第19話 野島の家 2

 三日後くらいだったか、千鶴に頼まれて『毘陀羅経』を野島に返しにでかけた。千鶴が持ち出して来たんだから自分で返せよといったんは断ったのだが、健ちゃん返しておいてよ、誰が返しても同じことじゃない。と無理やり硬い表紙の本を押し付けられた。

 千鶴はバイトが忙しいからと言ったが、もうこの本に興味を失っているようだった。女の移り気は今に始まったことでもない、古来より多くの男がこういう気まぐれに泣かされてきたことだろう。


 日本にある西欧風家屋というのは、たいがい外観の体裁だけを似せたものだが、この野島邸は煉瓦と漆喰塗りの総二階建てで、暖炉を備えた構造の本格的な洋館だ。野島家はかなりの資産家か由緒のある家柄であるらしい。

 重厚な青銅のドアノッカーを叩きながら、俺は野島を少し見直していた。先回は裏口から忍び込んだだけだったので、ただのオカルトマニアの変人かと思ったのだったが、この住居の立派さから推し量れば、名家の後裔ででもあるのかもしれない。そういえば、干した魚のような痩せた顔にも、どこか貴種の血筋のようなものが感じられないこともなかった。

 玄関が開いて顔を出したのは、メイド服のお手伝いではなく、野島本人だった。来客の応対に雇い人ではなく家の主人が直々に出て来るというのは、こういう家柄では平時にはないことではないのか、それでも、こっちは返す物があって来たのだから、その相手が目の前にいるというのは、手間が省けたということだったが。

 野島の顔は汗まみれで目が飛び出ていた。何かに怯えているようすである。その恐慌ぶりには名家の当主の威風堂々とした感じがみじんもない。拍子抜けしながら、強盗にでも入られたのかとホールの方を見ると、階段を降りてくる女がいる。それが、なんと岸井ゆう子ではないか。海岸での様子から、二人に何かの関係があるとは思っていたが。

「正雄さん、この責任はとってもらうわよ」

 岸井は強い口調で野島を叱りつけた。

「しかたなかったのです、まさか、泥棒が入るとは思わなかった」

 岸井は階段の上から野島を睨んでいた。細身で優雅な姿の女が怖い顔をしているのは鬼気迫るものがあった。俺は二人が付き合っているのではないかと予想していたのだが、恐ろしい鬼でも見るような野島の顔つきからすると、そういう甘い関係ではなさそうだ。

「きみは誰だね、何か用か」

 このときはじめて野島は俺の存在に気が付いた。つまり野島はノッカーを鳴らした来客の応対に玄関を開けたのではなく、岸井ゆう子から逃げようとしただけらしい。俺はただその出口を塞いでいたのだ。

「どこかで会ったことがあるかね、どうも思い出せないが」

 俺は首を振って『門の外を通りかかったら知らない人にこれを届けてくれと頼まれました』と、用意してきた口実を言って本を返そうとした。

 ところがそれを口にする前に、突然後ろから声がした。

「この少年です、ご主人様の書斎に入っていた泥棒は」

 ふりむくと、メイド服のお手伝いさんが、買い物帰りのバスケットを抱えた姿で、まっすぐ俺を指さしていた。

 知らんぷりして逃げられるところへ、よけいなことを証言する者が現れたものである。野島はハッとして俺の腕をつかんだ。同時に俺が安泉寺で話しかけた中学生だということに気が付いたようだった。岸井ゆう子も広いホールを横切ってやってきて、俺が学長と一緒にいた中学生だと認識した。


「この書斎に入った者は、きみともう一人、少し年上の女の子だったそうだが、他人に家に勝手に上がり込んで、目的は何なのだ。君たちはここで何をしていたのだ」

 黙っている俺に業を煮やして、野島は書斎の机を叩いた。

「ここから本を一冊持ち出しただろう、どこへやった。言いなさい」

 椅子に座らされた俺は横を向いて、野島の尋問に無言を通した。むろん、非難は身に覚えのあることだから、素直に白状して本を返すべきだったかもしれない。しかし、何語とも知れないラベルを貼った壜の並んだ棚や、薬品類、怪しい道具の置かれた書斎の不気味な雰囲気と、怒りをむき出しにしている野島、それに、血の気を失った青白い顔で俺を見下ろしている岸井の表情には、素直に従ってはいけない危険な気配を感じずにはいられなかった。窃盗の罪は罪として、書斎から持ち出した『毘陀羅経』は、この人たちに返してはいけないと思われた。社会正義というと大げさかもしれない。が、このとき俺は、自分は窃盗犯に甘んじてもテロリストに武器を渡してはならないという気持ちになっていたのである。

「わたしが訊くわ、代わりなさい」

 野島を制して、岸井が俺の前に来た。威嚇しても効き目がないので、今度は女の柔らかい態度で説得に出たかと思いきや、いきなり横っ面をぶたれた。

「素直に本の在り処を言わなければ、もっと痛い目をみるわ」

 大人が中学生を殴るのかよと思ったが、この女には俺が大事な物を隠匿している憎い男にしか見えていないようだった。血走った目には正気を失った暗い感情しか映っていなかった。

 岸井がさらに俺に手を上げたとき、俺の悲鳴を消すためだろう大音量になっていたテレビが、ニュースの一報を伝えた。

『昨夜、秋葉沢公園の管理事務所が何者かによって襲撃され、管理人の岡一郎さん(66歳)が怪我を負い病院に搬送されました。容態は重傷ですが意識はあるとのこと。本人の証言によれば犯人は『大男で首がなかった』ということですが、これは気が動転して見誤ったのであろうと、警察はみています』

「尸半尸がまだ動いている」

 野島が呆然となってつぶやいた。

「それなら、問題はないわね。いずれ学長を殺してくれるわ」

 テレビを向いて、岸井が安心したというように唇の端を上げた。

「おい、お前たち」

 怪我をしたのはあのバーコードでそら豆頭の管理人だ。人が重傷を負ったのだ、同情をしてしかるべきだろう。それをかわいそうに思いもせず、自分たちに都合のいい尸半尸という化け物が生きていることのほうが大事だという。とんだ自分勝手だ。

「そんなに学長が憎いのか、学長は悪い人じゃないぞ。あんたの恋人が死んだのは自業自得じゃないか」

 俺は腹立ちまぎれに、足元に置いてあった通学鞄を思いきり蹴ってしまった。ふたが開いて教科書だのノートが散乱した。そのなかに『毘陀羅経』があった。

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安泉寺の千鶴 イジス @izis

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