冬「チョコレート」【酸いも甘いも噛み分けて】
あぁ、今日も残業だ。きっと明日も明後日も。
別に他の人より仕事量が多いとか、効率が特に悪い訳でもない。だが、特別に何かできるわけじゃない。毎日毎日少しずつ仕事を残すもんだから、日に日に溜まっていく。特に奮起することもなく、ノルマをこなす日々だった。坦々と同じような日々の中、毎日のように何かで叱られ、多少仕事を早く上げても、当然として受け取られる。特に変化もなく繰り返す時間に慣れた仕事。自分を機械のように感じ始めた。
いつものように朝出勤し、デスクワークを行っていた。昼休憩も一時間前に迫り、緊張も緩んで食事の事しか頭にはない。朝コンビニに寄れず、朝食を取れなかったことも響いていた。
だからしばらく、名前を呼ばれていることに気が付かなかった。
「佐藤君、ちょっと聞いてるの」
刺々しい声が耳に刺さり、意識が覚醒する。
「え……あっはい。なんでしょうか」
意識が完全に戻らず、曖昧な返答になってしまう。声のした方向に顔を向けると、無表情の課長がいた。うちの課長は交渉上手で愛想がいいと他部署からは評判が高い。しかし、怒らせると表情豊かな普段とは逆に無表情で剣呑とした雰囲気を隠そうともしない。
「聞いてなかったのね」
課長は言葉と共にわざとらしく大きなため息をついて見せる。一度伏せた目をもう一度上げたときには、剣呑さが一層増していた。
「商談先の鈴木様に資料が送られていないと言われたのだけれど、どうなっているのかしら?あなたが担当だったはずよね」
課長の言葉に一瞬頭が真っ白になる。鈴木様は今回のプロジェクトをする上で欠かせないビジネスパートナーであり、普段から当社を利用していただけるお得意様でもある。その重要性は俺も理解していて、商談が終わった後すぐにメールを作成し、資料ができた二日前に添付して送ったはずだ。
もしかしたらメールの送信が上手くいかなかったのかもしれない。そんなわずかな望みに縋るように、俺は自分のメールボックスを開き送信メール履歴を探す。画面をどんどんスクロールしていくが、見当たらない。二日前の分を過ぎても見当たらない。まさか、と思い保存メールを開くと、件名に「送信アドレスを要確認」とした鈴木様宛のメールを発見した。
俺の一連の確認の様子を、課長は静かに後ろから見ていた。背筋が凍る想いとはこのことだろう。
「どうやら、こちらの不手際のようね」
俺はどうすることも出来なくて、ただ謝罪することしかできなかった。
「誠に申し訳ありません。確認を怠っていました」
「私に謝らないで。あなたが謝罪すべきは鈴木様よ。今回は会議前に資料を確認したいと事前に鈴木様が言ってくださったから大ごとにならなかったけれど、一歩間違えばこのプロジェクトに関わる全ての人間に多大な迷惑をかけたということは肝に銘じなさい」
「はい、申し訳ありませんでした」
俺は課長に向かってただ頭を下げることしかできなかった。多くの人に迷惑をかけたことは事実であり、鈴木様に不信を抱かせたことも事実である。それによって、今後他の場所に迷惑を掛けるだろうということも。
「当然のことだけど、あなたには今回のプロジェクトから外れてもらうわ」
課長の言葉は、今までのどの言葉よりも冷たく、俺に突き刺さった。今回のプロジェクトは、退屈な日々の中で唯一やりがいがあると感じ、自分で企画立案し、携われることになったものなのである。
「えっ、そんな」
だから反射的に俺がこんなことを言ってしまったのも無理はないのだ。
「なに。まさか烏滸がましくもプロジェクトのメンバーでいさせてもらおうなんて思ってないでしょう」
課長の鋭い目が俺を射抜く。言いたいことはいろいろあるはずなのに、その目に全て封じられてしまう。
「あなたも分かってるでしょうけど、顧客との付き合いは信用第一なの。それを先方に失礼をしたあなたをそのままメンバーに入れておくことが、先方にどう思われるかわかるでしょう?」
