ふたり

鴨田とり

第1話

8年前、わたしの母親は死んでしまった。

キッチンにあった包丁で全身を刺されて失血によるショック死。

当時わたしは4歳。自宅で血塗れの母親と一緒に居たそうだ。

『居たそうだ』というのも、事件後にパパから聞いた話。

わたしにはその頃から前の記憶が存在しないのだ。

人間はつらい事があると自分を守るために記憶を忘れる事がある。

おそらくその性質の影響だろうと、お医者様が言っていた。

どこかへ出かけた時の家族三人が写った写真をパパから何度か見せてもらったけれど、まったく実感がなかった。

そうパパに伝えるといつもパパは泣きそうな、苦しそうな顔になったことを覚えている。

8年たった今でもパパは夜中に一人泣いているのだ。

亡くした最愛の妻を、そのショックで記憶を失った娘を、未だ解決しない事件を想って。

そんなときはリビングで泣くパパの背中に声をかける。

眠れないフリをして、時には怖い夢を見たと言って、一緒に寝させてもらう。

「和花はいつまで僕と一緒に寝てくれるのかな?」

「わたし、大人になってもパパとずっと一緒だよ。」

布団の中でぎゅうぎゅうと抱き締め合いながら寂しさを分け合って眠りにつく。

パパは複雑そうに、でも嬉しそうに少し笑う。

過去のことで泣いたりしないで。パパにはわたしがいるよ。

わたしにはパパが居る。パパの体温を感じながら夢の中へ落ちていく。



・・・。・・・。


・・・ああ、またこの夢だ。起きたときは覚えていないのに。

絵本のようにぱたぱたと画面が切り替わる。


必ず最初は楽しかった頃。

「わか、おおきくなったら、ぱぱのおよめさんになる」

「そうなったら僕のお嫁さんが二人に増えちゃうな。」

困ったフリをした嬉しそうなパパ。大好きなパパ。

「やだー、ママも和花のお嫁さんになりたーい。」

楽しそうな優しいママ。大好きなママ。

「ママ?!何言ってんの?!僕のお嫁さんじゃないか・・・。」

くすくす笑いながら暖かい気持ちでいっぱいになり、小さな手でパパとママの腕に笑顔で抱きつく。今ならこの暖かい気持ちの名前がわかる。

その名前は“しあわせ”。

いたずらをして怒られて。三人でお出かけをして、記念に写真を撮って。

たくさんの思い出が、短い時間だったけれど確かに有った。

このときが、一番幸せだった。


そんな日常はある頃から変わる。

ママは誰かの視線を感じるようになった。最初はママも気にしていなかった。

けれどいつまでたっても、何をしていても寒気のする嫌な視線がママに向けられていた。

ある日耐えきれなくなったママはパパに『誰かに見られている』と相談した。

でも『気のせいじゃないかな?』とか『疲れているのかもしれないね。』といってパパは本気にしなかった。

そのうちママは少しの物音でおびえるようになった。

扉の隙間から憎悪の籠もった視線がママをにらみつける。

優しかったママは、睡眠不足から体調と心を崩してしまった。


もう、見たくない。この続きは見たくない。そう思っても夢は止まらない。

ママがソファで寝ている。窓から差し込むオレンジ色の夕日。

ママへ向けられた見慣れた包丁が光を反射する。

いつもおいしいご飯を作る包丁がママの首に突き立てられる。

やめて!わたしのママに何するの!!

叫んでもわたしの声は音にならない。

驚いて飛び起きたママを何度も、何回も包丁は突き刺す。

ママから赤い血が止まらない。床に包丁が落ちる音。

ママ!ママ!起きて!ぐったりとしたママの体が冷えていく。

女の笑い声。『これで、あの人はアタシだけのものよ。』

やめて、わたしとパパからママを奪わないで・・・。


頬を流れる涙は夢の中?それとも現実?

ここは病院。パパはスーツのまま。お仕事から着替えずに慌ててやってきたみたい。

ねえ、シワになっちゃうよ。怒られちゃう。

怒られる。でも、誰に?わからない。

わたしをぎゅっと抱き締めるパパの体が震えている。

ごめんな、と。生きててよかった、と。そしてまたごめんな、とパパは繰り返す。

顔は見えないけれど、きっとパパは泣いている。

パパの体は暖かい。うん、暖かい。

理由は分からないけれどそんな単純なことに、わたしはポロポロと涙を流す。

わたしにはパパが居る。それで充分だ。それだけだ。


あれ、いつもならこのタイミングで目が覚めるのに。

そして起きたときには夢の内容を全部忘れているのだ。

こんなに心が痛むのに、起きたときにはなぜ痛いのかわからない。

『もうすぐ。もうすぐよ。』

真っ暗な世界にうっとりとした女の声が響く。

知ってる!あの、女の声!

何がもうすぐなの?今度はわたしからパパを奪うつもりなの?

『いいえ、あの人にはもうアタシしかいない。』

楽しそうに、嬉しそうに笑う声が聞こえる。

どこにいるの?許さない。捕まえてやる。

『どこに、ですって?何を今更言っているの。』

不意にわたしの真後ろから声が聞こえた。

勢いよく振り返ると、そこには。

『アタシはパパのお嫁さんになるの。』

ゾッとする様な笑顔のわたしが、いた。



・・・っ!

びくっとして目が覚める。窓の外からスズメの鳴き声がする。

・・・なにか怖い夢を見ていた気がする。

でもその内容がどうしても思い出せない。

「和花、どうした?すごい汗だよ?」

まだ眠たそうなパパがわたしのおでこに触れる。

「ううん、なんでも、ないよ。」

どくどくと心臓の音がうるさい。なんだかとても嫌な感じがする。

汗でじっとりとしたパジャマを脱ごうと、布団から出ると足を何かが伝う感触がした。

「え。」

アタシのびっくりした声にあの人が振り向く。

ああ、ついにこの日がやってきたわ。

「おめでとう、和花。これからは一人の女性だね。」

ありがとう、これで貴方の心も体もすべてアタシのモノにできるわ。

さようなら、子供の『わたし』。貴女はもういらない。

アタシの代わりに意識の暗闇で溺れてちょうだい。

これからはずっとこの体はアタシのもの。



もう『ひとつ』の体を『ふたり』で使わない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたり 鴨田とり @kamodashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