なろう系が流行った根本の理由についての考察と結論【なろう系には本当に山も谷もないのかの解】

数年前から所謂なろう系――というか広義でのWEB小説について、『あんな山も谷もない話は面白くない』とか『あんな似たようなのばかりよく作れるな』とか、そういう話が出てきてて。それが読者側からの話なら別にそれは個人の好みの問題としてなんの問題もないのだけど、『そうじゃないところ』からそういう話が出るのを見てると、「いや、そうではないんだけどなぁ……」と思っちゃう部分がありますよねと。


話は変わるが、数年前、某アニメ制作者が某番組で話していた中で印象に残っているモノがあって。

彼が言うには『最近は視聴者が鬱展開とか悲しい話を受け入れられなくなった(意訳)から、そういう展開は上からストップがかかる。だから日常系とか萌え系アニメみたいなモノしか作れない』というような話をしていた。

(ちょっとうろ覚えなので正確な表現ではないけど)

で、彼はその理由について『日本が不景気だから人に心の余裕がなくなって、そういう作品しか受け入れられなくなったからだろう』と分析していたと。

個人的には、当然そういう側面も否定出来ないとは思うけど、本当にそれだけなのか? それが主要因なのか? と疑ってるんですよ。


『流行』とは何かについて『なろう』で流行が作られる流れから紐解く

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885207682/episodes/1177354054889193398


以前、こっちに書いたけど、流行というモノは振り子のように一方に振れるとその反動で次は逆にいくような性質がある。……と考えている。

これを仮に『振り子理論』とでも呼ぶとして。

これがファッションなんかだと分かりやすい例が多くて、これは『イノベーター理論』でよく説明されているが。

例えば、ファッションリーダーがスキニーパンツをはいて、それが流行ったとする。するとそれを流行に敏感な人が真似をするようになり、次に流行にあまり興味がない人も取り入れだし、最終的にはファッションなんてまったく興味がない人にまで浸透してしまい、その内そこらのお爺ちゃんお婆ちゃんまで細身のパンツをはくようになる。しかしそうなった時にはファッションリーダーはスキニーパンツを逆にダサいと感じるようになっていて、今度は真逆にダボッとしたワイドパンツをはくようになり、それがまた新しい流行になっていくと。

これは実際、この10年ぐらいで起こっていた話だと思うけど。

つまりどういう話をしたいのか、というと。流行が一方に走ると、どこかのタイミングで一気に振り子が逆に振れるように真逆のモノが流行るようになったりする。

ファッションは人が着るモノだから一定の制限があるわけで、それが見えやすい。


ではアニメの話に戻すが。

00年代10年代ぐらいは、確かに日常系という作品が流行った。

では、上記の『振り子理論』的に考えてみると、どういう答えが出てくるのか、というと。00年代以降に日常系に大きく振れたと言うのなら、その振れた原因は90年代にあるでしょ? となるはずで。

つまり、この『00年代の日常系』の話に関する僕の見解は、


『90年代後半に○○に大きく振れた反動で、00年代後半からはその逆に大きく振れたのが日常系』


というモノなわけです。

ではその『○○』とは? 『日常系』の逆とは? という話になりますよね?

こういうのって完全な真逆なんてモノはないので、あくまでも概念的な話にはなっちゃうのだけど。

ぶっちゃけ僕は、90年代後半は陰鬱な作品が多かったと思ってるんです。

これについては『90年代 アニメ 鬱』とかで調べたら、そういった話は複数出てくるので、同じように考えてる人は少なくないと思う。大体95年から05年ぐらいの話ね。

そうなった一因として関係者からよく出てくるのは『エヴァンゲリオン』なわけですよ。

当時、アニメとはおもちゃを売るため、という要素が強かったらしく、子供にウケるよう、おもちゃが作れるよう内容を考えなきゃいけないモノだったらしいけど、エヴァはストーリーでガッツリ人気を取って大成功して、当時のアニメ関係者に衝撃を与え――つまり他のアニメ制作者からすると自分達はおもちゃへの誘導を考慮して作ってるのにエヴァは内面をえぐるような心理描写とストーリーで成功したわけで、自分達もそういう作品を作りたい! となり、制作会社側もそれに乗り気になって一気にそういうドラマ性を重視したアニメを作る流れになった(意訳)と。

