なところ、少々がっかりしてしまう。

 しかし、そう言う彼女は、いつもの明るい彼女とは打って変わって悲しい表情をしていた。

 恐らく普段のやけに明るい彼女は、きっと無理をしているのだろう。

 これこそが、彼女の素顔なのだろうなと、私は思った。






「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』ってどう思う?」


 私と彼女の会話は、すっかり彼女の質問から始まるようになっていた。

 相変わらず脈絡のない質問だ、と思うぐらいには、私と彼女の付き合いは長くなっていた。もっとも、平日の夕方に公園でとりとめのない話をするだけの、不思議な関係ではあるが。


「有名な言葉だね。人類皆平等、とでも福沢諭吉は言いたいのかな」

「多分そういうことを言いたいんだと思うわ。で、おじいさんはどう思う?」


 彼女が答えを促してくる。……が、これに対する答えは決まっていた。考えるまでもない。


「勿論、平等などあり得ない。残念ながら人間は、世の中はそういう風には出来ていない」

「そうよねぇ。良かった、この言葉に同意されちゃったら、どうしようかと思っちゃった」


 偉人に対して言いたい放題だなと思ったが、しかし、自分も対して変わらないと思い直し、口にするのはやめた。

 彼女は私の答えに満足したのか、ペラペラと喋り始めた。


「残念ながら、生まれながらにして才能ってやつが人の格差を生んでいるのよね。世の中には天才もいるし、凡才もいるし、落ちこぼれもいる。努力の差じゃなくて、才能の差でね。そして出来る人は出来ない奴を見て言うのよね。『君がこれを出来ないのは努力不足だから』って。妬んだり僻んだりするのは筋違いだってね。冗談じゃないわ。出来ないものは出来ないのよ。もし仮に努力の甲斐あって出来るようになったとしても、天才はその間に次へ次へと進んで『まだそんなことをやってるの?』なんて、悪意の一欠片もなしに言うんだわ。ああ、冗談じゃない。本当に冗談じゃない――」


 今日の彼女はどうやら、非常に機嫌が悪いようだった。私に語りかけるわけでもなく、ただ愚痴を零していた。

 しかしながら、彼女の愚痴には私は同意見だった。

 努力の差でもない、頑張りの差でもない、ひらめきというのか、素質というのか、やはり才能と言うべきか――とにかく、そういったものの差は確かに存在するのだ。それも、絶望的なまでの差が。そういったことを、私は学校でも会社でも幾度となく実感してきた(学校での出来事は流石に事細かく覚えてはいないが)。


「天才や凡才には、落ちこぼれの気持ちなど理解できない」

「そう!そうなのよ!天才に言わせてみれば才能の差なんてないらしいけど、冗談じゃないわ!本当に!」


 ずいぶんとハイになっているのか、ベンチに座りながらも地面をだんだんと踏んでいる。まるで酔っ払いのようだった。流石に飲酒をしているわけではないとは思うが……。


「お酒なんて飲んだことないわ!」


 また口に出ていた。






「おじいさんは、なんで生きているの?」


 またとんでもない質問がきたものだ。私は思わず嘆息した。


「それはつまり、私に死んでほしいということかな?」

「ああいや、そういうわけじゃないのよ。ええと、なんて言ったらいいかしら……」


 どうやら悪意を持って言った言葉ではないらしい。

 しかし、あまりにもあまりな質問をされた私は、流石にいい気分とは言えなかった。


「私は今まで生きてきて、何度も何度も死んでやろうって考えたわ。生きててもつまんないし。

 でも思ったのよ。おじいさんは私と同類なんだから、何度も自殺してやるって考えた事があるはずだって。なのに、なんでこの歳になってもそれを実行しないのかなって思ったのよ」


 反省したのか、彼女なりに柔らかい表現にしようと言葉を選んで発言しているのがわかった。とはいえ、言っている内容そのものは中々どうしてとんでもないことではあるが……。

