『星野くんの二塁打』が消えることについて、ストーリーを作る側の視点からの考察

最近、小学校の道徳の教科書から『星野くんの二塁打』の話が消えるという話があって、それで色々と議論があって、それを見てちょっと小説家的な考察をしちゃったんですよね。


星野君の二塁打の話をかいつまんで話すと。

野球チームに所属している星野くんが甲子園がかかった試合の9回裏に監督からのバントの指示が出ていたのに無視してヒッティングにいって二塁打を打ち、チームはサヨナラ勝ちしたけど、星野くんは指示を無視したと監督から糾弾される、という話。


そして前提条件として、この話は50年ぐらい前に道徳の教科書で採用され、何度も『話の内容が改変されながら』今まで教科書に載り続けたが、この度、教科書から削除されることに決まったと。

その理由は、恐らくだけど現代人の考え方では学生スポーツで監督の命令が絶対であるという強権的な考え方そのものが受け入れられなくなっているのだろうと思うと。


その上でこの話を最初の段階から語るとだけど。

恐らく最初にこの『星野くんの二塁打』を道徳の教科書に採用しようと考えた昔の人の意図は『結果が出たとしてもルールに従わなかったり上からの命令に従わず、規律を乱すのは悪である』と、まぁこんな感じなんだろうと思うし、それに関しては大体の人が『そういう意図はあっただろうな』と思ったはず。

で、どうしてそういう教育をしなければいけなかったのか、という話をしていくと、もっと昔に遡るのだけど。

人類って産業革命以前は機械を使わず手作業でモノを作っていたわけで、だからこそ普通は親や働き先の親方から仕事を学び、技術を受け継いでいったわけだが。それは親や親方独自のやり方をそのまま学んでいるだけであり、同じ業種でも他の店ではまったく違うやり方であったり道具からして違うみたいな話もあったはずだし、非効率すぎるやり方も中にはあったはずで、技術に汎用性がなかったと。

それが産業革命で機械化が進み、同じ物を大量生産するようになってくると、職人の感覚的な技術ではなく多くの人々が同じ機械を使って同じ作業が出来ることが重要になってきた。

そうなると労働者に必要になってくるのは、ルールを守ってちゃんと定時に仕事場に行き、教えられた通りに決められた作業をこなし、人間関係を適切に保って和を乱さず、真面目に働く人であると。

つまり、とにかく技術力の高い職人が重要視された時代から、とにかく真面目に決められた作業を粛々とこなせる人間が必要とされる時代に産業革命による機械化で変わったわけだ。

で、日本だけでなく、先進国はどこでも同じようになったはずで、どこでもこの人材の転換が自然と行われたのではなく、学校教育の中でこういった教材を使って新しい時代に適した人材を作り上げていったのではないかと。


しかしPCやインターネットが出現し始めた頃からそれがまた逆転する。

一人の天才が作ったプログラムが世界を変えたりするようになったわけで、前時代の画一的なマニュアル人間より一人の突き抜けた天才が重要視される時代に変わっていったと。

恐らくその影響があって、この『星野くんの二塁打』も大きな流れはそのままだけど内容の表現とかが徐々に変わっていったと思うんですよね。

過去の修正履歴を全て把握しているわけじゃないけど、元の作品では試合後に星野くんは監督に批判されてレギュラー剥奪を言い渡され、それに対して「異存ありません」と監督の判断を認めて終わるのだが。最近のモノでは監督が星野くんを批判したところで終わっているらしいと。

つまり、この作品が道徳の教科書に採用された段階においては『監督の命令に背く星野くんが悪い』という結論に持っていくのが狙いであって、それがその当時の国民教育の方向性だったのだろうと推測するが。近年においては『生徒が指示に絶対に従うという条件でこの監督が就任した』という部分や、ラストの『監督が星野くんに罰を与える』と『星野くんが監督から与えられた罰を是認する』という場面が削除されていたらしい。つまりそういった部分を削除するには理由があったはずで、それを作家的目線で考えてみると、この教科書作成者の狙いとしては、