というのが上記『某アニメ制作者』が同番組内で語っていた話。

で、その影響はアニメだけでなく当時の漫画とかラノベとか含め色々なところに飛び火した。

この辺りのアレコレについては『セカイ系』とか『ポストエヴァンゲリオン症候群』とかの言葉で実際に色々と議論されている内容なので、そっちも調べてみていただきたいが。

僕の見解では、この90年代後半からのこの流れも、80年代の『アニメはおもちゃを売るために作られる』というところからの揺り戻しだったのではないの? と考えていると。


『おもちゃを売るため』→『濃いドラマ性』→『日常系』


こんな感じで振り子が振れるように逆に流行が向かったのではないかと考える。

一方に振れすぎて溜まった鬱憤が逆に放出されて行き過ぎて、またその逆に振れるみたいなね。

00年代後半からの日常系に関しては、90年代後半からのドロドロとした鬱々しいドラマ性のあるストーリーに嫌気がさした人が多くなってきて、明るくて安心して見れる日常系にシフトしてきたのでは、というのが自分の中の見解です。


◆◆◆


で、ようやく『なろう系』の話に入るのだけど。

これも上で散々説明してきた『振り子理論』で説明つくんじゃないかと思っていると。


まず、この『なろう系』という言葉はかなり曖昧なモノであって……。

このタイトルに『なろう系』を入れたのは、分かりやすくするためであるからで、『なろう系って一概には言えないだろ』という話はとりあえず置いといてもろて……。


そもそも元々のWEB小説とは、既存の書籍小説のアンチテーゼ的な側面が大きかった、と考える。

少なくとも初期段階においてはその色が濃かったはず。

つまり、書籍作家として成功したいと思って書いているけど様々な理由で無理だった人がWEBの小説投稿サイトに活路を求めた、というのが初期段階においては多かったはずで、その当時は書籍化なんて無理だと(出版関係からは)思われていたような作品がそこに集まる傾向があったはずだと。


これは個人的な主観の話にはなるけど、所謂、典型的な『なろう系』と呼ばれている作品は、だからこそ、それまでのメジャー作品とは対局にあったと思っている。

それを上手く説明するために適している一例と思うのが、


『なろう系には山も谷もない』


という批判。

これを言う人は基本的に『前時代の典型的な面白い物語の基準』で語っているのだと、ここはもうあえて言ってしまおうと思う。

もう少し別の話から噛み砕いて説明すると。

例えばRPGとかをやっていると、話の序盤、主人公が旅立つ町の周辺には基本的に弱い雑魚敵しかいないじゃないですか?

で、弱い敵を倒してレベルアップして最初のボスに挑む。

そのボスを倒したら雑魚敵が少し強くなり、次のボスもまた少し強くなる。

以下、それの繰り返しで、最終的にラスボスを倒してエンド。

これはゲームだけでなく漫画とか小説とかドラマとかでも基本構造は似ていることが多くて。つまり主人公に立ち塞がる壁があり、それを努力でギリギリ乗り越えると次はもっと高い壁が出現し、それを努力して乗り越える――以下、同じ。

この『逆境とそれを乗り越える形』こそが前時代では『山あり谷ありの面白い話』という解釈に広義ではなっていたと思うし、そこから外れるような作品は評価されない傾向があったのではと考える。


でも当時、こういったお決まりの『テンプレ山あり谷あり展開』に飽きてきた人が増えてきたけど、テンプレ山あり谷あり展開をやらない作品は(昔は)メジャーになれなかったので、そこに潜在的需要が存在しているのに表面化せず、テンプレ山あり谷あり展開を打破する作品が行き場所を求めて小説投稿サイトに集まってこんなに人気が出たのではないか。

というのが自分の見解。


1つの例を上げると。

主人公が困難に直面し、その壁を苦労して乗り越え山場を迎えるとまた更に大きな壁が出現し、そうやって主人公が少しずつ成長していったりする話。これは王道の『テンプレ山あり谷あり展開』だけど。そういったテンプレ展開ではなく、同じ状況で『主人公が最初から最強チートを持っていたらどうなる?』というのを書いたのが『俺TUEEEEE系』『チート主人公系』であると。

それまでの『テンプレ山あり谷あり展開』の世界観で主人公だけが最強の力を持っていて、それまでの『主人公が苦労するテンプレ話』を全てチートパワーで粉砕し、お約束展開を無視して難なく進んでいくところに新しさがあって面白かったわけです。