 しかし、自殺しようというのは考えたことがある。というより、数日に一回は考えている。自分で言うのはなんだが、私は死にたがりなのだろう。

 だがそれでも、自ら命を絶ったことはない。今生きているのが何よりの証拠だった。


「そうだね……難しい質問だね」


 すぐに答えが出せそうにないので、思う事を言ってみた。

 それを別の意味に捉えたのか、彼女は口を開く。


「おじいさん、私が自殺しないようにって説得しようとしてる? 生憎だけど、説教は嫌よ」


 何を言うかと思いきや、彼女はそんなことを言い出した。

 確かに、普通の人間ならば説得しようとするのだろうが……私にそんな気は毛頭なかった。


「先に言っておくと、そんな気はさらさらないよ。君が自ら命を絶つのも、生き続けるのも、それは君の自由だ」


 言ってから、我ながら自分は冷たいどころか、どこか壊れているのだろうか……そんなことを思う。

 だが、彼女はふふっと笑っていた。


「そうだった、おじいさんってそういう人だったわね」


 この言葉はどういう風に捉えればいいのだろうか。ズバズバとはっきり物事を言うかと思えば、曖昧なことも言う。それがこの子だった。


「じゃあなんで、難しい質問だね、なんて言ったのか教えてくれるかしら?」

「……そうだね、自分でも疑問に思ったからかな。何故私は世界にも、人間にも、そして自分にも絶望しているというのに、何故死のうとしないのか……自分でもよくわからないからね」

「ふーん……」


 ここで「何故君は死のうとしないんだい?」と聞こうとも思ったが、きっとこの子は「私の事はどうでもいいわ。おじいさんの意見を聞きたいのよ」なんて言うに決まっている。私が質問に答えないことには、私とこの子の会話は進まないのだ。私はそのことをよく知っていた。

 さて、この難問にはなんと答えたものか……そう考えていると、少しずつ答えが出てきた。深く考えず、私は脳裏に浮かんだことを口にしていく。


「恐らくだが……私は死ぬことが怖いから、自殺しないのだと思う」

「死ぬことが怖い? ……生きることよりも?」

「ああ、そうだね。何度か本気で死んでやろうかと考えた事はあるが……それでも死ななかったのは『死』というものに、とてつもない恐怖を感じたからだ。いずれ人は死ぬ運命にあると考えても……それでも、自ら死ぬというのは、非常に勇気がいることなのだろう。……きっとね。だが、私には自ら命を絶つだけの勇気が足りなかった。それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかないがね」

「…………」


 自分で言っておいてなんだが、ふわふわしていた心がストンと落ちた。恐らく、これが自分なりの正解なのだろう。なんというか、非常に清々しい気分だった。

 そういえば、彼女は先程から急に口数が少なくなったがどうしたのだろう。気になって隣を見てみると、彼女は口元に手を当て考え込んでいた。

 普段のこの子なら、私が質問に答えれば同意にしろ文句にしろ、すぐに何か言うというのが常なのだが……今日は何を言う事でもなく、じっくりと考え込んでいる。

 特に深く考えて言った発言でもないのに何をそんなに考え込んでいるのだろうか、この子は。

 彼女はしばらくそうしていると、うん、と呟いた。


「わかったわ、おじいさん」


 何がわかったというのだろうか、私は素直に尋ねた。


「うん、それはね――」


 彼女はベンチから立ち上がりながら、


「生きていても、希望も何もありはしないってことよ」


 そう、こちらに背を向けて言った。

 彼女がどんな表情をしているか、私にはわからなかった。


「そういう結論に至った経緯を教えてくれるかな」


 気付けば私はそう尋ねていた。勿論これは彼女の考えを変えようという意識の元言ったわけではなく、単純に興味があったからだ。

 そうね、と呟いてから、彼女は言う。


「私は、私とおじいさんは同類って言ってたけど……実は、最近はちょっと違う考え方をしていたわ。おじいさんはきっと、私の未来そのものなのよ。きっと私も、会社に入る時には色んな会社を受けて、面接で落とされ続けて、やっと入社できても実力不足でクビ。人に気を許すこともできずに結婚もしないままその繰り返しを続けて、優秀な人を妬み続けていくと思うわ。そして定年退職を迎えても、目は濁りきったまま……公園でぼんやりとして暇を潰すことしかできないような、そんな老人になるんだと思う。……そんなのってあんまりじゃない。希望なんて、ないじゃない」


 えらく酷い事を言われているが、反論する気にはならなかった。……私は実際、そんな人生を歩んで来たのだから。

 自殺を考えていたというのは、昔にだけ思ったことではなく――今も時々考えていることだ。何も出来ない自分に、人間に、世界に腹がたち……なんだか、死にたくなる。けれど、死への恐怖で、死ななかった。いや、死ねなかった、というべきか……。

