第5話 自宅へ招待
外でデートするよりも自宅を行き来するほうが何かと都合がいいのは分かっていたが、凛を自宅に招くことは遠慮していた。
ただ、外で会うのはお互いに周りのことを気にするので疲れるのが分かってきた。それで凜も自宅なら気を使うことも少ないだろうと思うようになってきた。
「今度の日曜日は僕のマンションへ遊びに来ないか」
「いいんですか?」
「住んでいるところを見てもらいたいのと、ここの方が周りに気を使わなくていいと思うから」
「あなたが今どんなところでどんな生活をしているのか興味があるから、お邪魔してみようかしら」
「じゃあ、午後3時に池上線の洗足池駅の改札口で待っている」
当日、僕は朝から部屋の掃除、溜まった衣類の洗濯をした。娘がいなくなってからは休みの日にしか掃除はしない。
それから、夕食の代わりになるようなパンやオードブル、ワインなどを近くのスーパーへ買い出しに行った。何か僕の手料理とも考えたが、自信がないのでやめにして、出来合いのものを仕入れることにした。
3時に改札口で待っていると、凜は先に着いていたみたいで、商店街の方から歩いてやってきた。手には小さなバッグとスーパーのレジ袋を持っている。今日はメガネをしていないが、目立たない地味な服装だ。
「早く着いていたんだね」
「買い物をしようと思って、簡単なおつまみを作ります。お酒は準備していただいていると思いますので」
「ワインの赤と白を準備している。それにウイスキーと氷も、出来合いのオードブルも買ってある」
「それだけあれば十分に飲めますね」
「マンションに行く前に公園を散歩しないか?」
「この公園の池にはボートもあるし、池を回る遊歩道があるけど、始めにボートにでも乗る?」
「せっかくだからボートに乗ってみたいわ」
「僕もここに10年近くいるけど、1回も乗ったことがなかったから丁度いい」
この公園の池の周りはいつも散歩しているが、ボートからの景色は新鮮だ。凜は嬉しそうに周りの景色を見ている。ここは公園だがあまり人は多くない。ほとんどこの近くの人が散歩しているので、皆のんびり歩いている。凜もここでは人目を気にする必要がないと思う。
「ボートに乗るって初めてです」
「気をつけて、ここはそう深くはないと思うけど、立ち上がったりしないでね」
「大丈夫です。漕ぐのに疲れませんか?」
「1周ぐらいにしておこう、結構腕が疲れる」
「お天気も良くて気持ちいいですね」
「美人をボートに載せて漕ぐなんてことは若いころの憬れだった」
「今はどんな気持ちですか?」
「浮き浮きしているけど、結構疲れる。心地よい疲労を感じている」
「よくおっしゃっていましたね、心地よい疲労!って」
「よく覚えていてくれたね」
「そんなこと言う人はいませんから」
「好きな言葉、いや好きな状態かな」
「ご機嫌のいい時の言葉ですね」
「何かをして疲れているけど充実感があるとき、そんな時はぐっすり眠れる」
「確かにその意味、分かる気がします」
「もう相当疲れた、いいかげん陸に上がろう」
それから今度は遊歩道を二人で一周した。途中に八幡神社でお参り。二人並んで柏手を打つ。僕は凛との交際が続くように祈った。凜は何を祈ったのだろう。おみくじを引いていた。
「おみくじ、どうだった」
「末吉」
「末吉は末広がりで将来が吉だから一番いい。ところで何を占ったの?」
「二人の関係」
「考えてくれているんだ」
「はい」
「後々良しということだからよかった。マンションへ行こう」
この辺りは住宅地だからマンションは3階までしか建てられない。僕の部屋は2階。ベランダからは公園が見える。花見時は人出が多くて騒がしいが、それ以外はとても静かだ。
そろそろ夕暮れ時で薄暗くなっている。玄関の自動ドアを入ると、キーをボードにかざして中の玄関扉を開ける。2階まではエレベーターで昇り、エレベーター横の209号室が僕の部屋。ドアを開いて凛を招き入れて、すぐにドアをロックする。
凜に中を案内する。10畳くらいのリビングに対面キッチンがついている。浴室の扉を開けると洗面所と洗濯機置き場、その奥がバスルーム。浴室の向かい側にトイレ。