有無を言わさぬ目が、反論するなと語っている。
「自分の失態は自分で償いなさい」
そういうと踵を返し自分の席に戻っていく。座った途端に添付ファイルを課長に送るよう指示され、もう鈴木様に直接謝罪する機会すら与えられないのだと落胆した。
力が抜けて、椅子に寄しかかっていると、思い出したように腹が鳴った。そういえば朝から何も食べてなかったなと思い出した。時計を見ると、まだ十分に食事する時間はあるため、俺は食堂へ行き昼食を食べることにした。体感では1時間以上経っていた気がしたが、時計をみるとたかだか十分程度のやり取りであったようだ。そこでもう一度腹の虫が鳴り、俺はそそくさと移動した。
今日もいつも通り残業をしていた。普段は終わらないノルマをこなすためだが、今日はなんとなく仕事をしていたくて、明日の分にまで手を付けていた。仕事の二重確認を行えるようにスケジュールを調整し、今後のノルマの変更なども行っていた。
二日前にこれをやっていたら。普段の仕事から疎かにせずに行動していれば。いくら後悔しても足りない。毎日の生活に飽きて、会社の歯車になった。でもせっかく歯車になるなら、替えの利かない人間になろうと思って三ヶ月前から構想を練ってようやく動き出した企画だった。自分の役に立たなさなんて元から分かっていることだけれど、それでも何かできることがあるのではないかと必死に探してようやく掴みかけたソレ。手に入れたと思った瞬間砂のように零れ落ちてしまった。あまりの自己嫌悪に、一人になりたくなくて、少しでも役に立っている実感を持ちたくて、終電間際まで仕事に打ち込んだ。
「佐藤君」
聞こえたよく知っている声に、俺はピクリと反応し、手を止める。そして声のした方に向かってゆっくりと顔を向けると、予想通り、俺に声をかけることは予想外な課長がいた。
「課長、遅くまでお疲れ様です」
反射的に頭を下げる。昼のこともあり、若干気まずい空気を感じる。
「あなたこそ、お疲れ様」
ゆっくりと頭を上げると、昼のことなどなかったように笑う課長がいた。
率直に言って課長は美人だ。整った顔をしていて礼儀もきちんとしているし、いつも清潔感があり愛想がよい。本当に締めるところもきちんと締めるだけで、普段はこうして部下を気遣ってくれるいい上司だ。そして美人に笑顔で励まされて頑張れない奴なんかいない。同時に美人の冷酷な視線に怯えない奴もいない。おかげでうちの部署は営業成績がとても順調で、ミスも少ない。
しかし俺のように平々凡々な容姿に仕事をこなしているとあまり関わる機会なんかないに等しい。先輩に言われたことをこなし、小間使いかパシリのように働くしかないのだ。だから俺は同じようなことを毎日こなすしかない。今回企画案を上げたのは、マンネリ化した毎日を脱したいという想いが一番大きい。それは間違いないが、企画が通れば美人課長とお近づきになれるという下心が全くなかったわけでもない。今まで全く話したことが無かったわけではないが、それこそ挨拶くらいしか交わす機会が無かった。
その課長が、今俺の目の前で、俺に微笑みかけている。
この事実だけで頭がうまく働かなくなった。
「あっ、ありがとうございます」
言葉を絞り出すだけで精一杯だ。
「佐藤君がこんなに遅くまで残ってるのって珍しいわね。電車通勤だと思っていたのだけど、違った?」
話しかけられてる。こんな夜遅くに。どうしよう。
「佐藤君、会社の近くに住んでるの?」
「あっ、いえ」
やっと質問されていることに気が付き、反射的に答える。
「じゃあやっぱり電車?今から終電間に合う?」
純粋に心配されていることが分かる瞳に場違いにも胸が高鳴る。落ち着け。課長は部下想いなだけだから。
「今日は、タクシーで帰ります」
俺の言葉に、課長の表情が曇る。別に変なことは言っていないと思うけど。
わずかな時間、沈黙が流れる。周りを見渡してみると、デスクに電気がついているのは俺と課長の机だけで、他の人は帰っていたようだ。