『監督と星野くん、どちらが悪いのか読者に問いかける』


ような意図があったのではないか、と考える。

つまり、過去においてこの作品は『上の命令に従わず集団の結束を乱す者は悪である』という集団主義的な道徳を説く作品であったが。

(一部、専門家の意見では作者にそういう意図はなかったという話もあるし、それはそうかもしれないけど。道徳教育に使おうと教科書に取り上げた人物の意図としてはこうだったのではと思う)

それが時代の流れによって考え方が変わり、集団主義的な考え方がそぐわなくなってきたため改定。

『監督の行動を正当化している話』を削り、物語の最後の結果を削ることで『結論』がない状態にして、そこから読者に考えさせる内容にした。

昔と今では教科書に載せる意図が変わったのではないかと思う。


『じゃあ、どうしてそうやって時代に合わせて内容を変えて意図を変えて残してきたのに、星野くんの二塁打そのものを削除するのか?』


ここで最初の方に語った話に戻るけど、恐らくだけど、この展開で『監督と星野くん、どちらが悪いのか読者に問いかける』という内容すら今の時代では合わなくなってしまったからだと考える。


最近のプロスポーツ選手の話を聞いていると、学生スポーツ年代で規律を守らせ従順にするための練習をしても上のレベルでは通用しなくなるとか、セオリーは重要だけど場合によってはセオリーを無視してリスクのあるプレーをしなければいけない場面もある、という考え方が主流になってきているようで。例えば昔は野球の守備では『腰を落として打球を正面から両手で取り、取れなくても体に当てて止めろ』と教えられたもので、グラブだけの片手キャッチをしようものなら監督がブチ切れてたわけで。

しかしメジャーリーグなんかだと本当に間に合わない時はグラブすら使わず投げる手でキャッチしてそのまま投げる、みたいなちょっと危険でトリッキーなプレーもあるけど、それは危険故に教える側もそういうプレーは推奨出来ないわけで、教えられないから選手が自主的に状況に応じてリスクを天秤にかけ選択するものであると。

サッカーとかバスケとか一瞬の閃きのような動きで試合が動いてしまうスポーツだと顕著で、遊び心のある動きとかフェイントが勝負を決めてしまうことがあるわけで、より選手の自主的な積極的な行動を許容していかないといけないわけで、選手が萎縮してチャレンジ出来なくなるような環境はそもそも間違いだという認識になってきていると思う。


これはスポーツだけの話ではなくて、社会全体としても個人の自主性を重んじるような風潮が出来てきている感じはするし、教育に関しても生徒の自主性を育てる方向に進んでいることは明らかで。上からの無茶な命令に下が逆らえず大きな事故や事件になったケースが社会問題化したこともあって、納得出来ない理解できない間違っていると思うことをちゃんと主張出来る人材を作るという方向に社会全体が向かっているわけで、ああいった『上の命令は絶対』という要素が中心の作品は(それがどういう意図で使われるのかに関係なく)もう道徳の教材としては向いてないという判断なんだろうと、そう感じたと。


◆◆◆


それにそもそもの話をすると、実はバントって効率が悪いらしいんですよね。

無死1塁と1死2塁なら前者の方が得点率が高いというデータで出てきているのでメジャーではバントをやらなくなってきているし、1アウト1・2塁でのバントでも効率悪いから今は日本でもやらなくなってきているらしい、ってのもあって。つまりそもそもこの場面で、しかも打線の中軸にバントさせるというのは非効率であるからそんな指示を出す監督が無能であるというデータ的な結論を出すことが可能であると。

しかし学生野球とかだと打率1割台とかの選手とかも普通にいるはずで、仮にそういう選手がこの場面でヒッティングを志願してきたとしたら、それでもヒッティングさせるのが効率的なのか? という話になってくると怪しいわけだし。

もっと言うと、これまでの結論を踏まえても、それでもメジャーとかプロ野球でも監督からのサインを無視したら懲罰あるんじゃないの? っていう話もあるんですよね。


そういうの全部ひっくるめたら道徳とかそういうの抜きにしても教材に使う例題としてはこの場面は相応しくないんじゃないの? みたいな話もあるんじゃないかなぁ……なんて思ったわけです。

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