二部屋の内、広い方が僕の書斎兼寝室でセミダブルのベッドと机、本棚が置いてある。小さい方が娘の部屋で今も身の回りの物が残されている。以前は娘が広い方の部屋を使っていたが、家を出る時に交換してもらった。
リビングにはテーブルに椅子、座卓、横になれる三人掛けのソファー、大型テレビ。
「素敵なお部屋ですね。高級マンションはこういうふうになっているんですね」
「そんなに高級でもないけど、いくつか見て回ってみたが大体皆同じだった」
「亡くなった奥さんとはここに住んでいたの?」
「亡くなって郊外から転居して来たんだ、すべて忘れようとして」
「でも忘れられなかった、私に会ったから」
「そのとおりだ。だから、あの質問の答えは、そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないだったんだ」
「でも分かっているんだ。君は君で、妻とは全く違うと。凛、その君を僕は好きになってしまった。僕は今、妻になかった君らしいところを探そうとしている」
「私はどちらでも良いと思っています。私を好きになってくれれば」
「凛、君は君だから」
「私もあなたの亡くなった奥さんの代わりはできません」
「それでいい、その君と付き合いたい。まあ、せっかく家に来てくれたんだから、お酒を飲みながら、おいしいものをつまんで、もっと話をしよう。もし、良かったら今日はゆっくりしていってほしい。泊まってくれたら、なおいいけど」
「お酒を飲むから泊まらせて下さい」
「じゃあ、ゆっくり飲もう、準備するから」
「私も手伝います。それに買ってきた材料でおつまみを作ります」
すぐに準備ができた。凜は慣れたもので手早くオードブルを3品ほど作ってくれた。赤ワインをそれぞれのグラスに注いで乾杯する。
「この先どうなるのかね、二人は?」
「どうなるか分かりませんが、定めがあるとしたらそれに従うことにします」
「僕は真摯に君と付き合いたい、誰が何と言おうとも」
「無理することはありません。あなたには社会的地位もあるし娘さんもいます」
「そんなことはもう気にしないことにした、この年になると会社での将来も見えてくる。娘も一人前になったのだから、これからは自分の生きたいように生きると決めている。君も過去を引きずらないで自信を持って生きてほしい。君ならそれができる」
「ありがたいです。そう言ってくれる人がいるってことは心強いです」
「絵が好きと言っていたけど、もっと勉強したらどう。目を引くいい絵を描いているから。絵は上手、下手ではなくて、人を引き付ける何かがあるかどうかだと思うけど」
「もしそうなら私の今までの生き方の反映かもしれません」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「相変わらず、どちらともつかない意見ですね」
「絵は心情を表わしていると思うから、いずれにせよ、僕は君の心情を幸せに満ちたものにしてあげたい。そして君の絵がどう変わっていくのかも見てみたい」
「毎回描いたらお見せします。確かめてください。変わってきたかどうか」
「そうしよう」
赤ワインのボトルが空いてくる。凜も飲んでいる。お互いにもう少し酔いたい気分になっているのが分かる。ボトルが1本空いたところで、水割りに変更したい。これ以上、ワインを飲むと悪酔いする。
凜もそこのところはわきまえていて、水割りを2杯作ってくれた。席をテーブルからソファーへ移す。少し酔いが回ってきたのでソファーの方が楽ちんだ。
「ジョニ黒が好きなんですか」
「水割りはこれが一番好きだ。このスモーキーな香りと味が好きなんだ」
「お店にも1本キープしておきます。たまには寄って下さい」
「いや君の神聖な職場だから、行かないようにしたいと思っている」
「神聖な職場ですか? あそこが」
「じゃあ、付き合っている相手の会社に気軽に会いに行けると思うかい」
「それは」
「できないだろう。だから行かない」
「お店なんですから、考え方が真面目過ぎませんか?」
「本当は君がお客の相手をしているところを見たくなんだ。その笑顔を僕にだけ見せてほしいと思っている。そこまで言うと料簡の狭い我が儘な男と思うかもしれないけどね」
「客商売していると仕方ないです。客商売ってそんなものです。お客様には笑顔でお相手しなければなりません」