これを理解してない人が今でも多いと思う。

『俺TUEEEEE系』は単純に主人公が最強だから良いとかそういう話ではなかった、ということ。

元々はテンプレを破壊することが面白かった、という話ね。


そして上記の例のような場面(テンプレ山あり谷あり展開)を『俺TUEEEEE』で粉砕するのではなく全てさらっと無視するのが『スローライフ系』であると。

これもテンプレ王道ストーリーである『山あり谷あり展開』が存在することが前提として、それを完全無視して主人公が独自のまったりライフを満喫することに面白さがある。

なのでこのスローライフ系に対して「主人公がなにもしない」とか「話が進まない」とか言うのは基本的に見当違いなことが多い。

こちらも元はテンプレを破壊することに面白さがあった。


もう1つの例を書くと。

某有名作品に出てきた某名物サブキャラクターは、主人公の役にはまったく立たないのに毎回のように主人公に面倒事を持ち込んできて、それに主人公が強引に巻き込まれる形で物語がスタートすることが多かった。

要するにトラブルメーカーキャラなのだけど。

これを作者目線で見ると、このトラブルメーカーキャラはメチャクチャ使いやすい物語の始点で、そういう無茶苦茶なキャラが強引に動かさないと主人公は動かせないことが多い(例えば主人公が切れ者だったら変な行動は取らないはずだから、おかしなキャラを無理にでもぶつけないと事件に巻き込ませられない)から、だから超便利だったんだろうと。

でも当時、それを読んでいる読者(僕)目線では「なんだこのク○キャラはよ○せや」ぐらいの勢いでキャラに対するヘイトが溜まるだけだったし、それがどんどんウザくなってその作品自体を見なくなった。

しかしこの時代では、こういった問題を起こすトラブルメーカーは物語の山や谷を作るための必要悪的なモノになっていた感があって。特に長期連載シリーズモノだとそういうキャラがいないと停滞しちゃって物語が作れない面があって多くのラノベとか漫画では使われ続けていたと。今から思えばそう感じるのだが。それにイライラしてヘイトを溜める読者も少なくなく、そういったトラブルメーカーをスッパリ切れる主人公を望む声があったはずだけど、前時代の考え方でそういったトラブルメーカーキャラは『物語を面白くするため(山や谷を作るため)の必要悪』なわけで、切り捨てることはありえなかった。

で、そういった系統の話が振り子理論で逆に振れてなろうで誕生したのが、例えば『ざまぁ系』だと思うと。

上記の話では、主人公の役にまったく立たないトラブルメーカーキャラが持ち込んだ厄介事を主人公が苦労しながら解決することで山あり谷ありの話になっていた。

しかし、そういった『物語を動かすためのトラブルメーカー』というキャラが様々な作品で多用された結果、そういうキャラは『ただのウザいキャラ』という認識が生まれてきて、トラブルメーカーが持ち込んだ厄介事を無視したり、逆にはね返したりして、トラブルメーカーを完膚なきまでに叩きのめしたのが『ざまぁ系』の起源であると。そう考える。

これもテンプレの破壊と言える。


こういった上記のトラブルメーカーの例だけでなく、既存の作品では悪役キャラが大した制裁を受けなかったり主人公が許したりして終わるケースが多く。つまり主人公にあまり冷酷な決断をさせないケースが多かったように感じるが。場合によってはそれで悪役が後々に仲間として加わって『激アツ展開』になるケースもあったものの、その逆に主人公がそこで制裁を加えなかったことで後で悪役キャラに仕返しをされて主人公が大打撃を受けるパターンもそこそこ多く見られた。

そういった展開にした理由は色々あるのだろうが、結局のところ作者が『物語の谷間』を作るための装置としてそうした、ってのが正解なんだろうし、それ系の展開をやる作品がいくつも出た結果、そういうのが飽きられてきて単純に読者のイライラポイントになってしまったと。


「ま~た主人公が甘っちょろいこと言って敵を許して大失敗して『お涙頂戴』&『これで主人公君は強く成長しました!』を作者がやりたいための展開だろ? もう飽きたしイライラするだけだわ……」


という感じでね。

悪役による仕返しがなかったとしても、悪役を悪としてはっきりしっかり書けば書くほど悪役には読者のヘイトが向くわけで、そこでラストに悪役がちゃんと制裁を受けないと読者のヘイトが悪役から『制裁を加えない主人公』に向いてしまうと。

