第3話 個室での食事
5時を回ったので、食事のためにJRで上野から新橋へ移動する。駅から徒歩5分の店だ。仕事で何回かは使っているので、料理や個室などは承知している。ゆっくり座れる掘りごたつの個室を頼んでおいた。
ここなら周囲に気遣いなく話ができる。凜も個室に入るとほっとしたようだった。そしてすぐに化粧室に行った。帰ってくるとメガネを外している。まもなく料理が運ばれてくる。
「メガネはどうしたの? どこかに忘れた?」
「コンタクトに替えました。この方がいいでしょう」
「確かにきれいな顔がよく見える。せっかくだからメガネはない方がいい」
「メガネは変装用なんです。昔の店の人やお客に声をかけられると山路さんに不快な思いをさせるといけないと思って」
「そんな心配をしてくれていたのか、気にしないよ、そんなこと。それより知らん顔していればいいんだよ」
「あまり人混みに出たくないものそのためなんです」
「でも、髪が短くなって髪形も変わっているし、顔の印象も違っている。あの時とは随分変わっているから、誰も気が付かないんじゃないかな」
「1回か2回くらいのお客なら分からないと思います。私も覚えていないから。でもなじみのお客や店の人には分かると思います。私も顔を覚えていますから」
「神経質になり過ぎじゃないかな、知らん顔でいいじゃないか」
「でも、あなたは私だとすぐに分かったでしょう」
「僕は君のお客の中でも長い方じゃないかな。だから気が付いた。それに君を気に入っていたから、なおさらだ。急にいなくなって随分寂しかった。ぽっかりと心に穴が開いたようだった。きっと思いが募っていたからだと思うけど」
「そう言ってもらえて嬉しいけど、だからなおさらあなたには知らんぷりはできないわ」
「まあ、覚えていてくれて嬉しかったのは本当だ」
「実はあなたのほかにもう一人 3軒目のお店まで通ってくれたお客さんがいたんです。少し前になるけど、あなたと同じように偶然店に来たの。やっぱりすぐに私と分かったわ」
「知らんぷりしたの?」
「できる訳ないでしょう。でも彼は迷惑になるならもう来ないと言ってくれました」
「僕は君の迷惑に決してならないし、彼も決して君に迷惑をかけないと思う。僕には分かる」
「分かっています。お二人は本当にお優しい方々ですから。でも、そうじゃない人もいるんです。今のお店に移る前に働いていた店で私の昔のことを知っていて自慢げに言いふらしたお客がいたの、それでそこをやめたの。悲しくて、悲しくて泣いたわ、もう私はまともには働けないのかと思って」
「とんでもないやつだ。男の風上に置けない、優しさというものがない」
「だから、私はお付き合いするのを迷ったの、あなたに迷惑がかかるといけないと思って」
「僕はそんなこと百も承知で付き合ってくれと申し込んだので、迷惑がかかるなんて思わなくていいから」
「私はいつも自分の過去に怯えて生きているの、今日もこの部屋に入るまでは誰かに声をかけられないかとおどおどしていたの」
「どうしてあげたらいいのか分からないけど、仕事も見た目も、もう昔とすっかり違うのだから、自信を持って知らん顔していればいい。気持ちをしっかり持って」
「なぜ、それまでして私のことを思ってくれるのですか」
「君には今まで言わなかったけど、そしてこれを聞いても気分を害さないでほしい。君は僕の亡くなった妻にそっくりなんだ。まるで生き写しなんだ」
「そうなんですか」
「10年前、僕は突然妻を失った。乳がんが見つかったが手遅れだった。妻とは同級生で学生結婚だった。卒業してすぐに妻が妊娠して娘が生まれた。僕たちは幸せだった。共働きをしたが、家庭と仕事を両立させて申し分のない妻だった。でも妻は早死にしてしまった」
「いい奥様だったのね」
「神様は彼女によいところをいっぱいお与えになったが、長い寿命はお与えにならなかった。死ぬ直前、あなたの妻になって幸せだったと言ってくれた。それだけが僕の慰めになった。僕は泣いて諦めるほかなかった」
「諦められたの?」
「その時思った。神様はすべての人に幸福と不幸を平等に与えているのではないだろうかと。楽しいことをだけでなく、悲しいことも必ず与えているんだと、それを定めとして受け入れて、諦めるしかないのだと」
「そうかもしれませんね」
「残された一人娘を男手一つで一生懸命に育てた。そんな生活に疲れていた時に、友人が君の店へ気晴らしにと連れて行ってくれた。写真の中に妻に似た女性がいた。それが凜、君だった」
「そんなに亡くなった奥さんに似ていたのですか?」
「一目見て君は妻に生き写しだと分かった。しゃべり方も笑い顔も、それに身体も。だから、君を何回も指名したし、店を変わっても探して通った。そして、君はずっと僕を癒し続けてくれた。突然いなくなって、何と寂しかったことか。僕は妻を二度亡くしたようだった」
「私はあなたの奥さんの代わりだったの?」
「そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」
「どういうことですか?」
「逢瀬を重ねるごとに、もちろんだけど、妻とは違うことが分かってきた」
「どんなところですか?」
「Hが好きだし上手だ」
「うふふ、そうかもしれないわ」
「それは冗談だけど、今日付き合ってみて、妻にはなかった君の新たな面が分かった。だから普通に交際を続けて君をもっと知りたいと思っている。もう僕は君を妻の代わりとは思っていないし、代わりにしたい気持ちもない」
「私も普通に付き合うってどういうことか興味があって、お付き合いを続けます」
「ありがとう」
やはり個室を予約しておいて良かった。落ち着いて話ができた。凜も周りを気にすることもなくゆっくり食事ができたようだ。
車を呼んで表参道で凜を下ろして、僕は自宅へ帰った。凜は車を使わないで地下鉄でいいと言ったけれど、今日は和服で目に付くからと言って車で送った。
自宅に戻ると今日の凛の和服姿が思い出される。久しぶりにのんびりした楽しい休日を過ごすことができた。妻が生きていればきっと今頃二人でこんな休日を過ごしていたかもしれない。そう思うと亡くなった妻に申し訳ない気持ちになる。
僕の自宅は洗足池にある2LDKのマンションだ。セキュリティがしっかりしているので、帰りが遅くなりがちな僕は娘が一人で部屋にいても安心だった。今は娘も出て行ったので一人暮らしになった。一人だと十分な広さがあるが、掃除などを考えると広すぎる。
妻が亡くなって一人で娘を育てるのに、ここは会社までの通勤時間が短いので、郊外にあった自宅を売って買い替えた。
いや、妻との思い出がいっぱいの家に住み続けたくなかったからでもあった。ここへ引越ししてくるときに、使っていた家具はすべて処分して買い直した。家電製品はそのまま持ってきたが、今ではほとんど買い直した。
妻の思い出から逃れようとしていた半面、妻に生き写しの凜に惹かれて、4年もの間、逢瀬を重ねた。
あの時、凛に「あなたの奥さんの代わりだったの?」と聞かれたときに「そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」と答えたのは本心からで、自分でも良く分かっていないと思った。それを確かめるために、また日曜日に誘ってどこか行こう。
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