「すべて営業用の微笑み?」
「そうとは言いませんが、いやなお客もお客様にかわりありません。お客様を選べないんです」
「そうだね」
「いやなお客もはじめは本当にいやですが、段々慣れてきて、割り切ってお相手できるようになるんです。でも、一方で段々そういう自分にやりきれなくなってくるんです」
「だからやめたの?」
「そうです。好きな人だけを相手にできる普通の生活がしたくなって」
「それで、今はそういう生活ができているの?」
「はい、お店は商売と割り切るしかありませんが、お付き合いは好みの人とだけにしたいと思っています」
「僕も好みの人に入れてもらっているんだね」
「もちろんそうです」
「ありがとう」
凜を引き寄せてそっとキスをする。そして暫く抱きしめる。
「お風呂を沸かして温まろう」
「そうですね」
僕は立ち上がってお風呂の準備をする。凜はテーブルの上と座卓の上を片付けてくれている。お湯が満杯になるまでの間、僕は寝室の準備をする。凜は黙ってソファーに座って水割りを飲んでいる。
「一緒に入る?」
「はい、先に入っていてください。すぐに行きます」
先に入って身体を洗っていると凜が入ってきた。さっとシャワーを浴びるとすぐに僕の身体を洗ってくれる。今度は僕が身体を洗ってあげる。凜はじっとしている。
それから湯船からお湯の溢れるのも構わずに二人で浴槽に浸かる。後ろから凜を抱いて浸かっている。
「箱根を思い出しました」
「お風呂はいいね。今度また二人で温泉に行くかい?」
「それもいいですね」
「先に上がっていて下さい。髪を洗わせて下さい」
僕は先に上がってソファーで水割りを飲みながら待っている。凜はバスタオルを胸に巻いて上がってきた。髪にもタオルを巻いている。
「気持ちよかったわ。素敵なお風呂ですね」
「僕も気に入っている。少し広めで温かい」
凜を引き寄せてキスをする。そして抱きかかえて寝室へ運んだ。それから愛しあい、二人だけの長い夜を過ごした。
6時に目覚ましが鳴った。もう起きる時間だ。月曜日だから出勤しなければならない。デートが日曜日だとこのあたりが不都合だ。すぐに起きて朝食の準備をする。凜も起きようとする。
「朝食の準備は僕がするから、ここでは僕に従って、ゆっくりしていて」
「そういう訳にはいきません。お手伝いします」
「いいから、お客さんはじっとしていて」
「優しいんですね」
「娘と生活している時はずっとこうだったからね」
「いいパパだったんですね」
「それはどうかな? 遠くへ行ったところを見ると、口うるさかったんだろう」
「娘と言うものは父親が好きなものです」
「いずれ、君に会わせるよ」
「私のこと、どう思うかしら」
「どうかね」
凜は身支度を整えるとソファーで見ている。朝食の準備ができた。トーストとホットミルク、ハムエッグ、プレーンのヨーグルトにジャム、皮を剥いたリンゴのカットの簡単なもの。
「男の作る朝食はこんなもんだ。諦めて食べてくれる」
「私が作ってもこれ以上はできませんから、ご馳走になります」
「これに懲りずに、また遊びに来てくれないか。二人で飲んだり食べたりすると楽しいから」
「機会があればまたお邪魔します。今度は何か料理を作りましょう」
「ありがたい、楽しみにしている。これ予備キーだけど持っていてくれる?」
「預かれないわ」
「今日は遅くここを出てくれればいい。今帰ると朝のラッシュに合うから」
「構いません」
「いいからそうしてくれ」
「分かりました。私を信用してくれてありがとう」
「信用していないと付き合ったりしないよ。じゃあ頼みます」
僕は凜をマンションに残して出勤した。
夜、家に帰ると部屋が整っていた。掃除してくれたみたいだった。凜のいい匂いが残っていた。帰った時に凜が迎えてくれたらどんなだろうかと思った。
それから、デートは自宅のマンションですることが増えてきた。その方が凜も周りに気を使わなくてよくて気楽みたいなので自然とそうなった。
公園の散歩も気に入っているみたいだった。家に来ると料理を作ってくれる。それから泊ってくれて、月曜日の朝、ゆっくり帰っていく。
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