だから既存の『悪役が順当な制裁を受けない話』にイラつきを感じる読者は一定数いたはず。

結果、WEB小説で増えたのが『冷酷系主人公』とでも言うか『冷静沈着系主人公』という感じのモノだと思う。

やたら攻撃的に見える主人公とかがそれね。

つまり、悪にはガッツリしっかり容赦なく制裁を加えられる主人公がなろう系では望まれる傾向があって、なろう系ではそちらの主人公が多いように感じる。

が、これはまた違う話かもしれないが。


◆◆◆


で、上記のいくつかの例に共通して言えるのは、


『これらは山も谷もないのではなく、主人公は山を粉砕し谷を飛び越えているだけ』


であって『決して、山も谷もない話ではない』ということなんですよね。ちょっと矛盾しているように聞こえるかもしれないが、山も谷もあるけど主人公がチートでスルーしているだけで、そこには確実にあるんですよ。

これが非常に重要なのだけど、あまり理解されているとは思えないと。


言い換えるならパロディとかそういったモノに近いのかもしれない。

例えばお笑い番組なんかのコントでスーパーヒーローを題材にしたパロディがあると、登場人物の誰かが普通のスーパーヒーローのキャラとはまったく違う動きをすることで、それが面白さになったりすると思う。

主人公のスーパーヒーローが弱すぎて悪役怪人に毎回やられる展開になる、とかね。

仮にそうなると既存のスーパーヒーローモノ的なストーリーの山や谷はなくなるわけだけど、それでパロディが面白くなくなったか? というと、それは違うでしょ? という感じ。

スーパーヒーローのテンプレをぶっ壊すからこそパロディコントが面白くなるはずだから。


つまり、既存のメジャー作品でよく見る『テンプレ山あり谷あり展開』というモノがベースにあって『その山場や谷間をいかに既存のテンプレ展開にせずに乗り越えるか』というところが、なろう系、WEB小説の元にあるモノで、それこそが面白さであった。というのが僕の『なろう系が流行った理由』についての結論になります。


◆◆◆


しかし1つ懸念があるとすれば……。

そういうパロディって元になった作品というか、作品群というか、そういうジャンルを知らなければ面白くないわけですよね。

つまり、上記のスーパーヒーローモノで考えると、元々のスーパーヒーローをそれなりに知ってなければそのパロディの面白さは分からないわけです。

『最強のスーパーヒーローが悪を倒す』というスーパーヒーローの元の形を読者が知っているからこそ『スーパーヒーローが何故か弱すぎる』というパロディがコメディ的に成立するのであって『最強のスーパーヒーローが悪を倒す』という部分を知らない人が『ただただ弱すぎるスーパーヒーロー』を見たら、ただ主人公がやられてボコボコにされるだけでパロディにもコメディにもならないはずなんですよね。

これが問題だと思っていて。

これを現在のなろう系に当てはめると。

ある一定の年齢以上の人は上記のいくつかの例であげてきたような『優柔不断系主人公』や『トラブルメーカーサブキャラ』とか『テンプレ山あり谷あり』なんかを過去の様々な作品で経験してきているから、なろう系をパロディ的に見れていると。

しかし今のなろう系が氾濫している世の中で育ってきた一定以下の若い人はそんな時代を知らないし、アニメや漫画なんかで最初からなろう系に触れることになる。

そうなってくると彼らは『トラブルメーカーキャラ』なんかを見て僕らが感じたようなイラッと感を知らないし、それらのストレスを解消させてくれるような作品を楽しめる場所(WEB小説)がなくて鬱々としていた時代を知らないわけで。

となると、どうして所謂『なろう系』が面白いと思われているのかまったく理解出来ないという層が普通に出てくるんじゃないかと考えていると。

よくなろう系の主な読者層が30~50代前後と噂されているのも、そういった背景があるからではないかと最近は考えているのだけど、どうだろうか。


(今の時代にこんな話をしても馬鹿にされそうだけど、最初になろうでチート系主人公を見た時は本当に革新的だと思ったし、凄いと感じたし、面白かったんですよ。いや、マジで。だってそんな話はそれまでまずどこにもなかったのだから。それまで見てきたテンプレ的な展開を全てぶち壊していくストーリーは本当に独創的だったんです)


まぁ、それも振り子の法則であって、今はなろう系という方向に大きく振れているのだから次はその逆に大きく振れるのは至極当然。

最初に書いたアニメの例から考えると振り子の周期は10~15年ぐらいだと感じるので、そろそろ針が逆に走っても全然不思議ではない、と思っている。

それが所謂『なろう系』の終焉の時なのかもしれない。

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