娘の恋人

澤田慎梧

娘の恋人

「今日はそろそろ帰るね……次はまた、来週に」


 そう言って、いつものように加奈の頬を愛おしそうに撫でてから、佐土原さんは帰っていった。


 娘の加奈が昏睡状態に陥ってから、既に一年近くの月日が経とうとしている。

 自宅アパートの階段から転落し、強く頭を打ったと聞いている。よほど当たり所が悪かったのか、未だに目覚める気配は無かった。


 佐土原さんは、娘の恋人――同棲相手だった。事故の後に連絡をくれたのも彼だ。

 てっきり加奈は一人暮らしをしているものと思っていたから、突然現れた娘の恋人――しかも、加奈よりもかなり年上――の登場に、私は当初戸惑いを隠せなかった。

 でも、目覚めぬ加奈を前に狼狽するばかりの私を根気強く勇気付け、支えてくれたのは他ならぬ彼だった。今では絶対的な信頼を置いている。


 早くに夫に先立たれ、頼るべき係累けいるいも無い私にとって、佐土原さんは救いの主そのものだった。もし彼がいなければ、いつ目覚めるとも知れぬ加奈を道連れに、心中を図っていたかもしれない。

 昏睡状態の人間を看病するということは、それだけ体力と気力をすり減らすものだった。

 入院していても、全ての世話を看護師や医師が行ってくれるわけではない。家族の手でやらなければならないことが、あまりにも多すぎるのだ。


「佐土原さんには、感謝してもしきれないわね……」


 一人つぶやきながら、彼と同じように加奈の頬をそっと撫でる。

 ……温かい。娘がまだ生きている証だった。その温もりをじっくりと確かめていると、この一年の様々な出来事が頭の中を駆け巡った。

 辛いことが沢山あった。挫けそうになる日もあった。でも、そんな時には佐土原さんがそっと私に寄り添って、支えてくれたのだ。


『大丈夫ですよ、お母さん。加奈はきっと目を覚まします』


 優しく肩に手を置きささやいた彼の言葉が、肩に触れたその手が、凍えそうだった私の心に何ものにも代え難い温もりを与えてくれたのだ。


 ――ふと、加奈の頬を撫でる手が止まる。

 ああ、いけない。最愛の娘の頬に触れながら、また私は許されざる感情を抱いてしまっていた。

 『加奈が目覚めれば、あの温もりが私に向けられることは、もうない』だなんて。

 自分の心根のおぞましさに、嫌悪感さえ湧いてくる。


 女盛おんなざかりもうに過ぎ、老いを待つだけになった中年女が、年下の男性――しかも娘の恋人に、そんな想いを向けるだなんて。許されるはずがない。

 それに、彼の優しさの全ては、私個人に向けられたものではない。私が「加奈の母親」だからこそのものだ。勘違いしてはいけない。いけないのだが――。


 ――ああ、それでも。それでも、この胸に渦巻く温かい想いは、決して嘘偽りなどではなく……。


 加奈の顔を見ていられず、窓の外に目を移す。日は既に暮れ、遠くに昇りかけの満月が姿を現そうとしていた。

 その満月のあまりの美しさに、何故だか泣きそうになる。

 "I love you."を「月が綺麗ですね」と訳したのは、夏目漱石だったろうか? いや、あれは後世の創作だったか……。


 ――そんな益体もないことをぼんやりと考えていた、その時だった。


「……綺麗なお月さまだね。今日は……満月?」


 最初、その声がどこから聞こえてきたのか、誰の言葉なのか、私には全く分からなかった。

 か細く、今にも消えてしまいそうなしわがれ声が、私の記憶の中の「彼女」の声とは、あまりにもかけ離れていたから。

 それが、喋るはずのない「彼女」の発した声だったから――。


「……お母さん、ここ、どこ?」



 ――加奈が目を覚ました。

 駆けつけた医師や看護師により、すぐに簡単な検査と問診が行われる。

 元々、体や脳波には殆ど異常は無かったのだけれども……幸いにして、意識や記憶にも問題は無いようだった。

 自分の名前、生年月日、昏睡状態に陥る前までの記憶はしっかりしている。自分が一年近く眠り続けていたことも、驚きながらもすぐに理解したようだ。

 まだ、階段から落ちた前後の記憶は定かではないらしいけれども、自分のことや私のことを忘れている様子はない。


 診察が終わり、再び病室に加奈と二人だけになる。

 加奈はまだ、自力で体を起こすことも出来ないし、長いこと喉を使っていなかったせいで喋るのも一苦労らしい。

 だからただ手を握って、言葉もかわさず、お互いの温もりを確かめあっていた。

 そのまま、どの位の時間が流れただろうか。私はふと、大切なことを忘れているのに気付いた。


「ああ、なんてこと。佐土原さんに連絡するのをすっかり忘れていたわ! あの人もずっと加奈の看病をしてくれていたのに……。すぐに連絡するわね、加奈も会いたいでしょう?」


 言いながら携帯電話を取り出す。既に夜も更けている、電話ではなくメールの方が良いだろうか?

 それにしても、あれだけの想いを向けていた佐土原さんのことを、今の今まで忘れていたのだから我ながら現金なものだった。それだけ、加奈が目覚めた喜びに舞い上がっていたのだろう。

 ――それとも、彼に加奈が目覚めたことを伝えたくないと思う自分がどこかにいたのか。ふと、そんな考えが頭をもたげ、携帯電話を操作する手が止まった。


「お母さん……?」


 すると、そんな私の様子を不審に思ったのか、加奈が不安げな声を上げた。

 しまった。目覚めたばかりでまだ心細いだろう娘を、不安がらせてしまったのかもしれない。しっかりしなければ。


 けれども、続く加奈の言葉は、私にとって全く予想外のものだった。


「佐土原さんて……誰?」

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娘の恋人 澤田慎梧 @sumigoro

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