 彼女は続ける。


「おじいさんは今まで生きてて、苦労ばかりで辛かったんでしょう? 楽しいことがあったとしても、それ以上に苦しみや、それに似た何かが積もり積もって、それに押し潰されてきたんでしょう? じゃあ、私もきっと、そうなんだと思うわ」

「……私と君は、違う人間だがね」

「でも、すごく似ているわ」

「それでも、違う人間だ」


 頑固ね、と彼女は言った。だがそれでも、私と彼女は違う人間だ。

 恐らく彼女はこれから近いうちに、私にはできないことをやるのだろう。

 ならば、彼女と私は違う人間なのだ。絶対に。


「……それじゃ、私はそろそろ行くわ」

「……そうかい」


 帰る、とは彼女は言わなかった。

 恐らくはそういうことなのだろうと、私は悟った。


「それじゃあね、おじいさん」

「ああ、さようなら」


 きっとこれがあの子との、最後の会話なのだろうと。






 案の定と言うべきか、あの子はそれっきり、公園に顔を出さなくなった。

 だからといって、私は何も変わるわけではない。ただ一人の時間が戻る、それだけのことだ。

 だが、周囲の人間はそうはいかないようだった。


「貴方、○○さんという中学生と、ここの公園でよく話をしていたそうですね?」


 そうして声をかけてきたのは警察官だ。初めて聞く名前の女の子の名について聞かれたが、恐らくあの子のことだろう。なるほど、行方不明になったあの子を探しているのか。自宅で命を絶ったわけではないというのなら、警察が捜索するのは道理か。私は一人納得していた。

 だが何故私に声をかける? そもそも、何故私があの子と話をしていることを知っている?

 そのことを尋ねてみると、聞き込み調査をしている内に、私のことが怪しいと証言した者がいたのだと警察官は語った。恐らくは、公園での子供の遊びに付き添っていた親が言ったのだろう。迷惑な話だった。憶測で好き勝手なことを言わないでほしい。

 しかし、逃げるわけにもいかない。仕方がないので話に付き合っていると、参考人として署にまで来いと言われてしまった。なんだそれは。

 だが、ここまでくると逆に開き直れた。この警察官は私があの子を誘拐でもしたのだと思っているようだが、私はあの子を攫ってなどいないし、する理由もない。素直に応じることにした。

 署に連れてこられてからは、ここに来たことをすぐに後悔することになった。

 彼ら警察官は私を完全に犯人だと思っているようで、大変な剣幕で「知っていることを白状しろ」「お前が犯人だろう」等と怒鳴る。勿論そんな証拠などないし、そんな事実などない。だが、私がいくら否定してもあちらは聞く耳を持たなかった。何を言われても容疑否定する私に彼らは業を煮やしたのか、挙句の果てには家宅調査までさせられてしまった。別に調べられて困るようなことはないが、気分は良くなかった。もっともそれで女の子を連れ込んだ形跡がないことがわかり、犯人扱いされることはなくなり、家に帰されたのだが……しかし、たまったものではなかった。まさかあの子がいなくなることでこんなことになるなど、誰が予想できるだろうか。

 そして、私が取り調べられてから三日後、あの子が失踪してから五日後に、あの子の遺体が発見された。発見された場所は、私が住む市から少し離れた山の中で、死因は飛び降り自殺だそうだ。

 だが、死亡推定時刻は一日前……つまり、あの子が失踪してから四日後で、彼女は山の中のとある場所で、しばらく過ごしていた形跡が見つかったという。現在詳細を警察が調べているとのことだが……私にはすぐに、それがどういうことを意味しているかがわかった。

 彼女は、死の恐怖と戦っていたのだ。

 何度も死ぬことを考えていた私だからわかる。死の恐怖というものは、何かに例えることができない程の強烈さがある。死後の事を、自分が死にいくことをイメージしてしまうと、途端に死ぬことが怖くなるのだ。

 私はその度、すぐにそのイメージから逃げていたが……彼女は逃げ出さず、戦い続けた。恐らくは、数日をかけて戦い続けた。そして、それに打ち勝ったのだろう。

 そして、それは私には決して出来ないことだ。

 私は人に対して特別興味を持つことはあまりない。だが、この時のあの子の心境には、とても興味があった。

 あの子が死への恐怖に打ち勝った時……彼女の心は、何を想っていたのだろうか。

 だが、答えは……彼女にしか知りえないのだろう。

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