課長は小さく息を吐き、空気を変えるようにわずかに声の調子を上げて話しかけてきた。
「佐藤君さ、最近仕事怠いなーとか思ってるでしょ」
「えっ、なんですか急に」
突然の話題変更と図星を突かれ声が裏返りそうになる。
「最近仕事が雑だって、深山さんが嘆いてたの」
深山さんというのは俺の指導担当だった先輩で、今でもよくこき使われる相手だ。
「今までと変わらないと思いますが」
きっと深山さんが俺を気に入らなくて嘘を伝えたのだろうと思った。わざわざ課長に伝えなくてもいいのに。
「気持ちは仕事に出るのよ。それに最近覇気が無いなと思っていたし」
「課長、俺のこと知っていたんですか?」
余りの驚きに、失礼な事を言っている自覚もなかった。
そんな俺の言葉に、わかりやすく怒っていると示すために課長は口をへの字に曲げて眉間にしわを寄せる。
「私が自分の部下のことも知らないような頼りない上司だと思っているの。佐藤君は」
「そういう意味では」
慌てて撤回しようとした俺を見て、大げさにため息をつく。
「確かに一人一人のすべての行動が見れていると言ったら嘘になります。でも、見れる範囲できちんと見ているわ。困ったことがあれば、すぐ手助けできるようにね」
にこりと笑った顔は、手のかかる子供に許しを与えるような慈愛に満ちた表情だった。
「佐藤君が毎日の仕事を淡々とこなしていることも、最近こなす速度が落ちて残業していることも、今回のプロジェクトの企画・運営をすることを心から楽しみにしていて、これに関しては目の輝きが違うことも分かっていたわ」
「いや、そんな、そこまででは」
意味のない謙遜をしてしまう。そのくらいには予想外に俺は憧れの課長に見られていたという事実が恥ずかしかった。やる気がない態度だったことも、わかっているのだろう。
「今日の仕事は効率よく処理してて、残業時間は今回のミスをもう二度と起こさないように計画していたことも、今日わざわざ終わらせる必要のない仕事であることも分かっているわ」
恥じて俯けた視線を上げると、課長と目が合った。課長はとても優しく俺に微笑んでいた。
「課長には、何も隠し事できないんですね」
「えぇ。だから、あなたがあんなミスをするなんて思わなかった」
「申し訳、ありませんでした」
昼間の苦みが思い出されて、もう一度頭を下げる。
「違うわ、謝らせたいわけじゃないの。謝罪は昼間に受け取ったから。むしろこちらが謝らなくてはいけないと思っていたの」
「なぜ、課長が?」
「やりたかった仕事にも集中できないほど通常に仕事で疲労がたまっていたのよね。ワークバランスやリスク分散は上司の仕事なのに疎かにしてしまった。本当に申し訳ありません」
課長はそのまま俺に頭を下げた。
「いやいやいやっ、俺の責任ですから!ただの俺の不注意ですし」
「私も確認の声掛けを怠ったわ」
「いやでも」
「そこは私が」
お互いの声に被せるように言うと、どちらともなく視線が合わさり、しばらく見合った後お互いに笑ってしまった。
「課長、これは決着がつかなそうですね」
「そうね。お互い今回の失敗を次ぎに生かすということで痛み分けとしましょう」
「それがいいですね」
「じゃあ今日の所はこれで帰りなさい。私ももう帰るから」
そういって課長は自分の机に戻り帰宅準備を始める。
「もしかして課長、俺が帰るの待ってたんですか」
「あなただけじゃないわ。最後の社員が帰るまでここにいることにしてるだけよ」
「そうとは知らず俺、すみません。言っていただければ」
「気にしないで。少しあなたとは話したいと思っていたし」
「俺と、ですか」
「そうよ。佐藤君と」
準備の手を止めて、俺の方を見てにこりと笑う。そこらの男ならコロッと落ちそうなほどの可愛らしさだ。
「そう、ですか」
気まずくて視線を外しそそくさと帰り支度を済ませる。俺の準備が終わったくらいで課長も帰り仕度は終わったみたいだ。一緒に部署を後にする。
