第18話 御蔵堂

 山の中腹に『御蔵堂』という岩屋がある。岩の間にできた洞穴で八畳くらいの広さだ。

 そこに四人の行者と千鶴がいた。四人の男は結袈裟と兜巾をつけたいかにも行者らしい成りの者もいれば、背広に鳥打帽を被った普段着の者もいて服装はまちまちだった。行者姿の者が焚火の前に座って祈祷を行い、ほかの者は祈祷の様子を覗き込んだり洞窟の壁に凭れたりしている。千鶴はその中で腕組みをして立っていた。

 せっかく山を登って助けにきたのに、救出を待って怯えているどころか、まるでふんぞり返っている。どんな状況なのか知らないが、たしかに千鶴のお母さんが言う通り、身の危険なんて心配しなくてよかったようである。

 焚火の前に座っていた行者姿の男が突然立ち上がり、声高に呪文を唱え、印を結んだ太い両腕を激しく震わせた。何事か起こらんと、俺は生唾を飲んで見守ったが、しかし、何も起こらない。激しく燃えている焚火の炎が、心なしか色を澄ませただけだ。気合で自然がどうなるものでもない、人の意思で森羅万象が動揺することはないのだ。

 俺は出て行って千鶴に声をかけようとした。そのときだった。いきなり風が巻いて、焚火の炎が一気に大きくなった。そして、火が形を変えるようにして大きな人の姿が現れた。青黒い肌をした半裸の大男である。左右の牙が互い違いに上と下を向き、右の目だけギョロリと大きい、俺は驚いてしまった。何もなかった空間からいきなり怪物が現れたのである。肝をつぶして当然だ。ところが男たちは平然としている。彼らにとってこうした事態は特別なことではないらしかった。とはいえ、現れたのは恐ろしい姿をしたやつだ、のんびり構えていられるのか。地面に片膝を突いた千鶴が、開いてあった本から呪文を読み上げ、顔を上げて手を振った。何をどうしたのかわからない、が、怪物は両手で顔を覆ってたじろぎ、恐ろしい叫び声を出すと、まっしぐらにこっちへ、木を薙ぎ倒して空中を吹っ飛んできた。

 目の前に怪物の大きな体が迫り、もうだめかと思った瞬間、まるでドライアイスが気体になって消えるように、怪物は霧になって俺を通り抜けて行った。

「なんなんだよ、これは!」

 頭を抱えていた俺は、叫んで立ち上がった。

 男たちが睨んでいる。そりゃ、こんな山の中でやってることだ。きっと人に見られたくないことだったのだろうから、そこへ部外者が現れたら驚くだろうし、また困ったことになったと思ったのにちがいない。

「千鶴を返してもらいに来た」

 俺は男たちを睨み返しながら、近づいて行った。くそ度胸だけが俺の取り柄である。

 意外と男たちはあっけらかんとしていた。それどころか、いくぶんほっとした表情を見せて、洞窟の奥にいた千鶴を呼んでくれた。

「あら、健ちゃん。迎えに来てくれたの」

 千鶴が例の『毘陀羅経』の本を抱えて走ってきた。


 俺たちが山道を下りかけると、太い首に結袈裟を掛けた男が呼び止めた。ここで見たことは下界に行っても話してはならないと、口止めされるのかと思ったら、とくにそんなことはなく、男はニコニコしていた。

「千鶴さん、たしかにきみの言う通りだったが、それは邪法だ。使えば必ず災いが起こるぞ、気をつけてな」

「ありがとう、おじさん」


 しばらく山道を下りてから、俺はきいてみた。

「あの男たちに無理やり連れて来られたのじゃなかったのか」

「ちがうわよ。この本に書いてあることを試したかったのだけど、頼んでも笑うばかりで相手にしてくれないから、ぶん殴って力づくで引っ張ってきたの」

 無茶をされたのは男たちのほうだったようだ。そういえば、しかめっ面をして洞穴の壁に頭を当てていた男は、たんこぶを冷やしているようだった。

「それで、なにかわかったのか」

「見たでしょ、あんたバカなの。青不動をやっつけちゃうんだから、いい本もらっちゃった」

 勝手に持ち出して来たんじゃないかと言いたかったが、千鶴が急に早足になったので、従いて下りるのに精いっぱいだった。

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