「課長は近所なんですか?」
「えぇ、すぐ隣のマンションよ」
「通勤が楽そうですね」
俺の言葉に課長は苦笑いを浮かべる。
「この部署は熱心な社員が多くてね。近いほうが良いと思って引っ越したの」
「すごい、愛社精神ですね」
「会社というより、私のもとで働いてくれるみんなのことはとても大切に思ってる。佐藤君とかね」
「恐縮です」
「嘘だと思ってるわね。こう見えてあなたたちの残業全部サービスじゃなくて補償申請出したりしてるんだからね」
「えぇ?本当ですか」
「何のために毎日最後まで残ってると思ってるの」
「なんか、素晴らしい人なんですね。課長って」
課長は誇るように胸を張り、ふふんと鼻を鳴らす。
「今更気が付いたのかしら?ちなみにいつでも部下を労われるように、こんなものも持ち歩いてるのよ」
課長はおもむろにポケットへ手を入れると、ビニールに包まれた一粒のチョコレートを俺に見せる。
「はい佐藤君、手を出して」
「あ、はい」
言われるまま手を出すと、課長は持っているチョコレートを俺の手に載せ、そのままでねと言ってポケットからもう一粒取り出す。そして俺に微笑んでくれた。
「今日はミスでへこんじゃってるから頑張れって意味と、遅くまで残業お疲れ様って意味で今回は二個ね」
「ありがとう、ございます」
「疲れたときは甘いものっていうからね。でもほら、食べすぎは虫歯になっちゃうでしょう」
真面目な顔でそんな事を言う課長がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「子供じゃないんですから、虫歯に成るほど食べませんよ」
「そんなことないわ。まだまだ佐藤君は子供だし、大人だからって虫歯出来るくらいに甘いもの食べちゃダメな訳じゃないの」
「どういうことですか」
「それが分からない所が子供ってこと」
ガキくさいと思いつつ腹を立ててしまう。もう親元からは離れて結構経つし、食事はたまにだが自炊するようにもなった。稼いで自分の食い扶持くらいは何とかできるようになった。もう立派に成人の年齢でもあるのに子供と評されるのは納得がいかない。
「いづれ分かるから、今は今できることを頑張りなさい。タクシーは呼んでおいたから」
気づけばもう会社の出口に来ていて、目の前にはタクシーが止まっていた。そういえば帰宅準備中課長はどこかに電話を掛けていた気がする。
「せめて、課長を送らせてください」
「目と鼻の先なんだから危険もないわ。はい車代」
課長は俺に一枚のお札を握らせてさっさと歩いて行ってしまう。
「あの、今日はありがとうございました!」
課長の背中に向けて声をかける。課長は手をひらひらと振り返しただけで、そのまま帰っていった。
課長が呼んでくれたタクシーで家まで帰る。二駅分なのでそこそこ時間がある。家の近くのコンビニによって夜食は適当に済ませてしまおうと考えた。
ふと、手の中のチョコレートに視線を落とす。ずっと握ったままだった。
気の赴くままに、一粒口に入れる。
外側はとても甘く、ミルクチョコレートだった。その糖分が疲れた頭に心地よく、程よく緊張がほどける。しかし一度噛むと中からカカオパウダーかコーヒーのような苦い粉が舌に広がる。
「えぇ、ニガい……」
ちょっと涙目になりながら、なんとか飲み込んだ。なんとなくこの苦いのは激励の方なんだろうなと感じた。
そう思えばこの苦みも、受け入れられるような気がしえ来るから不思議だ。
たとえ後に、それが課長の好みで、それを知った俺が蓼食う虫もなんとやらだなと思ってもこの時は知らなかった。だから普通に人生の苦みを味わわせて貰えたのだと嬉しかった。
何よりその後の仕事の励みになったのだから、課長の目論見は大成功だった。
終わり
テーマ短編 四季に添えて 久方 @hisakata
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